志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2015年06月

安倍政権の暴走を止めるには(2)(池田幸一メール)

(池田幸一さんの2015年6月29日のメールです。)
 皆様。池田幸一です。
 <承前> 以上のように田中耕太郎の「砂川判決」は、“米軍基地は憲法違反であり、それをを容認した日本政府は憲法9条を犯している”とする伊達判決を覆したもので、時の最高裁はアメリカ大使に内通して裁判の中立性と守秘義務を踏み外し、また司法のトップがそれらを意図的に犯した稀に見る売国行為は我が国司法の尊厳を地に落とし、対米従属の原点をなす不祥事であります。それらの中に憲法への合憲性が何処にあるというのでしょうか? 
 日刊ゲンダイが伝えたこれだけのビッグニュースを、マスコミのどこが国民に伝えたでしょうか?東京新聞と毎日新聞が小さく報じただけ、国会でも誰一人問題にせず、「砂川判決」には秘められた緘口令が出されているのでしょうか。私は昵懇に願っている「選良」さんにお願いし、更に論点を練り上げて「砂川判決」と、それを根拠の「砂川合憲説」を正してほしいのです。この売国奴になぜ我が国最高の菊花大綬章を与え、従2位に遇せねばならないのか?その理由も合わせて知りたいのです。
 自民党の軍師とされる高村正彦議員がでっち上げた「三段論法的合憲論」は、柄のない所に柄をすげた牽付会の強引さが目立ちます。憲法学者の殆どが違法とされるのも当然、一つの「高村の談話」であって学問には程遠い。これを国辱的な「砂川判決」弾劾と合わせ、この際決着をつけてほしいのです。評論家の天木直人さんが翻訳されたアメリカの極秘電報3通を、以下添付いたしますので、ご覧下さい。
   1)1959年4月24日付電報
 最高裁判所は4月22日、砂川裁判の東京地方裁判所判決に対する最高検察庁による上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに伴い、被告の弁護側は彼らの立場を示す文書を提出することになる。外務省当局者は大法廷での上告の審理はおそらく7月中旬までに始まるだろうと我々に伝えている。しかし、現時点では、判決が下される時期を推測するのは不可能である。田中裁判長は大使(筆者註:マッカーサー駐日米国大使)との内密の会話の中で、本件訴訟は優先権が与えられているが、日本の手続きでは、判決に至るまでには、審理が始まった後少なくとも数か月はかかる、と述べた。
   2)1959年8月3日付電報
 共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は駐日米国大使館首席公使に対し、砂川裁判の判決はおそらく12月になると今は思うと語った。田中裁判長はまた、弁護団は裁判の結審を遅らせるためにあらゆる可能な合法的手段を試みているが、彼(筆者註:田中裁判長)としては争点を事実問題ではなく法的問題に限定することを決めていると述べた。この考えに立って、彼は、9月はじめに始まる週から週一回、それぞれ午前と午後の二回開廷すれば、遅くとも三週間で口頭弁論を終えることができると確信している。問題はその後に生じうる。なぜなら彼の14名の同僚裁判官たちの多くがそれぞれの見解を長々と論じたがるからだ。裁判長はまた、結審後の評議が、実質的に全会一致の判決が下されるような、そして世論を”乱す“少数意見が回避されるようなやり方で行われるよう希望していると付言した。コメント(筆者註:これは米国公電に書かれている言葉で米国大使のコメントである。私のコメントではない)
 (米国)大使館は最近、外務省や自民党の情報源から、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月から始まる通常国会まで延期する決定をしたのは、砂川裁判判決を、最高裁判所が当初意図していた晩夏ないし初秋までに出す事が不可能になった事に影響されたという複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川裁判の進捗状況が新条約の国会提出を延期した決定的理由ではないが、砂川裁判が審理中であることは、そうでなければ避けられたであろう、社会主義者やその他の野党に論争点を与えかねないと受け止められていることを教えている。さらにまた社会主義者たちは米軍の日本駐留は憲法違反であるという地方裁判所の判決に強く傾倒している。もし最高裁判 所が地方裁判所の判決を覆し、国会で審議が行われているその時に、政府側に有利な判決を下すなら、新条約を支持する世論の風潮は大きく助けられ、社会主義者たちは政治的柔道の中で、みずからの奮闘により逆に投げ飛ばされることになろう。
   3)1959年11月5日付電報
 田中裁判長との最近の非公式の会話の中で、我々は砂川裁判について短い議論をした。裁判長は、時期については明言できないが、いまや来年のはじめまでには最高裁は判決を下すことができるだろうと言った。彼は、15人の裁判官にとって最も重要な問題は、この裁判に取りかかる際の最大公約数を確立することだと見ていた。田中裁判長は、可能であれば、裁判官全員が一致して、適切で、現実的な、いわば合意された基本的規準に基づいて裁判に取りかかることが重要だと言った。彼は、裁判官の何人かは「手続上の観点から事件に取りかかろうとしているのに対し、他の裁判官は「法律上」の観点から事件を見ており、さらにまた「憲法上」観点から問題を考えている者もいることを、示唆した。
 (私は田中との会談からつぎのように推測できた。すなわち何人かの裁判官は、伊達判事を裁判長とする第一審の東京地方裁判所には米軍駐留の合憲性について裁定する司法権はなく、東京地方裁判所は、みずからの権限と、米軍基地への不法侵入という東京地方裁判所に最初に付託された争点を逸脱している、という厳密な手続上の理由に基づいて判決を下す考えに傾いている。他の裁判官は、最高裁判所はさらに踏み込んで、最高裁判所自身が米軍の駐留が提起する法律問題を扱うべきだと考えているようだ。さらにまた他の裁判官は、日本国憲法の下で日米安保条約は憲法より優位であるかどうかという、憲法上の問題に取り組むことを望んでいるかもしれない。)
 田中裁判長は、下級審の判決が支持されると思っているような様子は見せなかった。それどころか反対に、彼は、それは覆されるだろうが、重要な事は、この事件に含まれている憲法上の争点について判断が下される場合は、15人の裁判官のうち、できるだけ多くの裁判官が一致した判決を下すことだと考えている印象だった。すなわち、伊達裁判官が憲法上の争点について判断を下したことは大きな誤りであったと、彼は述べた(了)
       <この項完>

お知らせ・明日7月1日は第一水曜日なので、昼休みの国会一周に行きます。12時に地下鉄丸ノ内線「国会議事堂前」駅の改札出口前からスタートして議事堂を一周し、その後適宜に昼食するのを例にしています。
追伸・雨天なので来週に延期します。

安倍政権の暴走を止めるには(1)(池田幸一メール)

