志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2015年09月

「ふるさと沖縄」の歌をユーチューブで紹介

 2005年ごろに作られた「ふるさと沖縄」という歌があります。作曲家の伊藤辰雄さんが石原いっきさんの作詞で作曲し、清水正美さんの歌でCD化しました。伊藤さんはこの音声に自身で撮影した映像を加えて短編の動画にしていました。その作品を、沖縄への思いを込めてユーチューブで公表することに、このたび関係者の了解が得られましたのでご紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=-QSFArSwZl8&feature=youtu.be
   ふるさと沖縄
        作詞・石原いっき
        作曲・伊藤辰雄
        歌・清水正美 
1 うつくしき島 ふるさと 沖縄 
  この基地は いつから在ったのだろう
  この基地は いつ亡くなるのだろう
  ここは日本の国 ここはぼくらの天地
  三線の音よく似合う 美しき島 ふるさと沖縄
(朗読・「摩文仁の丘から平和の波を」の原文)
沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです
このなまなましい体験の前では いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争を起こすのは たしかに人間です しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私達 人間ではないでしょうか
   戦争このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み 
   平和な島を建設せねばと 思いつづけてきました
これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない 私たちの信条なのです

2 かぐわしき島 ふるさと沖縄
  この痛みは いつまで続くのだろう
  この怒り いつ消え去るのだろう
  ここは日本の国 ここはわたしの生命
  珊瑚の海が相応しい かぐわしき島 ふるさと沖縄
(追記・この歌を含む3曲「Qちゃんサンバ」「ジュゴンよまたここにおいで」入りのCD・1200円があり、購入可能です。志村へメールでお申し込みください。)

小説・昭和からの遺言(78)冷戦の終りとアメリカの一極支配

 ソ連が崩壊し冷戦の構造が消滅したことで、地球はかなり安全な星になった。なにしろ冷戦中はアメリカ本土の上空には、原爆を積んだ複数の爆撃機が、交代しながら常時飛んでいたのだ。いつ戦争が始まっても敵のミサイルによる先制攻撃を避け、直ちに敵国への攻撃を開始するためだった。そんな張りつめた警戒が必要なくなった。
 共産圏の壁が消失したことで、アメリカの資本は世界のどこへでも進出できるようになった。それをサポートするアメリカの軍事力は、文字通りに世界無敵になった。アメリカは一応は国連の権威を利用しつつも、事実上の世界の警察官を自任するようになった。それに対抗する力としては、経済統合を先行させて政治的にも協力関係を強めてきたEUがあるだけだった。
 この時期の軍備優先から経済優先へのシフトは「平和の配当」と呼ばれた。ベトナム戦争の泥沼で傷ついたアメリカ社会でも徴兵制は廃止になった。それ以後、アメリカにおける軍人の就業人口に対する比率は1%程度で推移している。これは冷戦中の5%に比べても隔世の感のある数字で、西欧先進国ではいずれも徴兵制は過去のものになりつつあり、徴兵制を残していても「良心的徴兵拒否」を認めている国が多い。
 こうした中で、日本でもアメリカとの関係を見直し、駐留軍の規模を縮小する機会があった筈である。しかし、そんな先見性のある大物の政治家はいなかった。むしろ社会党の崩壊後は「保守」対「革新」の構図が崩れ、政策の軸を持たない政治家集団が離合集散する流動化の時代が始まった。
 さらに細川内閣が唯一の置きみやげとして残した衆議院の小選挙区制は、二大政党による政権交代を期待したにもかかわらず、自民党の一党支配を温存する結果になった。本来は政党本位の選挙を実現して死票を減らすことを目指し、比例区を主として小選挙区を従とする構想だったが、小選挙区が主体となってしまった。細川首相は最低でも比例と小選挙区の配分を同数にと抵抗したが、最後に押し切られて激怒したと言われている。
 日本の政界が内輪の抗争に明け暮れている間に、日本は経済的にも軍事的にも、より強くアメリカに支配されるようになった。そのスローガンになったのが「グローバル時代への対応」であり「日米同盟の深化」だった。原発導入の推進、金融市場の開放、そして自衛隊装備の更新とアメリカ軍との共通化が進められた。
 世界は戦争から遠ざかると思われたのだが、そうはならなかった。中東・アラブの不安定化、イスラム過激派の台頭などに、アメリカは直接に介入するようになった。そこへロシアの復活、中国の台頭という新しい仮想敵も加わってきた。

