ガダルカナルの戦いは昭和十七年(1942)八月から翌年の二月、日本軍の撤退まで半年間にわたって行われたのだが、この間に戦いの様相は日本軍の勝ちパターンから負けパターンへと変化して行った。当初は空でも海でも日本軍の個々の優位は残っていて、アメリカの航空隊が飛べない夜間の制海権は日本側に移ると言われていた。しかし昼になると日本のラバウル航空隊は短時間しか上空にいられないので十分な援護ができない。日本軍の補給は困難をきわめ、多くの輸送船をこの海域で失った。
 ガダルカナルはかなり大きな島(千葉県よりも大きい)だが全体は熱帯のジャングルに覆われている。形の上では飛行場を包囲している日本軍には武器も食糧も届かなかった。中国戦線では日本陸軍の得意芸だった銃剣突撃では、火力にすぐれた飛行場の防御陣地には通用しない。夜陰にまぎれて少人数で敵陣に奇襲をかける「斬り込み隊」の活躍などが美談として伝えられたが、もちろんそれで挽回できるような戦況ではなかった。
 海軍も高速の駆逐艦を使って補給物資を運び、潜水艦までも動員するほど協力したのだが、それはまた本業であるべきアメリカ軍輸送路への攻撃を弱めることを意味していた。戦艦を含む日本艦隊が、夜間にヘンダーソン基地を砲撃して飛行場を火の海にしたこともあった。陸軍の総攻撃と連動すれば勝機があったとも言われるが、それでアメリカ軍を完全に撃退できたかどうかは疑問が残る。
 この時期に戦艦「武蔵」が就役して戦列に加わった。「大和」と同型だが旗艦としての指揮機能を追加した新鋭艦であり、期待を集めてトラック泊地に参加した。ところがそこから先へは一度も出動していない。動かない「大和」は海軍部内で「大和ホテル」と揶揄されていたが、こちらは「武蔵御殿」と呼ばれるようになった。ガダルカナルをどうするつもりだったのか、日本海軍は、ただ日暮れを待っていたように見える。
 その間にも技術革新は進む。電波探知機(レーダー)が実用化されて、この頃から暗夜でのレーダー射撃も可能なレベルに近づいてきた。日本側でも研究が進んでいて、さほど遅れない技術は獲得していた。ただし応用技術力と工業力でアメリカを上回ることはなかった。時間経過とともに日本軍の相対的な戦力は低下して行く。
 悲惨だったのは地上に取り残された陸海軍の残兵である。広い島内に数次の作戦で送り込まれた兵が散在して暑熱と泥濘と飢餓にさいなまれていた。ガダルカナルに送り込まれた兵力は累計で三万名を超えたが、半数の一万五千は餓死か病死して、戦闘での死者は五千名と言われる。唯一の救いは、残りの一万名が撤退作戦で生還したことだった。これがガダルカナル作戦における、日本軍の最初で最後の成功例だった。