(池田幸一さんの2015年6月28日のメールです。)
 皆様。  池田幸一です。
 選ばれる人のことを「選良」と云うのだそうですが、この度の騒ぎをしげしげ見ていると、失礼ながら「選バカ」とより申し上げようがない。これで自民党と安倍総理の支持率は暴落したのでしょうが、桜里さんが仰せのように、いったい自民党とは何なのか?「保守」と位置づける事自体が間違っているように思います。異常な異論封じと数を頼んでの傲慢、独断と専権は明らかにフアッショです。
 しかしこの「選バカ」さんは、一人ひとりが“賛成”と右手を挙げるだけのロボットであって、党議に従って確実に一票を稼ぎます。自らの判断すらも出来ない「選バカ」を選んだ国民の良識が問われるところですが、ボスの安倍総理は“何処かの時点で議論が尽くされたという判断がなされれば、決める時には決める”と、早くも採決に前のめりです。この人にとってはアメリカとの約束が至上命令で、近いうちに有無を言わさず採決する気でしょう。そうでないと内閣が潰れるからです。
 国民各層の激しい反対も総理には通じず、60年安保や92年のPKO法案の例を挙げ、“法案が実際に実施される中で理解は広がるものだ”と取り合いません。大庭さんは“野党が一丸となって廃案に持ち込むしかないでしょう”と仰せですが、果たして今の野党にそれだけの力があるでしょうか。マスコミも牙を抜かれた状態で頼りにならず、連日の激しいデモも蛙の面に何とやら、このように我が国のひ弱い民主主義は、あれよあれよのうちに押し切られようとしています。さて、この暴力に立ち向かうにはにどうすればよいのでしょうか?
 私は迷うことなく素直に問題の核心を突くべきだと考えます。安倍総理は26日の答弁で、従来の高村正彦根拠を踏襲し犧2鵑痢岼楕欖慙∨^董廚郎柔酥酬茲旅佑方に沿ったもので、その判決は自衛権の限定容認が合憲である根拠たりうる”と言明致しました。つまり、法案に盛り込まれた集団的自衛権行使容認が憲法9条に反しないというのです。しかしこの考え方は殆どの憲法学者や法曹界の違憲判断に真っ向から反する主張であることは明らかです。
 いま論じられている些末な事象よりも、私はこの法案が果たして合憲であるのか、否か?これを徹底的に正せばどうかと思うのです。憲法98条には“この憲法は国の最高法規であって、この条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。”とあります。いくら無理矢理法案を押し通したところで、違憲であれば折角の「安保関連法案」も全て無効、喧々諤々と論じる事自体がナンセンスです。
 安倍総理が合憲の根拠とする「砂川判決」を洗い直し、白黒をはっきり検証することが最も判り易くて早道です。国会の場で「砂川判決」が裸にされ、安倍総理の言い分が間違いだと証明されれば忽ち廃案。それなら国民も納得するのではないでしょうか?総理は目がくらんでいる、“飛んで火に入る夏の虫”とはこのことで、「砂川判決」には我が国司法の拭いがたい汚点でいっぱい、藪を突いて蛇を出した事を後悔することになるでしょう。白崎さんは癸械隠僑隠靴念焚爾里茲Δ法¬簑蠅粒某瓦魃圓突いておられます。
 >砂川判決における「統治行為論」なるインチキをおこなった「田中耕太郎」なる人物こそ、無法日本、そして対米従属の象徴なのです。ここをもっと、マスコミは報道しないとダメです。この「砂川判決」を総括しない限り、日本の憲法はまともにならない〜と判断しました。また、いまの「解釈改憲」のインチキもここに根拠があります。本来、憲法解釈は最高裁にあるのに、その最高裁が米国に従属している。それをいいことに、閣議決定と言う三権分立を無視した憲法停止政府が大きな顔をする。こうして、日米安保>憲法という戦後史の枠組みができあがったのです。国民はもっと怒るべきです。これは、集団的自衛権云々以前の基本の基本の問題が無視されていることなのです。<
 私もまったく同感で、この度図らずも脚光を浴びた「砂川判決」は、時の最高裁裁判長田中耕太郎の売国行為を始め、スキャンダルに満ち満ちています。今に至るも諸悪の根源になっている事実を、この際はっきりすべきどと思います。アメリカに内通し、圧力に屈し、基地を憲法違反とした伊達判決をひっくり返し、最高裁の権威を失墜させた判決は、いま元被告人の手によって再審請求の訴訟中です。私は安倍総理の怪しげな合憲根拠を暴くと共に、この訴訟の解明にも拘りたいのです。6月19日の日刊ゲンダイは次のように報じています。
 >安保法案“合憲”の根拠…砂川裁判の当事者が怒り「許せない」・・・・・ 安倍政権は集団的自衛権の行使容認が合憲である根拠として、1959年の砂川事件の最高裁判決を“錦の御旗”にしているが、この上告審は裁判長(最高裁長官)が米国に魂を売って書き上げた「デタラメ判決」だったことを国民はよく考えた方がいい。当時の田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー在日米国大使と密かに話し、砂川判決を政治的にねじ曲げたことが、米国の公文書で明らかになっているのだ。そんな判決文を安倍政権があえて持ち出したことに対し、裁判の元被告人である当事者が18日、ついに怒りの声を上げた。<
 >衆院議員会館で会見を開いた元被告人は土屋源太郎氏(80)。1957年に米軍立川基地の拡張反対闘争で基地内に侵入したとして逮捕・起訴されたひとりだ。土屋氏らは米国の公文書を根拠に、最高裁判決が憲法37条の「公平な裁判所」に違反しているとして、現在、砂川事件の再審請求訴訟を行っている。「(安保関連法案で)この汚れた、まさに無効の判決を持ち出して引用することは大きな欺瞞だ。国民をだます方便でもあり、我々当事者は絶対に許せない」(土屋源太郎氏)<
 >米公文書では、田中最高裁長官と米大使の密通がクッキリだ。極秘公電は3通あり、裁判の日程や進め方、判決の見通しについてまで事細かに報告されている。当時、日米安保条約の改定の議論が始まっていて、砂川事件の1審判決(米軍駐留は違憲)がネックになっていたことから、米国は最高裁の早期の逆転判決を希望していた。公文書には〈田中裁判長は、来年のはじめまでには最高裁は判決を下すことができるだろうと言った〉〈田中裁判長は、下級審の判決が支持されると思っているような様子は見せなかった〉とまで書かれているのだから驚く。<
 >こうした事実を政府が知らないはずはない。再審請求訴訟で極秘公電の翻訳をした元外交官の天木直人氏は、「判決の成立過程を知りながら合憲の根拠にしたなら、これほどフザケタ話はない」「安倍政権の安保法制の合憲性の議論以前に、田中最高裁長官が憲法違反」と憤った。土屋氏は、そもそも「砂川裁判の最高裁での審理で、自衛権の議論はなかった」とも明言した。デタラメ判決が再審となれば政府は赤っ恥をかく。悪いことは言わない。安保法案をいますぐ引っ込めるべきだ。<
   <以下次項へ>

映画「沖縄・うりずんの雨」を見る

 アメリカ人のユンカーマン監督が沖縄を題材にして作った映画(岩波ホール・7月31日まで)を見てきました。「うりずん」とは、本土よりも早い沖縄の雨季をさす言葉で、沖縄戦があった3月から6月ごろを思い出させるのだそうです。英語タイトルは「The Afterburn」で、これは火が消えたあとで火傷の傷が深くなって行くことだそうです。私は、この英語タイトルの方が内容をよく表していると思いました。
 構成は「沖縄戦」「占領」「凌辱」「明日へ」の4部からなります。第1部ではアメリカ側からの映像資料や証言も多用されて戦争の実像を再現します。日本の民間人は、なぜアメリカ軍の呼びかけを拒んで死ぬことを急いだのか、それは今も解けない謎であり、元アメリカ兵の心の傷でもあるのです。戦争の狂気への、第一の問いかけです。
 第2部では沖縄がアメリカの戦利品であり、日本攻略の基地から世界戦略の基地へと進化した過程を、赤裸々に明らかにして行きます。征服者としての権利意識は、沖縄の本土復帰が実現したあとも変わりません。日本政府もまたアメリカ側と一体化して差別する側に立ち、世界戦略に利用しているのです。
 第3部では戦争と女性凌辱との関連が考察されます。戦争に「性」の供給が必要不可欠である事情は日本軍もアメリカ軍も同じでした。現在のアメリカ軍の場合は、隊内の女性兵士への性暴力という問題を深掘りして、思わぬ側面を暴いて見せてくれました。中でも驚いたのは、大規模抗議の原因となった12歳少女へのレイプ事件の犯人3名はいずれも刑期を終ってアメリカへ帰国していますが、その中の1名の元黒人兵を取材して、実名と顔をさらしての悔恨の言葉を述べさせていることでした。なぜあんなことをしたのかわからない、最悪の夜だったと繰り返すばかりです。
 そして第4部で基地反対の運動に起ち上る辺野古の人々が描かれます。明日への希望はそこにしかありません。そして全体を通して「人間にとって戦争とはどうしても無くすことのできないものなのか」という、この監督の根源的な問いが横たわっているのに気がつきました。個々の編集や構成には疑問を感じる部分もありましたが、監督の「骨太の思想」は伝わってきました。
 改めて感じたのは、辺野古の基地を沖縄県民と日本国民の力で止めることができるかどうか、その帰するところは、人類の未来にとって大きな分岐点になるだろうということでした。