今井一(はじめ)の「『解釈改憲=大人の知恵』という欺瞞」を読む

 新刊「『解釈改憲=大人の知恵』という欺瞞」(現代人文社・単行本1400円)を読みました。一昨日26日には、著者・今井一さんの大学ゼミのような勉強会にも参加してきました。著書の副題は「九条国民投票で立憲主義をとりもどそう」と呼びかけています。今井さんには「『憲法九条』国民投票」(集英社新書2003年)の著作があり、私のブログでも昨年11月に2回にわたって紹介しています。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55614034.html
 安倍内閣の憲法無視は、ついに新安保法制の強行採決にまで到達してしまいました。10年以上前から今井さんが憂慮していた「憲法9条を護持したままで戦争に参加する」という最悪のコースが、現実の問題になろうとしています。立憲主義は、ついに完敗して安倍自民党に踏みにじられたように見えます。
 事がここにまで至ったのには、護憲勢力の方にも重い責任があったと今井さんは言います。当初は戦争の放棄は文字通りに解釈されて、「戦争はしない、軍備は持たない」と明快でした。日本語として素直に読めば、第2項の「前項の目的を達成するため」は、戦争を放棄したのだから戦力を持たず交戦もしないと解するのが常識です。これを朝鮮戦争に伴うマッカーサー指令で「自衛権はある」と、再軍備へ向けて軌道修正したので問題がややこしくなりました。
 警察予備隊が保安隊になり自衛隊へと変貌する過程で、いつしか自衛のための戦力は必要だというのが「日本の常識」になってきました。そして護憲勢力の間にさえ、自衛隊の違憲性を問わない空気がむしろ多数派になって今に至っているのです。そして憲法の条文を明快にするための改憲論は護憲派のタブーとなり、「国民投票」への強い拒否反応となって、憲法の条文にだけは手をつけさせない態度で固まっています。
 しかし、自衛のための戦争は認めるのか認めないのか、自衛隊を認めるのか認めないのか、その結論を避けている限りは解釈改憲の一翼を担っているのと同じことです。その弱点を突かれたので安倍自民党に有効な反撃ができなくなっていると今井さんは考えるのです。では、どうすればいいのか。
 国民投票法を、自民党憲法案を通すための道具として毛嫌いするのではなく、「予備的国民投票」によって「専守防衛の自衛隊」を憲法の上で安定させるという選択肢もあり得るのです。外国軍隊の駐留に制限を加えるためにも国民投票は使えます。選挙の投票日にだけ主権者になるのではなく、重要問題への発言力を国民投票によって表現することは、日本の民主主義を蘇生させるでしょう。
 ちなみに、現憲法9条の正しい解釈は「戦争放棄・戦力不保持・交戦せず」であるという点で、今井さんと私の意見は一致しました。

ブログ連歌(418)

8339 国会は 部屋を出入りの 隠れんぼ (建世)
8340  議長の権威  地に落ち果てし (みどり)
8341 国会の 主は誰かと ふと思う (建世)
8342  我ら主権者 足蹴されるも (みどり)
8343 ナマ中継 熱弁つづく 夜はふけて
8344  叫びは止まず 議事堂の前 (建世)
8345 無理が通れば 道理がへっこむ
8346  安保が通れば 野党がへっこむ (獣医さん)
8347 地の底に マグマがたぎる 微震あり
8348  静かに思う 山動く日を (建世)
8349 秋の空 変革の雲 とどまらず (みどり)
8350  自由の天地 未来図を描く (建世)
8351 墓守る 彼岸花燃ゆ 赤々と (みどり)
8352  非戦の思い 初恋に似て (建世)
8353 爆買いで 先制パンチの 習さんに
8354  晋さん思わず 待って頂戴な (うたのすけ)
8355 安保法 尻目に米中 睦言か (うたのすけ)
8356  小国日本 出番はなくて (建世)
8357 月面は 悠揚と照り 地は震う (みどり)
8358  せめて今夜は 月で過ごすか (建世)
8359 大雪に 初雪下りて 冬の華咲き (獣医さん)
8360  今年の日数 百日を切る (建世)

青少年福祉センター・長谷場夏雄先生を囲む会

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 青少年福祉の活動に生涯をかけて取り組まれた長谷場夏雄先生は、86歳になられた今もお元気でした。今年の春に「石井十次賞」(明治時代の社会活動家で、孤児院を創設し「孤児の父」と呼ばれた石井十次にちなんで創設されている賞)を受賞されたということで、祝受賞の「囲む会」があるとの知らせをいただき、行ってきました。

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 会場は足立区扇にある「長谷場新宿寮」でした。足立区にあっても「新宿」の名がついているのは、創業の地だった下落合の旧新宿寮(解体し、土地は売却済み)の地名を、長谷場先生の名とともに残すためでしょう。先生は今も社会福祉法人青少年福祉センターの現役の専務理事で、週に3日は出勤しておられるとのことでした。
 集まったのは、寮で育った元の「子供たち」をはじめ、60年に近い歴史を通してかかわってきた関係者、協力者たちです。私はNHKの在職中に草創期に近い福祉センターと長谷場さん、そして「テーラーセブン」という洋服店を作って自立した人たちを取材して制作した「今こそ未来を」(昭和40年1月15日放送)というドキュメンタリーが縁になって、50周年の記録ビデオを2008年に作らせていただきました。同年に出版された長谷場夏雄著「かけがえのないあなたへ」の書籍にDVDで添付して発行し、当時の記事にしています。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55593014.html
 当時から、長谷場先生のエネルギーのたくましさ、ぶれない強さ、ネアカの明るさには圧倒される思いでしたが、7年後の今も、長谷場節は健在でした。今日の会場でも、「世の中を良くしていく方法」を、謝辞のあいさつで聞くことができました。

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 「やることは、たった一つなんです。子供を愛してやること。心から愛してやれば、その子は必ず今よりもいい子になります。その子が大きくなれば、世の中はその分だけ必ず今よりもいい世の中になります。それだけなんです。」
 

「へいわってすてきだね」と「ジュゴンよまたここにおいで」の歌声

 先日の「西荻平和まつり」に、作曲家の伊藤辰雄さんが合唱曲を発表されたので聞きに行きました。伊藤さんとはNHK以来の長いおつきあいで、私の自営独立後も労働組合の歌づくりなどで協力してきました。今回は、沖縄の小学生、安里有生(あさとゆうき)くんが2013年の「沖縄平和の日」に発表した詩「へいわってすてきだね」と、石原いっき作詞の「ジュゴンよまたここにおいで」の混声合唱曲2曲でした。「へいわって……」はミニオペラのように構成されていて、「ジュゴンよ……」は素直にソロでも歌えるメロディーです。