小説・昭和からの遺言(41)戦火はフィリピンから沖縄へ

 「絶対防衛圏」が簡単に破られてからの日本軍の崩壊は早かった。昭和十九年(1944)の終りから翌年にかけて、アメリカ軍はレイテ島に始まるフィリピン奪還の戦いを着々と進めて行った。ただしフィリピンでは島が大きいから日本軍も簡単には玉砕(という名の全滅)をしない。それと、アメリカ軍の上陸を海岸で撃退するのは無理とわかって、陣地にこもって長期間抵抗する「長期持久」を基本とする戦術をとるようになった。つまり後方にある日本本土のために時間をかせぐ「捨て石」になる作戦である。
 これが徹底的に行われたのが沖縄戦だった。しかしフィリピンでは、陣地を構築しなくても密林に覆われた山地に逃げ込む方法があった。ミンダナオ島に配置された部隊の中には、敵の上陸が予想されると重い兵器は故障したことにして破壊した上で、早々と山中に退避した例があった。アメリカ軍との遭遇は形ばかりの「斬り込み隊」程度にとどめ、ひたすらに安全を求めて移動しながら自給自足の生活を成立させ、終戦による正式の軍命令を受けてほぼ全員が投降・生還している。
 この隊員の手記を読むと、敵に向けての発砲は一発もしていないのだから、戦うという本来の目的には隊をあげて何の働きもしていない。内地で召集されて教育を受け、船で輸送されて現地に着き、海岸に陣地を築いて訓練に明け暮れていたのが何の役にも立たなかったわけだ。これで戦争に勝てるわけがないのだが、それでも上官と隊長に人を得れば生還することができた。戦争とは、何という無駄の集積であることか。
 沖縄はこの年の十月十日にアメリカ機動部隊による激しい空爆を受けていた。那覇市街はほぼ全焼し、飛行場の航空部隊、港にいた艦艇や船舶も壊滅的な被害を受けた。このときまでアメリカ軍は台湾を攻略する戦略を立てていたが、日本軍の弱体化を見て、台湾を省略して次は沖縄を目指すこととした。沖縄の基地を使えば日本本土への空襲はさらに効果的になり、九州上陸を手始めとする本土上陸作戦が視野に入ってくる。アメリカ軍の対日作戦は、いよいよ完全勝利に近づくところまで来たのである。
 この年十二月十九日、大本営はレイテ作戦の終了を発表した。しかしアメリカ軍はフィリピンの全土占領を目指していたため、翌年になってもフィリピンでの戦いは日本の降伏による終戦に至るまで長くつづいた。フィリピンに配置されていた日本軍の兵力は四十万にも達していて、これはアメリカ軍の総計三十万よりも多かった。だが島ごとに分散していて連携して戦うことができず各個に撃破された。
 やがて沖縄での戦いが始まると、フィリピンの戦況は国民の関心事ではなくなった。フィリピンでの日本軍の戦没者は三十三万、米軍のそれは一万四千だった。

小説・昭和からの遺言(40)戦争は本土に迫る

 サイパン島の玉砕につづいて、昭和十九年(1944)七月のうちにグァム島とテニアン島に相次いでアメリカ軍が上陸し、守備隊は玉砕していた。玉砕はすでに日常のニュースでしかなかった。これらが基地として使用され、日本の本土が爆撃されることは必至となった。東京をはじめとする大都市では、学童を集団で疎開させることになり、地方の旅館や寺院などを宿舎とする「集団疎開」が始まった。家庭ごとに地方の親戚などを頼る疎開も奨励されるようになり、これは「縁故疎開」と呼ばれた。
 中学・女学校以上については「学徒勤労動員」が徹底され、徴兵で手薄となった工場労働者の不足を補うため、すべての生徒が工場で働き、あるいは学校の一部を改装して部品の製造に参加するなどの奉仕を求められた。当初は細々とつづけられていた学業も、やがて通年で全面停止となり、理系以外の学校教育は、国民学校(小学校)以外では行われない状況になって行った。
 東京の幼稚園はこの年の四月から全面的に休園となった。宝塚歌劇団も松竹歌劇団も休演・解散となり、団員は戦地慰問の「挺身隊員」と呼ばれることになった。「決戦非常措置による高級享楽の停止」により、東京歌舞伎座をはじめとする大劇場は休場し、繁華街の映画館も整理を命じられた。紙の使用も厳しく制限されて新聞の夕刊は廃止となり、各社の日刊新聞は表裏二ページのペラ一枚だけになった。 
 閣議では八月に「国民総武装」を決定した。軍事訓練を国民すべての義務と定めたもので、これにより隣組では主婦の「竹槍訓練」などが行われた。竹槍で爆撃を防げるのか、敵兵と戦えるのかなどと疑問を口にするのは厳禁だった。この少し前の毎日新聞に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事を書いた記者がいたが、当局から「国賊的行動」として怒りを買い、発売禁止と編集責任者の処分を命じられていた。
 武器がなければ戦えない。大本営発表では戦果をあげているはずなのに、敵の攻撃力が一向に衰えないことに焦りを感じていたのは、国民ばかりでなく軍部も同じだった。人命を無視した非常手段で敵に打撃を与えるため、各種の「特攻兵器」が開発されて大急ぎで量産され、その要員の訓練が始まった。海軍には人間魚雷「回天」、爆装モーターボート「震洋」、人間爆弾「桜花」、人間機雷「伏竜」、特殊潜航艇「海龍」などがあった。
 これと並行して、皇居・大本営の疎開先として長野県松代に堅固な施設を建造する計画が本決まりし、建造が始まっている。このとき軍部からは「大陸に移動願う」という案も出されたが、天皇は「あくまでも皇大神宮のある神州を死守せねばならぬ」という強い意向を示したと伝えられる。天皇の認識は「朕は国家なり」に近かったようだ。

「チンチン電車と女学生」(8月6日・ヒロシマ)を読む

 広島の「深山霞」(藤森照幸)さんから送っていただいた「チンチン電車と女学生」(堀川恵子/小笠原信之・講談社文庫)を読みました。戦時下の広島で養成校の「広島電鉄家政女学校」で学び、運転士や車掌として働いていた少女たちの物語です。徴兵された男性社員に代わって広電の運行を支えている中で8月6日の原爆に遭遇しました。
 著者の堀川恵子氏は元広島テレビの放送記者で、ドキュメンタリー番組「チンチン電車と女学生〜2003・夏・ヒロシマ」を制作しており、その年の話題作となりました。さらにテレビ番組では伝え切れなかった関係者の証言や、1台の車両を見学したことから始まった奇跡的な「歴史の掘り起し」の経過を含めた記録の全体を、単行本として2005年に日本評論社から発行しました。それを最新の文庫本としたのがこの本です。
 広電の「家政女学校」は2年半しか存在しなかった学校で、広電の内部でさえ存在を知っている人は少なかったのですが、名簿が発見されて309名が在籍していたことがわかりました。ちょうど今の高校生に当る年齢です。電車の技術だけでなく、女学校的な教科も学びながら給料を貰えるというので、近隣の島や農村部からも、向学心の強い少女たちが募集に応じて集まりました。しかし戦争の苛烈化とともに教育内容は実務中心となり、未熟な少女たちもどんどん乗務につくようになります。
 そうした経験談は、「あの時代」に生きた少女たちの日常を、生き生きとよみがえらせます。練習用の車両などはなく、客を乗せた車両で「師匠」について運転法を習い、次には自分で運転して助言を受け、その次には一人で運転しなければなりません。その緊張感はわかりますが、鉄道好きの私は、うらやましいとさえ思ってしまいました。運転には免許が必要な筈ですが、証言には資格試験や免許の話は一切ありません。すべては広電の裁量に任されていたのでしょう。
 そして1945年の8月6日がやってきます。運行中に被爆した車両は70両にのぼりました。勤務中だった少女社員はほぼ200名と推定されます。その中で証言を残しているのは、もちろん生き残った人たちだけです。家政女学校の関係者は実践女学校の講堂に集まって手当てを受けますが、そこを最後として女学校は事実上消滅しました。広島電鉄は、わずか3日後に一部区間で電車を走らせて市民に希望を与え、そこで乗務した少女もいました。
 しかし直後の終戦の混乱の中で、本社も被爆しており、女学校の解散が告げられましたが退職金の支払いなどは行われませんでした。間もなく男性の社員たちが復員してきて、少女たちの居場所はなくなりました。寄宿舎の金庫にあって焼け残った貯金通帳だけは、先生の手で本人たちに返されたとのことです。その後の少女たちがどのようにして大人になり戦後を生きて行ったかまでを、この本は丁寧に聞き書きしています。
 私も好きなあのヒロデンの歴史の中の、短いけれど忘れられない部分を記録した第一級の資料でした。
(追記・藤森さんのお便りに「皆様で回覧していただければ幸い」と書いてありました。ご希望の方は、メールにてご連絡ください。)