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「へいわってすてきだね」と、「ジュゴンよまたここにおいで」の1番の歌詞をご紹介します。歌の音声は、下のボタンから聞けます。

へいわってなにかな。
ぼくは、かんがえたよ。
おともだちとなかよし。
かぞくが、げんき。
えがおであそぶ。
ねこがわらう。
おなかがいっぱい。
やぎがのんびりあるいてる。
けんかしてもすぐなかなおり。
ちょうめいそうがたくさんはえ、
よなぐにうまが、ヒヒーンとなく。
みなとには、フェリーがとまっていて、
うみには、かめやかじきがおよいでいる。
やさしいこころがにじになる。
へいわっていいね。へいわってうれしいね。
みんなのこころから、
へいわがうまれるんだね。
せんそうは、おそろしい。
「ドドーン、ドカーン」
ばくだんがおちてくるこわいおと。
おなかがすいて、くるしむこども。
かぞくがしんでしまってなくひとたち。
ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。
このへいわが、ずっとつづいてほしい。
みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。
へいわなかぞく、
へいわながっこう、
へいわなよなぐにじま、
へいわなおきなわ、
へいわなせかい、
へいわってすてきだね。
これからも、ずっとへいわがつづくようにぼくも、
ぼくのできることからがんばるよ。

きよき水 きよき浜
よごれなき島 とこしえの沖縄
命をつたえて 白い天使
ジュゴンよ ジュゴンよ またおいで ここにおいで
ジュゴンよ ジュゴンよ この優しいあなたの あなたの海へ

↓「へいわってすてきだね」は下のボタンで音声を再生できます


↓「ジュゴンよまたここにおいで」は下のボタンで音声を再生できます

第五福竜丸展示館と久保山愛吉さんの命日

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 昨日は東京夢の島にある第五福竜丸展示館を見てきました。1954年(昭和29年)3月、ビキニの水爆実験に遭遇したマグロ漁船の第五福竜丸は、死の灰をかぶり、23名の乗組員全員が急性放射能に冒されたのでした。無線長だった久保山愛吉さんは、同年9月23日に亡くなりました。

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 この日、館内では第23回の「平和を語る第五福竜丸の集い」があり、朗読、語り、歌、演芸など、多彩なブログラムが午前・午後にわたってありました。館の入り口で、トランペット奏者の松平晃さんと久しぶりにお会いしました。居合わせた原水爆禁止東京協議会の青木佳子さんは、廃船になり朽ちかけていたこの船を発見して東京都に働きかけ、保存運動につなげたということです。

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 私は時間の都合で長時間いられなかったのですが、松平さんからメールで頂いた演奏風景の写真を加えてご紹介します。入り口に向かって右手には、久保山愛吉さんの碑があり、そこには「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との遺言が刻んであります。
 核兵器の廃絶、戦争の廃絶は、必ず実現しなければなりません。それをしなかったら、人類に未来はないでしょう。広島、長崎と並んで、ここも平和運動の原点の一つだと思いました。
 それにしても、この木造船で遠洋漁業をしていた時代があったのですね。木のぬくもりに守られながら海に浮かぶのが、人間が海を渡る原点だった。船の歴史を考える上でも、第五福竜丸は、貴重な示唆を与えてくれる船でした。

リーフェンシュタールの映画「民族の祭典」を見る

 昨日は優れたドキュメンタリー映画を上映する「メイシネマ上映会」で取り上げられた異色の映画、レニ・リーフェンシュタール監督の映画「民族の祭典」を見てきました。ヒトラーが主催したベルリン・オリンピックを記録した映画で、画期的な名作として有名ですが、現物を見たことがありませんでした。ヒトラーに気に入られた元女優の女性監督で、ナチス党を宣伝する記録映画「意志の勝利」の成功で、ヒトラーは映画の持つ大衆を動かす力に気づいたと言われます。リーフェンシュタールその人も、晩年までダイバーとして活動していたなど、話題の多い人でした。
 制作されたのは1938年(昭和13年)ですから、映画はまだ発展の途上でした。この時代に途方もない予算と労力を投入して、いま見ても迫力充分のドキュメンタリーを作り上げたのです。1秒に24コマを要する高価なフィルムを湯水のように使い、競技場には80台のカメラを配置して撮影したとのことです。
 そもそもヒトラーは、当初はオリンピックの開催に賛成ではなかったと言われます。しかしリーフェンシュタールの映画を見て、オリンピックをナチス・ドイツを世界に宣伝する好機にしようと考えたのです。ギリシャのオリンピアから聖火をベルリンまで運ぶ聖火リレーは、このとき初めて導入され、以後はオリンピックの定番になりました。映画はその場面から始まるのですが、舞台となった東欧諸国をめぐってベルリンに通じる道は、その後の大戦でナチスの進撃路となりました。撮影の際の地理データが役に立ったと言われています。
 しかし映画は、そんな思惑とは無関係に映像を綴って行きます。オーバーラップ、移動撮影、カメラの頻繁なパン、ズームなど、当時の技術では面倒であったろう技巧も多用して、演出過剰とも思える導入部分を構成していました。ところが開会式以下、競技内容に入ってからは、意外なほど素直に各競技を忠実に記録して行きます。しかしその中でも、人の躍動する姿の美しさ、筋肉のたくましさ、精神を集中する選手の表情などを、カメラは豊かな映像として写し取って行くのです。
 画面にはヒトラーもしばしば登場して、満足げにうなずいたりしています。差別主義者であったにもかかわらず、映画では世界から集まった各民族を融合させる慈父でもあるかのようにヒトラーを描いているのでした。
 この大会では日本選手も三段跳び、棒高跳びなどで活躍していました。マラソンでも一位と三位を占めたのですが、いずれも朝鮮出身者だったという余談もあります。日本でこの映画が公開されたときは大変な人気を博して、ドイツびいきの人が一気に増えたと解説者は説明していました。そのドイツと、やがて日本は同盟を結んだのでした。

小説・昭和からの遺言(77)激変する世界の中で

 天皇が代替わりした一九八九年の四月から、懸案だった消費税が導入され、買い物に三%の消費税が加算されるようになった。財務官僚は「これで国家財政百年の計が立った」と自賛したそうだが、庶民の暮らしには一円玉のやりとりという面倒が復活した。それまでは十円銅貨が事実上の最小通貨になっていたのだ。
 この消費税の導入は、政権与党の不人気を招いた。この夏の参議院選挙では自民党に強い逆風が吹き、初めて野党の当選者数が上回る与野党逆転現象が起きた。非改選の議員は残っていたが、参議院が「ねじれ国会」になる前兆だった。
 そして十一月になると、米ソ冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊するという、誰もが予想しなかった大事件が起きた。核兵器を構えてアメリカと対立を続けてきたソ連が、国力の限界を露呈して、ゴルバチョフの主導のもとに平和共存への転換を模索し始めたのだった。共産圏諸国を締め付けていた鉄の規律がゆるみ始めると、その崩壊には加速度がついた。東欧・バルト諸国では相次いで政変が起こってソ連圏からの自立を求め、ソ連の国内でもペレストロイカの名のもとに自由化の流れが始まった。
 鉄のカーテンと呼ばれ、永続的とも思われていた「共産圏」という名の壁は、それから二年のうちに消えてしまった。ソ連は独立国家共同体への移行を経て、ロシアという昔の名前の「ふつうの国」になったのである。国際世論はこれを共産主義の破綻であり、資本主義の勝利ととらえるのが大勢だった。しかし「共産主義は資本主義という未来を手に入れたが、資本主義は社会主義という未来を失った」という論評もあった。マルクスが生きていたら、スターリンのソ連を共産主義の実現と評価することは絶対になかったと思われる。あれは中世絶対主義の変種だと切り捨てたに違いない。
 一九九三になると日本でも大きな変動があった。総選挙で自民党が敗北し、非自民連合の細川内閣が成立したのである。ここで共産党を除くほとんどすべての政党が政権与党を経験することになった。野党歴の長かったベテラン議員が「国会質問で政府は……と追及しようとしたら、政府はオレだった」という笑い話が残っている。
 人気は高かった細川政権だが、寄り合い所帯の弱点を克服することができず、短命に終った。政局の混迷をつき、自民党は思いがけない奇手で巻き返しに出た。社会党の党首を首班に指名することで強引な連立工作を仕掛けたのである。そして「断るわけにも行かない」と応じた村山内閣が成立した。これが社会党にとって命取りになったことは周知の事実である。社会党にとって唯一の慰めは、戦後五十年の節目に総理大臣として発した「村山談話」が、今もアジア諸国への謝罪として生きていることだろう。

小説・昭和からの遺言(76)昭和天皇との会話

 あわただしく過ぎた父天皇の大喪の礼と自身の即位の礼が一段落したとき、建仁天皇は改めて父と子である昭和天皇との関係を考えてみた。もとより自分は一般家庭での親子の関係というものを知らない。父は常に「陛下」であって、時には家庭的な場面を写真に撮られることはあったが、本当に対面して二人だけで話し合いをした時間が、どれほどあったろうか。病状が悪化して見舞いに訪れた際にさえ、いつも誰かが近くにいたような気がする。人払いをして遺言を伝えられることもなかった。
 考えてみると「陛下の御心」とは、傅育官たちの口から間接に聞かされたものがほとんどすべてで、とくに敗戦までの少年期にはそうだった。疎開先の那須高原で受け取った直筆の手紙には、敗戦の原因として軍人たちが自信過剰に陥って科学を軽んじたと書いてあったが、戦争そのものの可否については何の言及もなかった。わかっているのは勅語その他で述べられている「朕は国民とともにある」という立場だけである。
 連合軍に降伏してマッカーサーの支配下に置かれたとき、新聞の第一面に載せられたマッカーサーと並んだ記念写真の衝撃は、永久に忘れられない。勝者と敗者との力関係を、まざまざと見せつける構図だった。日本はこれでアメリカの植民地になってしまうのかと思った。日本を代表してそこに立つ天皇の姿が傷ましかった。
 それから後の占領軍との関係が、事前に予想したよりもはるかに穏和なものであったことは否定しない。そして父天皇は自ら進んでマッカーサーの指導する民主主義を受け入れ占領政策に協力しているように見えた。そうした中で新しい憲法が制定され東京裁判が始まったが、天皇が訴追されることはなかった。中学生になった皇太子は、一度だけ問わず語りに天皇から聞かされたことがある。日本とアメリカとは、伝統的に友好関係で結ばれていて、戦争をしたのは短い間だけなのだと。
 そのときは、そんなものかと思った。しかし高校から大学へと進み、いろいろな本も自由に読めるようになってから、日本が起こした戦争の規模の大きさと、それが継続した時間的な長さについての認識を深めることができた。その上で日本国憲法が制定された事情とその内容を考え合わせると、前文から始まる平和主義が、単なる言葉ではなくて、壮大な思想として築かれていることを実感できたのだった。
 成人後の皇太子でいた長い間に、建仁は何度か天皇との架空の対話をしてみた。問いたかったのは、あの戦争への責任をとらなくてよかったのですかということだった。しかし「退位も考えたが、許される環境ではなかった」という答えがわかっていた。そして退位された自分が、早く天皇になりたいなどとは毛頭も思っていなかった。