ブログ連歌(408)

8139 非道過ぎる 世相に背を向け われ独り
8140  癒しを求め 猫とたわむる (うたのすけ)
8141 ニャンとまあ 人間さまは 勝手なの (建世)
8142  猫の世界じゃ 個々の自衛権 (うたのすけ)
8143 憲法を どろぼう猫が 食い散らし
8144  テレビ討論 素知らぬ顔で (建世)
8145 研究者の 声も聞かず 先人の
8146  忠告も聞けない 安倍政権 (獣医さん)
8147 村山 河野 山崎(拓) 藤井(裕) 武村 亀井 
8148  みんなが違憲を 口にする (獣医さん)
8149 ノーベル賞  「九条」推薦 二度の受理 (みどり)
8150  潮目変えたい 新しい波 (建世)
8151 日本中 イケンイケンで 日が暮れる
8152  イケンの法律には 従うこともなし (獣医さん)
8153 梅雨なかば 鬱情晴らし カンナ燃ゆ (みどり)
8154  こころ騒げど 花は語らず (建世) 
8155 安穏の くらしに巣くう 蟻地獄 (みどり)
8156  上がっては落ち 落ちては上がり (建世)
8157 沖縄の 慰霊の日にも 安倍の顔 (建世)
8158  しらじらしくも 犠牲者追悼 (みどり)
8159 友ありき 夏バテ非ぬ 嘔吐あり  
8160  因果は安倍の 下卑たる態度 (みどり)

小説・昭和からの遺言(39)敗戦つづく台湾沖そしてレイテ島

 敗戦つづきの中で、天皇はじめ大本営の面々が神仏にも頼りたい思いで願ったのが「敵を引きつけて撃滅する」一勝であったろう。昭和十九(1944)年十月、アメリカ機動部隊は台湾を襲って大規模な空襲を加えてきた。日本の本土と南方との連絡路を破壊する大胆な作戦だった。これに対して日本の基地航空隊が反復して攻撃をかけ、三日間で敵の空母十九隻、戦艦四隻など四十五隻を撃沈破したと大本営は発表した。ラジオニュースの冒頭には久しぶりに軍艦マーチが流れ、国民は喜びに沸いた。
 しかしこれはとんでもない虚報で、事実は巡洋艦二隻に損傷を与えただけだった。日本側の戦果確認能力が極度に劣化していて、現場からの希望的な報告をそのまま集計した結果だった。この作戦では夜間の雷撃という常識外れの戦法も実行している。ベテランでも難しい神業のような攻撃を未熟な搭乗員にさせておいて、自爆して暗夜に火柱が立つと空母一隻撃沈と数えるような「温情の報告」が横行したと言われている。上層部も薄々気づいたが、報告を訂正する根拠もないのだった。
 アメリカ側は放送を聞いて日本側の誤報を知ったが、そのまま秘匿してすぐ次の作戦に移った。次の目標はフィリピン中部にあるレイテ島だった。マリアナから直接に日本本土へ向かうと、フィリピン方面には無視できない日本艦隊が石油資源とともに残っているので補給路の側面に不安が残る。それに、総司令官のマッカーサーにはフィリピンを去るときに残した「 I shall return 」の約束があった。
 レイテ島へのアメリカ軍の上陸を迎えて、日本海軍は最後の総力戦を試みた。残存するほぼすべての艦艇と航空機を集め、本土からも囮の空母艦隊を出撃させて、西南方から戦艦部隊を突入させてレイテ湾のアメリカ艦隊と上陸部隊を砲撃しようとした。しかし目的のレイテ湾には到達することなく、戦艦「武蔵」はじめ全空母四隻など多数の艦艇を失う結果に終った。日本海軍は、ここに事実上壊滅した。
 このレイテ沖海戦で、海軍は初めて「神風特別攻撃隊」を編成した。それまでにも体当り攻撃の例はあったが、作戦として正式に採用したのである。志願者を募ってゼロ戦に爆弾を装着して突入させたところ、最初の敷島隊の五機で空母一隻撃沈、三隻に損傷を与える戦果をあげた。大本営はこれを大々的に報道し、新聞は隊員を「軍神」と讃える記事を特集した。このとき新聞の小さな記事で「秘密にしておけば敵は日本が無線操縦の飛行機を開発したと思うだろう」と隊員が語ったと書いていた。
 アメリカ軍はすでに対空砲火に近接信管を開発しており、防空能力を飛躍的に向上させていた。物量と技術開発力で差をつけられた日本軍の最後の戦法が「特攻」だった。

小説・昭和からの遺言(38)東条内閣総辞職と終戦工作の不発

 サイパン島の失陥により、東条首相の権威は深刻な打撃を受けた。自ら首相と陸軍大臣と参謀総長を兼任し、独裁者に近い権限を握っていたのだから、戦局の悪化については責任を負わねばならない。かねて開戦の決定に対して慎重で、開戦後も早期和平の道を模索していた重臣たちの中から倒閣の運動が起こった。サイパン島の放棄について不満を感じていた天皇の、東条首相への信頼感も揺らいでいた。
 後任に指名されたのは、小磯国昭・陸軍大将と米内光正・海軍大将だった。首相は小磯で、小磯内閣と呼ばれたが、米内も同格で、海軍大臣を兼ねる副総理という位置づけだった。陸海軍が一体となって国難に当るようにという、天皇の意向を反映したと思われる。しかし現在進行中である戦争の流れは、担当者が交代しただけで変るものではない。戦前には日独伊三国同盟に反対した米内にも、できることは限られていた。
 もし後の東京裁判で認定されたように、太平洋戦争を計画し実行した主犯格が東条英機に代表される陸軍であったとしたら、東条内閣が倒れた時点で本格的な和平工作の開始が可能だったはずである。じつは天皇の弟宮で海軍の軍人だった高松宮は、サイパン戦のときに天皇との会話で戦争の終結を進言している。しかし天皇の言葉は「それは政治の問題だから」という言い訳でしかなかったと伝えられている。
 日本の場合はヒトラーのような特異な世界観と使命感に凝り固まった独裁者がいたわけではなかった。天皇を戴く立憲君主制の下で、軍人を含む政治家たちが国政の舵取りをしてきたのである。それが膨張主義に傾いて大陸に進出し、欧米諸国と摩擦を起こすようになっても自制せず、逆に「アジアを欧米の植民地から解放する大東亜共栄圏」という大義名分を掲げて、一か八かの大博打に出てしまったというのが実情に近いだろう。
 その戦争を力の限りやってみた二年半の結果としてサイパン島の敗戦があった。近代戦の特徴として、均衡が破れたあとは負ける側の受ける殺戮と破壊が加速度的に増加する。先見の明があれば、明らかに「勝負はここまで」であった。しかし国をあげた戦争には惰性がついている。すべてが戦うことを前提に動いており、精神もそれに支配されている。戦争も「急には止まれない」のだ。
 国政の中心には天皇がいたが、建前は臣下の輔弼によって国を統治するのである。みだりに口を出さない代わりに臣下から責任を問われることがない。しかし臣下は天皇の意向を忖度し、その意思を代行するのが本分である。そして天皇が裁可した方針は、みだりに変えることができない。相互に依存する「日本的無責任体制」の中心に天皇がいた。その実像は、やや思い切りの悪い平均的日本人の一人だったように思われる。

小説・昭和からの遺言(37)インパール作戦とノルマンディー上陸

 太平洋でサイパン島をめぐる血戦が行われていたころ、ビルマ戦線ではインドの北東部に侵攻するインパール作戦が展開されていた。これはインドから重慶へ通じる「援蒋ルート」を切断するために企画されたのが本来の目的だったが、日本軍に協力してインド独立をめざす「インド国民軍」に活躍の場を与えるという大義名分もあり、日本軍最後の積極作戦として昭和十九年(1944)の三月に開始されていた。
 日本軍が全般的に守勢になった時期の作戦であり、空軍の支援も充分な兵站も期待できないことから根強い慎重論もあったが、イギリスの支配下にあるインド国民の独立運動を勇気づけ、作戦に呼応して内部から混乱が起きるのではないかという虫のよい期待もあった。これは「大東亜共栄圏」構想を具体化して見せる最後の作戦だった。
 この作戦には兵力としては九万名が動員され、日本軍は当初は予定通りに進撃したが、
イギリス・インド軍は守りを固めて日本軍の消耗を待った。日本軍に包囲されても空からの補給が充分にあり、逆に日本軍には空からの絶え間ない攻撃に対抗する手段がなく、食糧に窮して補給を求めても「糧は敵に求めよ」と返信されたと言われる。
 要するに南方戦線で何度も繰り返された密林の中で飢えて戦力を失う地上戦の失敗を大規模に再現する結果になった。七月になって作戦は中止されるのだが、帰還できた兵力は一万二千に減っており、最後はインド国民軍も裏切って戦線から去った。
 同じ年の六月六日、連合軍はドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディー海岸に上陸した。六千隻の艦艇と一万二千機の航空機を投入した「史上最大の作戦」と呼ばれる。事前に綿密な偽装工作が行われたため、守るドイツ軍は上陸地点の予想が外れたが、海岸では激しい攻防戦が繰り広げられた。それでも当日中に十五万以上の連合軍が上陸に成功して、占領地の拡大を始めることができた。
 ドイツ軍にとっては、長い間ソ連との東部戦線が「前線」であり、フランスは「後方」だったのだが、これ以後は東西両方から攻められることになった。ところで、この新しい西部戦線に参加した連合軍の一覧表を見るとその内容の多彩さに驚く。アメリカ、イギリスはもちろんだが、カナダ、自由フランス、ポーランド、オーストラリア、自由ベルギー、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、自由チェコスロバキア、ギリシャと十二ヶ国に及んでいる。文字通りの世界大戦であったことがよくわかる。
 二正面で戦うドイツは、第一次世界大戦と酷似した構図になった。誰が見ても、これで勝てるという予想はできないだろう。ほぼ時を同じくして、サイパン島を失った日本からも勝機は去っていた。勝負としては、もはや「これまで」である。

「次の世界戦争」が必要だと思う人たち

 安保・戦争法制をめぐって、飽きもせずに些末な議論を繰り返している政治家たちの言葉を聞いているうちに、大きな「考え方の流れ」が出来はじめていることに気がついた。それは「次の世界戦争は避けられない」ことを前提にものを考える人たちが、一定の力を持ってきたということである。この考え方の源流は、もちろんアメリカから来ている。
 結論から先に言うと、ロシア、中国、イスラムの三大勢力を、この順番につぶして行かないとアメリカの価値観で世界を統一することができない。だからますます軍事力は整備しなければならず、核兵器も実際に使うかどうかは別として、いつでも使えるように整備しておく必要がある。アメリカ単独ではなく、価値観を同じくする同盟国との連携を深めることも、ますます重要ということになる。
 アメリカの価値観とは、現在のアメリカ支配層の政治、軍事、企業にたずさわる人々の地位と財産を安泰にするものでなければならない。それは同盟国支配層の利益とも一致する。その価値観で、たとえば「国家の存立が脅かされる事態」といった言葉を理解すると、いま言われている危機感の中身が見えてくる。
 そこで生まれる疑問は、その価値観は、戦争をしてでも守らなければならないほどのものなのか、ということである。逆に言えば、ロシア、中国、イスラムの価値観は、世界にとってそれほど危険なものなのかという疑問になる。ロシアによるクリミアの併合やウクライナ問題は、裏側からの情報を通せば、ささやかな失地回復にも見える。中国の海洋進出は、太平洋の端のアジアの問題に過ぎないようにも見える。世界制覇の規模の大きさとしたら、アメリカが世界でやっていることと比較にもならない。
 アメリカは世界と平和的には共存できない国なのだろうか。アメリカの価値観による世界統一のためには、次の世界戦争も排除しないと本気で思いはじめたらしい。この国との同盟を深めることは、日本にとって危険だと私は思う。

小説・昭和からの遺言(36)サイパン島軍民玉砕の悲惨

 海上決戦に負けたあとは、島の守備隊が玉砕するのを見守るだけの戦況になる。軍の全滅を「玉砕」と言い換えたのは日本的美学だが、サイパン島には約三万名の守備隊のほかに約二万名の民間人が残っていた。事前の疎開が間に合わず、また船に乗ると潜水艦に撃沈されて、かえって悲惨な結果になるのも見せつけられていた。
 島での戦闘は昭和十九年(1944)六月十五日から始まったが、この時期までの日本軍の防御作戦は「水際で殲滅・撃退」が基本であったため、兵力の消耗は激しかった。陸軍はマリアナ方面の防衛には自信を持っていたにもかかわらず、戦車隊は二日間で全滅し南部の飛行場を明け渡す結果になった。飛行場はすぐにアメリカ軍によって利用され、空からの攻撃が加わって日本軍は島の北部へと追いつめられた。
 七月になると日本軍の兵力は三千名程度に減少して、最終段階に近づいてきた。七月七日、陸海軍合同の「バンザイ突撃」を敢行して終っている。軍人の自決者は五千名、捕虜になった者はわずか九二一名(3%)という記録がある。
 大本営はサイパン島の玉砕を告げるラジオで「なお民間人はおおむね軍と運命を共にせるものの如し」と発表した。実際はどうだったのか。アメリカ軍が保護した日本の民間人は、ほぼ半数の一万人にとどまった。あとの一万人は本当に「軍と運命を共に」してしまったのである。北部の断崖では、海に身を投げる女性の姿が米軍カメラマンによって撮影された。画家の藤田嗣治は「サイパン島同胞臣節を全うす」という凄惨な絵を描いて有名になった。「臣節」とは何か、負けたら死ぬことなのか。
 猛威をふるった「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓だが、これは東条英機が軍人に示した心得で、法律でも何でもない。罰則もなければ、まして民間人にはかかわりのない精神論である。近代国家の戦争法規は非戦闘員への加害を禁じている。負けた側の民間人は当事者ではないから敵に降伏する必要もない。ただ現地を支配している側の軍に、保護を求める権利があるだけなのだ。その常識が日本人には通用しなかった。
 藤田嗣治は、こういう場合は死ぬことが「臣節」だと信じて描いたのだろう。「臣」の上には天皇がいる。天皇が命令して始まった戦争だから、国民は勝手にやめることができない。不幸にして負ける現場に居合わせたら、責任をとって死んでしまうのが正しい道という理屈になるのだ。玉砕は、天皇の絶対性と不可分の関係にある。
 戦争には勝ち負けがあるという当り前のことを考えたら、民間人の「玉砕」は、ありえないだろう。一度の敗戦が民族の滅亡に直結してしまうからだ。やがて沖縄戦でも同じことが起こり、最後は「一億玉砕」までが唱えられた。