共産党の選挙協力呼びかけを実のあるものに

 昨日、共産党の志位委員長が、戦争法廃止の国民連合政府をつくるという「国民的な大義」で一致するすべての野党が、来るべき国政選挙で選挙協力を行うことを心から呼びかけると声明したと伝えられる。共産党からの公式な呼びかけとしては初めてとも言われるが、実際に効果を発揮したのは初めてではない。
 2009年総選挙で民主党が大勝利をおさめたかげに、共産党の協力があったことを覚えている人は少ないかもしれないが、目ざましい威力を発揮したことは厳然たる事実である。あの選挙では、いつもは300の衆議院小選挙区のすべてに候補者を立てる共産党が、約半数の選挙区で立候補を見送って自主投票とした。民主党には小沢一郎が健在でいた。
 これをモデル的に考えれば、じつに簡単なメカニズムなのだ。ある選挙区に実力の拮抗する自民党と民主党の候補者がいるとしよう。この二人が選挙戦で互角の戦いを展開した場合に、自民党の候補には公明党の票が足し算される。その一方、民主党の候補からは共産党の票が引き算される。結果としては自民党候補が当選するわけで、このパターンは首長選挙でもよく見られるところである。
 このパターンを破って成果をあげたのが、直近の衆院選での沖縄だった。共産党が主導した選挙協力で、全4区の小選挙区から共産党、社民党、生活の党、無所属の候補者をそれぞれ当選させ、自民党候補全員を小選挙区では落選させたのだ。この場合は基地反対の共通の目標があったから協力しやすかったのだろうが、参加したすべての党にとって利益があったことは誰にでもわかる。
 しかし今回の呼びかけは全国に及ぶ国政選挙についてであり、しかも「戦争法廃止の国民連合政府」をつくるという目的だから、難しさはあるだろう。選挙に勝って内閣を組織し政府を形成したら、戦争法廃止は第一の仕事になるとしても、政府の仕事はそれだけでは終らない。単一政策の短期政権で終るとしたら、あとはどんな政党の組み合わせで政府をつくるのか、そこには議会で安定多数の支持が集まるのか、いろいろな課題や疑問が出て来そうである。民主党の瓦解を思い出す人もいるかもしれない。
 それでもこの提案は試みる価値がある。選挙協力を話し合う中で、既成政党の垣根が取り払われる可能性もある。要は各党の議員と議員候補者たちが、国民の期待に応えるためにはどんな政治が必要なのかを、虚心に考えて行動することだろう。共産党は、見返りを求めない「自主投票」以上に、積極的な政権参加に踏み切れるだろうか。
 新聞報道は決まり言葉のように「他の政党には共産党への拒否感も強く、実際に機能するかどうかは不透明」と書いているが、共産党も他の政党も変らなければ、新しい未来を開くことはできない。「やってみなはれ」である。

終わったものと始まるもの

安保法案が可決成立して国会での攻防戦が終わった
議事堂を取り巻いて「今すぐ廃案」と叫んだ声も届かなかった
そして夜が明けた

力尽き希望をなくした朝が来たかと思ったが
そうではなかった みんな元気だった
国会の中がよく見えたおかげで
誰が裏切って誰が頼りになる議員かがよくわかった
そして これから先どうすればいいかがわかった
 
安保闘争が国会に押し切られて終わったときとは違うのだ
力負けした「ゼンガクレン」や「ロードークミアイ」が
虚脱した内ゲバで四分五裂して行った時代とは違うのだ
国会を取り巻いたのは ふつうの国民だったからだ
「主権者はここにいる」「これが民主主義だ」と叫んでいた
それが正解なのだ 主権者が目覚めたのだ

戦争に懲りた護憲の老人たちだけではなかった
戦争になれば殺し殺される立場になる
若者たちも気づいたのだ これは自分の問題だと
戦争は世界を平和にしない テロも減るどころか逆に増やす
国家間の総力戦は 実行不可能になって久しい
いったい誰に向かって武力行使をするというのか

安保法が可決で自衛隊の活動範囲が広がるそうな
そんな自衛隊にいて命をかけるなどバカなことだと思ったら
遠慮せずに さっさとやめればいいだけの話だ 
もちろん応募などしない それが民主主義だ
法律と武器だけで戦争ができるなら やってみるがいい 

日本をどんな国にしたいかは 憲法に書いてある
最初からよく読み直したら 新しくわかることがあるだろう
もし どうしても気に入らないところがあるのなら 
直すことを考えるのも悪くはない 民主主義なのだから
戦争の方法を議論するのは そのあとの話だ