小説・昭和からの遺言(35)日本海軍の落日マリアナ沖海戦

 守勢に回って押しまくられる一方になった日本海軍にも、対応策がなかったわけではない。ミッドウェイ敗戦後には空母の製造を最優先にしてきたし、戦艦「伊勢」と「日向」を改造して飛行機を積み、カタパルトで発艦させる方式も開発していた。艦上攻撃機「天山」、艦上爆撃機「彗星」は、航続距離の長い最新鋭の戦力として期待されていた。そこで構想されたのが「アウトレンジ戦法」だった。
 これはつまり、相手よりも長い槍を使って繰り返し攻めれば、味方は安全のままで敵を破ることができるという、まことに都合のよい話になる。ただし槍が丈夫で必ず手元に返ってくることが前提になるし「必勝」の迫力に乏しいところがあるので、先制攻撃で敵を弱らせた上で、接近し撃滅する作戦を加味することになっていた。
 しかしアメリカ軍の攻撃の速さは日本海軍の立て直しを待ってはくれなかった。昭和十九年(1944)に入ると、二月には早くもマーシャル諸島のクェゼリン、ルオットの二島にアメリカ軍が上陸して守備隊は玉砕した。トラック島は大規模な空襲を受けて、残存していた日本海軍の艦艇も航空隊も壊滅させられた。翌月にはアメリカ機動部隊はパラオとヤップ島を空襲し、連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は、飛行艇でフィリピンに向かう途中、天候不良で行方不明となり殉職扱いになるという不祥事に見舞われた。
 さらに六月になるとアメリカ機動部隊はマリアナ諸島を襲い、サイパン、テニアン島を砲撃して上陸作戦の準備に入った。ここを奪われると日本の本土が長距離爆撃による攻撃範囲に入ってしまうから何としても防がなければならない。有無を言う間もなく日本海軍は最後の海上決戦を挑まなければならなくなった。六月十五日にサイパン島への上陸が始まったが、海戦で勝てれば島の奪回は可能になる。四日後の十九日からマリアナ沖海戦が始まり、日本軍は予定通りに先制攻撃をかけた。
 このとき日本側は史上最多の九隻の空母を揃えていた。「大和」「武蔵」など五隻の戦艦を含む強力な前衛部隊も配置につけ、動員された艦船は七十三隻、空母機は合計四三九機だった。それに対するアメリカ側は空母十五隻、戦艦七隻を中心とする総計百一隻で、艦載機は八九〇機に達していた。しかも搭乗員は実戦経験を重ねながら技量を上げてきている。艦隊はレーダーを備えて航空隊を指揮していた。
 日本の攻撃隊は長距離を飛んで敵艦隊を発見する前に、迎撃の戦闘機隊に進路を阻まれて大半は帰ってこなかった。天候にも恵まれず、敵の空母群は、ほとんど無傷のままだった。逆に日本側は三隻の空母と艦載機のほぼ全部を喪失し、制空権を失った日本艦隊は戦場から離脱するほかはなかった。事実上の最後の決戦は惨めな敗北に終った。

小説・昭和からの遺言(34)国家総動員の効果と限界

 海外の各地で戦争が続いていた間の国内は、どうだったろうか。国家総動員の大号令は開戦前から出ていたが、戦時中にも多くの法律や命令、決定が出されて施行された。帝国議会の議員は大半が「翼賛選挙」による推薦議員で、議会は戦時中も十二月から三月までを定例として開会され、政府が提出する法案を次々に可決していた。
 法治国家だから、建前は根拠となる法律があって国民がそれに従うわけだが、実際はラジオや新聞で新方針が示され、その期日から新制度が実施されるのだった。不満があっても「非国民」と言われるのが怖いから反対する者はいない。そのようにして都市部では食糧や必需品の配給量が決められ、中学や女学校でも勤労動員が始まった。
 軍需用の生産には最優先で資源が集中された。一般家庭にも金属の供出が呼びかけられて、鍋釜やブリキの玩具までが隣組に集められた。粗鋼の生産高を始めとして、日本の工業生産高は、ほとんどが昭和十八年(1943)に最高値を記録している。翌年になると海外からの原料や燃料が円滑に入らなくなって、生産力の下落が始まった。
 その中でも飛行機の生産だけは例外だった。昭和十九年度になってから月産三千機のピークを達成しているのである。飛行機がなければ勝てない戦争であることを認識していたわけだが、競争する相手が悪かった。アメリカの飛行機生産量は日本の四倍以上で、その中には四千機のB29など、大型の爆撃機も含まれていた。
 日本の技術力を支えていたのは工場の熟練工だったが、そこからも徴兵が行われて人手不足になるという問題もあった。学徒動員の若年者を送り込んでも、人数だけで生産力が維持できるわけはない。所詮は日本という国のスケールでは、いくら国家を総動員してみても、絞り出せる力には限界があるのだった。
 この時代の日本で、戦争と無縁で平穏に暮らしていられた家庭というものは、一つも存在しなかったのではあるまいか。東京の町では、営業している商店というものが、ほとんど姿を消してしまった。住宅街の米屋、八百屋、魚屋なども、すべて食糧品の「配給所」と名を変えて、隣組を通しての流通中継所に過ぎなくなっていた。コンピューターもなかった時代に、各家庭の人数に応じて平等に食品を分配するのは半端でない煩雑な仕事だったに違いないが、末端までの官僚組織と隣組の協力で国民を管理していたのだ。
 物資を統制し配給制にしたのは、インフレを起こさず物価を安定させるためだった。国をあげて民需品の生産をやめてしまったから、放置すれば「公定価格」が崩壊して値上がりするのは目に見えている。自由な生産と流通は「ヤミ行為」として厳しい取り締まりの対象になった。それでも裏の「ヤミ価格」はじりじりと上昇を続けた。

小説・昭和からの遺言(33)マッカーサーの飛び石作戦

 ダグラス・マッカーサーは、父親の代から名門の軍人であり、フィリピンとの縁も深かった。太平洋戦争が始まったときはアメリカ極東陸軍司令官としてマニラに駐在していたが、日本軍の攻勢を受けてマニラを放棄し、コレヒドール島の要塞に籠城して抵抗を続けていた。しかし司令官が日本軍の捕虜になることを恐れたルーズベルト大統領は、脱出してオーストラリアへ向かうよう命令した。
 魚雷艇を使ってコレヒドール島から去るとき、「 I shall return (必ず戻ってくる)」の言葉を残したと伝えられている。司令官が去ってから要塞は陥落し、捕虜が炎天下を歩かされて「バターン死の行進」の悲劇も起こるのだが、この敵前逃亡は、マッカーサーにとって忘れられない屈辱の記憶になったと言われる。そのマッカーサーは、連合軍南西太平洋方面最高司令官に任命されて、日本への反攻作戦を練っていた。
 それは「飛び石作戦」と呼ばれ、日本軍が防備を固めている島は放置して、日本本土へ向かう攻勢に最適の要地を占領して行くというものだった。太平洋の戦いは海を支配すれば勝てるのだから、日本を屈服させるには本土への最短距離を行けばいいという、合理的な考え方だった。この作戦の発動が昭和十八年(1943)の秋だった。
 アメリカ軍は十一月下旬、中部太平洋のギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸した。ギルバート諸島は、日本の委任統治領だったマーシャル群島に隣接するイギリス領だった。太平洋戦争の開始直後に日本軍が占領している。日本海軍の根拠地だったトラック島の外縁に当るが、これらの島に日本軍は守備隊を配置したものの、着任したばかりで、陣地の構築などはほとんど進んでいなかった。そこへアメリカ軍は圧倒的な大兵力で進攻してきたきたのである。合計五千名ほどの日本守備隊は、数日間の戦闘を経て玉砕して行った。戦死者には朝鮮からの軍属も多く含まれていた。
 これらの島の玉砕戦は、本土から見ればまだ遠い島の出来事だったが、日本の「絶対国防圏」が少しも絶対でないことを示していた。翌年にかけて日本海軍にとってトラック泊地は安全な場所でなくなり、フィリピン方面への後退を余儀なくされることになる。その結果としてラバウル基地は戦線の後方に取り残されることになった。
 取り残されたのはアメリカ軍が上陸しなかった他の島々でも同じことだった。移動が不可能になり補給が絶たれれば、軍隊として機能する以前に人間として生存の危機にさらされる。現地自給が可能な自然条件に恵まれていればまだしも、それ以外の島では飢餓との戦いが日常になった。太平洋戦争での戦没者の死亡原因の七割は餓死であったと言われるが、そこには敵が来なかった島での餓死もあったのだ。