映画「野火」を見る

 雨模様の沈鬱な一日、渋谷ユーロスペースで上映中の映画「野火」(塚本晋也監督)を見てきました。原作は大岡昇平の同名小説です。原作が発表されたのは敗戦後間もないころで、学生時代に大岡作品は「俘虜記」「野火」「武蔵野夫人」と熱心に読みました。中でも「俘虜記」は、フィリピンで戦って失神中に捕虜になって帰国するまでの経過を素直に詳細に記録しており、非常に参考になりました。「野火」の方は、同じ戦場を小説として描いたものですが、やや難解だった印象があります。それが、今日の朝日新聞記事と新作の映画を見ることで、ようやく焦点が合ったと思いました。
 これは見ていて気持ちのいい映画ではなく、いわゆる戦争映画でもありません。戦闘らしい場面はなく、誰と戦っているのかさえもわかりません。しかし南方の戦場で殺された日本兵の多くは、アメリカ軍に殺されたというよりも、「戦争そのものの狂気」によって殺された場合が圧倒的に多かったことは事実でしょう。ありとあらゆる人間らしい希望と必要を否定され続けるのが、戦場に投入された兵隊たちの運命でした。
 徹底的に食糧が不足して人が餓死に直面したら、死んだ人間の肉を食料にするのは合理的です。大岡昇平の場合は、それでもなお人肉を食うことのできない人間とは何かを問うてみたかったのだと思います。しかし塚本晋也監督は、この状況を「戦争が絶対悪である」ことの象徴として描きたかった。だからこそ今の時代に映画として作っておきたかったのだと理解できました。
 映画の作り方としては、予算も充分ではなかったでしょうし、レイテの戦場がリアルに感じられることはなく、むしろ舞台劇を見るような感覚に近いところがありました。しかし、うじ虫のわいた死体が食べごろの肉に見えるような表現は、映画ならではのものでしょう。テーマとなっている「野火」の炎が、せめて肉を焼くことで食糧らしくなるようなところまで、私だったら描いてみたいなどと、とんでもないことまで考えました。
 戦争は殺人と破壊を目的とし、敵国人の不幸を自分たちの喜びとする非人間的な行為です。自衛のため、正義のため、平和のためなどと、言葉で飾れば飾るほど、指導者は不誠実な虚像を作り上げるために壮大な嘘を積み重ねる必要に迫られます。それに協力するのは、戦争を種にして商売を拡大する武器商人たちです。
 戦争を肯定したい人たちは、殺した敵の肉を、ステーキにして食べることが出来るかどうか、試してみるといいでしょう。
(追記)ここで言いたかったことの要点は、戦争の容認は人間の尊厳とは両立しない、ということです。

9.16憂国の国会包囲デモ

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 参議院での安保法制委員会採決の可能性が伝えられた日、国会前には夕方5時過ぎから人が集まり始めていました。

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 議事堂周辺を一周してみると、和風庭園の裏手には、こんな強烈な立て看板もありました。

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 一周して議事堂正面の坂下まで戻ったところで、久しぶりに弁護士の杉浦ひとみさんに出会いました。「弁護士」の腕章をつけてトランシーバーを持ち、トラブルがあったときに備えて警戒しているとのことでした。杉浦ひとみさんが参院選の東京地方区に社民党の候補者として出馬し、健闘したのは2007年夏のことでした。このときに
 たまさかに 出会う初日の 選挙カー 
  手を振る君は 町に分け入る
という歌を作りました。そんなことが縁になって、今までつづく「ブログ連歌」のやりとりが始まったのでした。
 杉浦さんは「杉浦ひとみの瞳」というブログを書いておられます。
http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007
最新記事は「60日ルールは使えないはず」で、このルールは自然成立的に使えるものではなく、「参議院が否決したと見なすことができる」だけの条件が整った場合にだけ使えるもので、今はそんな状況ではないことを説明しています。こういう人が国会デモを見守ってくれていると思うと安心感があります。
 今夜の東京地方は曇り空。ときどき小雨が降り始めるものの、傘を広げようかと思うと止んでしまう状況で、レインボウの傘は濡らさずに持ち帰りました。家に帰ってテレビの音声を聞いていますが、国会は夜に入っても膠着状態のようです。国会の周辺には、まだ多くの人たちが残っていることでしょう。それぞれみんなが「憂国の士」です。

ブログ連歌(417)

8319 さくらじま ホテルのあった 古里町
8320  五月の旅は いまも懐かし (建世)
8321 平和には生き残れるチャンスがある
8322  貴方は 暖かい手と広い胸がある
8323 平和には 人を穏やかにする力がある
8324  貴方には 見知らぬ人に笑顔を与える力がある
8325 平和には 狂気を抑える知恵がある
8326  貴方には 生き残る義務がある (獣医さん)
8327 一夜寝て 起きて一日 ありがたし (建世)
8328  今日行く 今日用 ありせば (獣医さん)
8329 秋早し 見ぬ間に木の葉 色づきぬ (みどり)
8330  日暮れて静か 虫の声聞く (建世)
8331 其処かしこ 豪雨に地震 危うき地 (みどり)
8332  削ってソーラー 個人の堤防 (ほのおの夕陽)
8333 夜語りは 藁屋の民家 秋の風 (建世)
8334  豪雨避難地 隔世の夜ぞ (みどり) 
8335 草千里 阿蘇も怒りを 現わにし     
8336  安倍の傲慢 懲らす火もがな (建世)
8337 戦争法 廃案の声 揺るぎなし (みどり)
8338  違憲の法を 可決するとも (建世)
8339 国会は 部屋を出入りの 隠れんぼ (建世)
8340  議長の権威  地に落ち果てし (みどり)

小説・昭和からの遺言(75)皇太子建仁親王の即位

 昭和天皇の崩御は、直ちに皇太子が天皇に即位することを意味する。その日付は、昭和天皇が崩御した昭和六十四年(1989)一月七日の当日である。この日から皇太子は天皇となった。新しい年号は「平成」であると翌日に内閣から発表された。
 在位中の天皇は「今上(きんじょう)天皇」と呼ぶのが正式だが、この呼び方は日常的には使われない。常に天皇は一人しかいないのだから「天皇陛下」または「陛下」と呼ぶだけで事実上の固有名詞になる。あえて第百二十五代の天皇を特定するには「平成天皇」と呼びたくなるのだが、近代の天皇制では諡(おくりな)として没後に年号をその時代の天皇の名とするので、在世中の天皇を呼ぶのは失礼になるだろう。そこでこの小説では単に「天皇」または「建仁(たけひと)天皇」と呼ぶことにする。
 また、昭和の時代が終ったあとは、年号には平成を使わず、西暦に一本化したい。昭和生れの者にとっては、六十三年も続いた昭和の年号は絶対的に近い時間尺度になっていたのだが、それが終ったあとは昭和の呪縛から解放されたいのだ。
 思えば建仁親王が皇太子でいた年月は長かった。生まれてすぐから五十五年間も待たされていたことになる。少年時代は戦争の渦中だった。そして敗戦とともに皇室もゆらぎ、父・天皇の立場も大きく変ったことを目の前で見てきた。少年期に受けた厳しい「国軍の大元帥」になるべき教育は、戦後は開明的な「自分でものを考える」ことを重んじる教育へと変化した。そうした中で外国の王家のことを学び、日本の天皇制についても客観的に学ぶことがてきた。学生生活では、何でも話し合える友も得た。
 中でも大きかったのは、青年期の恋と、それを貫いて生涯の伴侶を得たことだった。人として生きることと、皇太子・天皇であることを両立させるという奇跡のようなことが、この妃を迎えることで可能になったのだった。そして家庭人の幸せを実現した上での即位だった。即位の礼は、世界の百ヶ国を超える国々から元首級の賓客を迎えて盛大に行われた。その式場で天皇は次のような「お言葉」を述べた。
 「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」

この夏わが家の救世主たち

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 この夏、食欲の落ちてきた私たち夫婦の常備品になったのが、みかん・オレンジ100%の「ポンジュース」と、無添加の「あま酒」だった。ポンジュースは松山市の「蠅┐劼甍料」、あま酒は徳島県藍住町の「かねこみそ蝓廚寮宿覆班充┐気譴討い襦ポンジュースは、水分が欲しくなったときの飲料として常用していた。ぴりっとした酸味が、暑さにぼやけた意識をクリアにしてくれるような気がした。ビタミンCが入っていそうなのも良かった。
 「あま酒」の方は、説明書には温めて飲むのを前提にしているのだが、わが家ではもっぱら冷蔵庫で冷やしておいて、そのまま飲んだ。粥のように米こうじの濃い甘酒だが、アルコールはゼロのさわやかさで、食後にも別腹に入る感じで、気持ちよく飲めた。食が細いのを補って、栄養になるような気がして安心だった。妻は少し牛乳を混ぜて飲むこともあったが、私は甘酒の味そのものが気に入っていた。
 加齢とともに、食欲の減退をはっきり意識するようになったのがこの夏だった。好き嫌いのないのは昔と変らないが、たっぷり食べるのが楽しみなような、食前の空腹感が弱くなったのは否めない。食欲が、生きる力の源泉であることを実感している。野獣なら、こ辺で餌を取るのが面倒になって自然に退場するのだろうが、人間であるおかげでこうした飲み物に助けられた。今しばらくは世の変転を眺めていられそうである。
 じつは横のテレビでは、安保法制の参議院特別委員会での審議を中継している。時々ヤジや怒号を交えながら、浮世離れしたような法律解釈や適用例についての質問と答弁を繰り返している。与党は答弁に行き詰まるたびに、中断しては寄り集まって相談している。審議すればするほど疑問が出てきて、収拾がつかなくなるのがよくわかる。しかし不思議なことに、一人の質問が終ると、総理大臣は「提案は撤回致しません」と総括するのだ。
 話を聞いていると、与党側から譲歩する気配はない。60日ルールを使っても、今国会で成立させるのは既定の方針のようだ。この法案および政局の行方は見えないが、安倍政権に国の未来を託することができないのは、ますます確かになる。

小説・昭和からの遺言(74)バブル崩壊と昭和天皇の崩御

 二十年近くも連続した順調な日本経済の発展の間には、沖縄返還、日中国交回復、田中角栄首相による日本列島改造計画、ドル・円の変動相場制移行、ベトナム戦争終結、国鉄民営化など、いろいろなことがあった。その間には何次にもわたって自衛隊の防衛力整備計画も進められいたのだが、国民の関心の中心は、なんと言っても経済成長に伴う生活の変化に向けられていた。アメリカの第一の関心事は、依然としてソ連との対立に負けないことだったから、安保条約による日米関係は相対的に安定していた。
 バブル絶頂期の日本の不動産価格の高騰ぶりは、「日本の不動産の総額で、アメリカが二つ買える」と言われるほどだった。サラリーマンが持ち家の相談で金融機関の窓口に行けば、日本中のどこであっても、土地さえ担保なら融資すると誘われるのが常識だった。株価は、昭和が終った平成元年(1989)の年末に三万八千九百五十七円の史上最高値をつけている。それが九ヶ月後には半額に暴落するのだが、バブルの渦中には誰もそんなことは知らない。異常の中では異常が通常になるのだ。
 この時代の日本人を象徴する言葉が「エコノミック・アニマル」だった。経済つまり損得の金勘定に価値観が特化して、文化、環境保護、人道支援、世界平和といった人類の普遍的な価値への貢献や関心を忘れてはいないかという、やや自虐的な響きもあった。経済大国になってはみたものの、国の進路はまだ見えなかった。
 そんな中での昭和天皇の崩御だった。前年の夏から天皇の病状は公表され、テレビ放送は娯楽番組を自粛するなど、国をあげての見守りムードとなった。昭和天皇は在位年数が六十二年あまりと、神話時代を除く歴代天皇の中でももっとも長かった。その前半人生は戦争の連続であり、前代未聞の敵国への降伏を経験した天皇でもあった。闘病の意識の中で、最後に去来したものは何だったのだろう。多くの国民が「天皇陛下万歳」を唱えて死んだことは、臨終の夢を乱さなかっただろうか。
 降伏してマッカーサーの指導下に入り新憲法を受け入れたことを、天皇は後悔してはいなかった。あの場合の判断としては、むしろ最善の結果を導いたとさえ思っていた。そもそも天皇には、自分が主役として日本の歴史を作ったという自覚はなかった。臣下の提言を裁可して行く中で、時として自分の感想を述べただけである。その意味では時代の流れの表面に浮かんでいたに過ぎない。
 それでも戦争犠牲者への哀悼の気持ちは、誰よりも強く持っていたつもりである。混濁する意識の底には、宮城前を埋めた日の丸の旗の波と「万歳」の声があった。天皇の死を待っていたかのように、日本のバブルは崩壊し、世界の激変も始まった。