小説・昭和からの遺言(32)名ばかり独立と大東亜会議

 昭和十八年(1943)の後半になると、ドイツ軍の敗退が加速してきた。東部戦線では次々に占領地を失い、北アフリカ遠征軍も降伏して、七月には連合軍はシシリー島に上陸してイタリア本土に迫った。ドイツの主要都市に対する米英空軍の猛烈な都市爆撃も始まった。この情勢にたじろいだイタリアでは政変が起こり、ファシスト党はムッソリーニを見限って国王を動かし、バドリオ政権を建てて連合国との停戦を求めた。ドイツ軍はイタリアの北・中部を占領してムッソリーニを救出したが、三国同盟の一角が崩れて、ドイツは完全に孤立することになった。
 この事実は日本でも大きく報じられ、当時は「バドリオ」と言えば裏切り者の代名詞のように受け取られていた。しかし落ち着いて考えれば、このままヒトラーとつき合っていたら国が亡びるという危機感があったのだろう。党の評議会で意思決定しているのだから民主的な手続きを踏んでいるのだ。南欧国民の、しごく健全な判断だった。
 日本では大本営の御前会議が九月に「絶対国防圏」を設定した。戦線を整理縮小して不敗の防御線を築く趣旨であり、それに沿った撤退作戦も開始されたが、このころから輸送船の被害が急増して軍の移動は困難をきわめ、多くは机上の計画に終って、兵力の弾力的な運用は容易に進まなかった。
 その間にも政治的な配慮から、アジア諸民族の独立が促進された。ビルマは八月に、フィリピンは十月に、それぞれ独立を宣言し、インドもシンガポールで「自由インド」仮政府を樹立した。いずれも日本軍政下での独立宣言であり、直ちに日本と形式的な同盟関係を結んで、対米英の戦争に協力することとなった。インドネシアの独立については将来の約束とされ、志願制の郷土防衛隊が組織されて日本軍の教育を受けた。
 十一月の五日と六日には東京で「大東亜会議」が開催され、日本、中国(汪兆銘政府)、満洲国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドの代表が一堂に会して「大東亜宣言」を採択した。世界史上初めての有色人種のみによる国際会議で、決議は「大東亜各国ハ協同シテ大東亜ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共栄ノ秩序ヲ建設ス」と述べている。その内実が日本による日本のための秩序であっても、東条首相にとっては得意の絶頂であったろう。この会議は毎年開かれる予定だったが、これが最初で最後の一回になった。
 思えば東京で平穏に行事を組むことのできる最後の時期だった。同年の十月二十一日には、神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われている。理工系以外の大学・専門学校生の徴兵猶予が取り消され、満二十歳以上は入隊することになったのである。折からの豪雨の中、学生服の隊列が銃を肩に行進する姿が映像資料に残っている。

樺美智子さん追悼・国会南門の55周年

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 今から55年前の1960年6月15日、「60年安保闘争」がピークに達した国会議事堂南門で、東大の学生で全学連に所属していた樺美智子さんが死亡しました。当時は10万人を超える大群衆が連日国会の周辺を取り巻き、全学連は国会構内への突入をめざして機動隊と衝突を繰り返していました。そんな中での女子学生の死亡でした。公式発表は単に「圧迫死」とされていますが、本日の主催者の説明によると、機動隊員の警棒による傷害致死の確証があるとのことでした。
 岸内閣の国会での強引な単独採決に抗議しての、全国的な抗議行動の盛り上がりが、この背景にありました。結果としては、国会が機能停止している間の「自然成立」で安保条約は発効してしまうのですが、予定されていたアイゼンハワー大統領の日本訪問は中止となり、混乱の責任を追及される形で岸内閣は退陣に追い込まれました。
 このときの岸信介首相が、現・安倍晋三首相の母方の祖父に当るというのも、何かの因縁でしょうか。歴史は繰り返すのでしょうか、繰り返すようにように見えながら根本的に変化して行くのでしょうか。「政治の潮目が変った」という言葉も聞くようになりましたが、それを希望につなげることができるでしょうか。
 有志の人たちは、例年この日を記念して集まっていると聞きました。本日の参加者は50名余り。黙祷、読経、焼香・献花のあと関係者からのスピーチがあり、現場集会の後には二次会の用意があるとのことでした。
(追記・死因についての証言が、以下で読めます)
http://chikyuza.net/archives/5376

「昭和天皇は戦争を選んだ!」を読む

 「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子・社会批評社・2200円)を読みました。副題に「裸の王様を賛美する育鵬社教科書を子どもたちに与えていいのか」と問題提起しています。その通りに、この本が書かれた目的は
「昭和天皇は平和主義者で、無私の人で、自分の身はどうなってもいいから国民を救ってほしいとマッカーサーに一身を投げ出した御仁慈の人、常に国民と苦楽をともにした人、常に国民の幸福を祈念していた人、常に国民とともに歩んだ人」という虚像
を、出典を明示した各種の資料・証言によって打破することにあります。
 だからといって、さほど衝撃的とは感じられませんでした。太平洋戦争は東条英機と陸軍が勝手に始めたので、天皇は反対だったが立場上拒否する権限がなく、事後に知らされたから責任はないとする「天皇無罪説」は、日本占領を円滑にするためにマッカーサーが採用した理論の根幹でした。「最後的には自分に責任があると自覚している」趣旨の発言を、最大限装飾した美談にしてマッカーサーは自分の功績に加えたのでした。
 昭和天皇があの時代潮流の中にあって、大元帥である自分の立場を自覚し、最大限の努力で職務を全うしようとしたことは疑う余地がありません。建国以来最大の危機であり、同時に日本民族を世界史的に重要な役割に導くかもしれない世界情勢でした。政策の決定は、事前の「内奏」と「ご下問」の繰り返しによって行われるのが常ですから、御前会議が提案「ご裁可」の場になるのは当然のことなのです。
 戦争は避けられれば避けるのが好ましい。しかし国益のためには戦わなければならない場合があり、日清、日露と勝ってきた。その膨張を引き継いだ近代三代目の天皇としての判断は、慎重ではあっても国運の発展に対しては前向きだったでしよう。だから最後的には軍を信じて開戦に同意し、戦況が不利になってからも、あきらめが悪くて降伏の決断ができずに国民の被害を大きくしてしまいました。
 「国体護持」とは、天皇が神代から伝わる「三種の神器」を保持して日本国の統治者でありつづけることです。天皇にとってはこれが最優先だったので、降伏後にマッカーサーとの癒着が急速に成り立ちました。これがマッカーサーを超えてアメリカとの癒着に直結して今に至っています。昭和天皇は、新憲法の施行後にも、政府の頭越しにアメリカとの政治的意見交換のチャンネルを絶やしませんでした。
 著者の結論は、昭和天皇は天皇制の保持という「私欲」を、何よりも大切にした人だったということです。この本は、日本の国と国民と天皇との関係について、その未来について、いろいろなことを考えさせてくれます。いま書いている「小説・昭和からの遺言」のためにも有益な資料でした。

小説・昭和からの遺言(31)山本五十六の戦死

 アッツ島玉砕の少し前、ガダルカナルの戦局が終盤にさしかかったころ、山本五十六はトラック泊地の旗艦「武蔵」に座乗していた。ここでの連合艦隊司令長官の日常は、多忙ではなく悠々自適に近いものだったと伝えられている。ガダルカナルは奪回にこだわらずに放棄するのが合理的だと、山本自身は考えていただろう。東京の大本営が奪回を命じて消耗戦を長引かせたのは、天皇の意向が反映したからだと言われている。
 一年間は約束通りに暴れ回ったが、戦争終結への動きはどこからも現れなかった。望ましいのはアメリカ空母艦隊を撃滅することだが、それが難しいのもわかっていた。この時期の山本は、新任の飛行兵を激励するときに必ず飛行時間を尋ねていた。彼らの技量が、山本が育てた真珠湾攻撃隊には及ばないことも知っていたに違いない。
 当時の山本は現役の海軍軍人の中で、ただ一人残っていた日本海海戦の経験者だった。日露戦争の勝利を決定的にしたこの海戦を、山本が思い出さなかったはずがない。しかしいくら考えても日米の戦争がそのような形で終るわけがなかった。非常な幸運に恵まれれば一度は勝てるかもしれないが、アメリカがそれで和平を求めることはあるまい。それに対して日本にはその後の備えがない。最後は負けるしかないのだ。
 そこで出来ることは、手持ちの戦力を使って可能なかぎり敵の反攻を食い止めることでしかなかった。先は見えているが何もしないわけには行かない、部下たちにも苦労させるが、納得して全力を尽くして貰うしかない。前線を一巡する視察を思い立ったときは、そのような悟りに近い心境だったように思われる。
 「武蔵」から発信された長官視察の情報は、アメリカ側に探知解読されていた。長官がラバウルに移動した段階で、綿密な暗殺の作戦が立てられた。知名度の高い山本五十六の喪失は、日本軍および日本国民の士気を低下させるのに効果的であろうと期待されたのである。ソロモン群島ブーゲンビル島への飛行を狙うことになり、昭和十八年(1943)四月十八日、重戦闘機P38十六機が出動して乗機の一式陸攻を撃墜した。
 島は日本軍の占領地域だったから、翌日には長官が機上で戦死したことが確認された。しかしこの事実は「海軍甲事件」として厳重に秘匿され、大本営から発表されたのは一ヶ月以上も後の、アッツ島戦の最中になった。
 山本五十六には元帥の称号が贈られ、葬儀は六月五日に日比谷公園で国葬として盛大に行われて、ラジオで中継放送された。まだ東京の空に空襲の心配はなかった。山本は本格的な敗戦の修羅場を経験することなく、半ば自ら望んで死処を得たことになる。新聞もラジオも、一億国民は山本元帥の後につづけと呼びかけていた。

「木を見て森を見ず」とは?(2)(池田幸一メール) 

(池田幸一さんの2015年6月8日のメールです。管理人の不注意で掲載が遅れました。)
 皆様。 池田幸一です。
 <承前> “自国の存立を全うするために必要な自衛措置を容認した1959年の最高裁の砂川事件判決を踏まえたものである”と、読売新聞の社説は法案の正当性をこのように主張するのですが、この論旨の出所が「高村仮説」であることは広く知られています。この騒ぎの震源地も自民党の軍師である高村正彦副総裁で、この人のシナリオを下敷きに作られたのが「戦争法案」だと思います。私はかって公明党が落ちた時、次のような投稿をした事があります。
 >公明党の北側一雄副代表は、自民党切っての策士高村正彦副総裁にものの見事に籠絡されました。歯止めは掛けたと云いますが、ブレーキのつもりがアクセスになっています。そもそもこれは砂川判決からの牽強付会によるもので、「限定的であるなら個別的、集団的を問わず自衛権の行使は容認される」とした法的根拠のあいまいな「高村仮説」を引用しています。これらはアメリカの圧力に屈服し、無罪の伊達判決をひっ繰り返して全員有罪を命じた最高裁田中耕太郎裁判長の判例によるもので、これまた司法史上悪名高い判断からの引用です。策士の土俵で相撲を取らされては手込めに遭うのも当然です。<
 基地拡張に反対するデモ隊が基地に侵入したとして起訴された7人を、無罪としたのが伊達判決ですが、検察は直ちに最高裁へ異例の跳躍上告、この判決を怒ったアメリカの圧力で差し戻され、逆転して全員罰金刑の有罪となりました。その時の田中耕太郎裁判長の判断は次の通りです。“最高裁は日米安保のように高度な政治性を持つ条約については、法的判断を下す事は出来ない”
 独立国の最高裁が判断出来ない、このような屈辱に腹を立てるどころか巧みにこれを逆用し、柄のない所に柄をすげて憲法違反の法案をでっち上げ、アメリカに自衛隊を貢ごうとするのが「安全保障関連法案」であり、更に従米路線を強化してアメリカの手先になろうとするのが政府であり、与党です。どうして無理矢理敵を作るのか、敵を作らないような外交が何故出来ないのか?私はこの知恵者を失礼ながら「小利口の大バカ」の見本だと思っています。
 国民が今なすべきことの第一は安倍政権の暴走を止めること、それが為には声を挙げ、町へ出ることです。者や日弁連に続いて真宗大谷派が明快な反対を表明しましたが、あらゆる団体がどうして後に続かないのか?今をおいては無いように思うのですが。また全国津々浦々に怒涛のようなデモが必要です。一強多弱の国会は当てに出来ない、戦前と同じように権力は戦争に近付き、国民の多くが無関心、この雰囲気は実に危険です。
 なぜ市井の一老人がこのように心配するのか?国民の代弁者である議員先生が、全てとは云いませんが当てにならないからです。戦前の議会は国民を裏切り、軍の暴走を止めることが出来ませんでした。それのみか戦争を支持し権力に同調致しました。今の野党も弱いのです、解散総選挙を恐れて途中で政府与党と妥協する恐れがあります。伝家の宝刀を抜かれると困るのは野党であって、惨敗の傷跡は深く未だ立ち上がれず準備不足、加えてカネがありません。
 憲法違反とされた法案を数を頼んで押し切ろうと、議会での攻防は更に続くのでしょうが、最後にブレーキを掛けるのは国民です。“そんなにこの法案が嫌いなら、国と国民を守れる代案を出すべきだ、”の声もあるようですが、それなら野党も憲法違反でない法案を出せば良いではありませんか。憲法の理念に沿った平和で敵を作らない仲良し法案を、どの国とも争わず愛され、尊敬される法案を出せばどうでしょうか。
 いま安倍政権が目指す道は沖縄が象徴するようにどんつまりです。地元の声を尊重する民主主義は崩壊し、このままでは流血の騒ぎが避けられません。違憲法案を巡る争いも深刻で出口すらも見出せない、このような八方塞りの場合は発想の転換が必要で、この際思い切って自衛隊を無くせば新しい視野が開けて来るのではないでしょうか。気違いに刃物、なまじ持っているからこその心配で、世界災害救援隊に変えるのも良し、丸腰になればすっきりすると思うのです。
 一度憲法通りの国造りを考えてみませんか、そこからは無限の展望が開けてきます。やってみて不味い所があれば変えれば良いのであって、折角の憲法を殆ど使うことなく変えるのは如何にも惜しい、私は勇気を以て護憲の道を歩むべきだと思います。
 >この項 完>
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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