96歳の遺言〜戦争だけは絶対やっちゃダメ

 以前に当ブログでも紹介したことのある中谷久子さんの「96歳の遺言」が、ご本人の朗読で動画になっているのを、このブログではまだ紹介していなかったことに気がつきました。絵本としてネット上に公開したボランティアグループが、昨年の秋から朗読つきの動画にする作業に取り組み、この春から公開しているものです。
http://96sainoyuigon.jimdo.com/
 絵本も動画もすべて上記のアドレスから見られますから、まだ見ていない方には、強くおすすめします。
 96歳の遺言を残した人は、大正6年(1917年)生れの久米ぁ覆韻ぁ砲気鵑箸いκで、2013年に入院先で中谷久子さん(当時82歳)と知り合い、中谷久子(hisako-baaba)さんはその思い出話の一代記を聞き書きした「96歳の遺言」を、ご自分のブログ「八十代万歳!」に掲載しました。その内容に感動した人たちがプロのボランティア集団を形成して、イラストつきの絵本に仕上げたのが2014年のことです。久米い気鵑呂修料闇のうちに亡くなりましたから、文字通りの遺言として世に残ったわけです。
 大正6年生れの久米い気鵑蓮⊂赦造箸い時代を最初から最後まで見届けました。それは戦争に明け暮れた半世紀であり、戦争に翻弄された女たちの涙と汗の記録です。そして残した最後の言葉が「戦争だけは絶対やっちゃダメ」だったのです。その思いは、中谷久子さんと共通のものでした。
 中谷久子(hisako-baaba) さんのブログも、毎日生き生きと綴られていて、反戦ばーばの面目躍如としています。
http://hisakobaab.exblog.jp/
私よりも2年先輩の84歳で、今も朗読ボランティアなどとしても活動するhisako-baabaさんの活力には感嘆させられます。今夜は埼玉県三芳町の民俗資料館で行われる「民家で夜語り」に出演されます。
(追記・久子さんの「夜語り」の内容が、ご本人のブログでよくわかります。本当に名演でした。以下のエントリーでごらん下さい。)
http://hisakobaab.exblog.jp/21638704/

自公・対・非自公の「二大政党」に持ち込めば勝てる

(熊さん)ご隠居、久しぶりに長妻さんのビデオ撮影に行ったんだって?
(ご隠居)週間報告ビデオの撮影でね。秘書さんの仕事で間に合うんだが、たまには雰囲気を変えようってんで、議事堂の前で撮ってみたよ。けっこう楽しかったね。
(熊)で、なんか話ができましたか。
(隠)わりと時間があってね、大部分は秘書さんと話したんだが、長妻さんにも要点は話せた。次の選挙で自公に勝つ方法だよ。一強多弱じゃ勝負にならんけど、「沖縄方式」なら勝てるということだ。定員一人のところで勝てないとだめなんだよ。
(熊)選挙制度が悪くても、すぐには変えられないですからね。
(隠)そうだよ、自公が自分たちに都合のいい制度を簡単に手放すわけはないんだ。だけど「自公」対「非自公」の二大政党しかないとしたら、今の世論調査から見ても余裕で勝てるのは間違いない。つまりは「安倍を止める」という緊急事態に対応する選挙協力が成り立ちさえすればいいんだ。
(熊)でもさ、それができないから「多弱」なんでしょ。
(隠)そうさ、政治のプロほど、難しいのがわかってる。長妻さんもその一人だ。でもね、冷静に計算したら、参加したどの党にも利益になるのも確かなことなんだよ。選挙のとき限定の協力でもいいが、できれば継続的な結集への夢があるといいな。たとえば民主平和党の三原則「国民主権・平和外交・脱原発」に集約した、ゆるい連合でいいんだ。これなら共産党も排除しないでやって行けるし、共産党も排除しないということが、非自公結集の積極的な力になってくる。実際に選挙で勝ったときに、共産党が連立政権に加わるかどうかは、また別な話にしておいてもいいんだ。
(熊)へーっ、ご隠居の「民主平和党」構想に出番が来たら面白いですね。
(隠)民主党に「平和」の文字をつけて新党にするといいね。使ってくれるんなら、喜んで提供するよ。旗だって使ってくれていい。
(熊)民主党が本気で変ってくれたらいいですね。そこまで話ができたんですか。
(隠)立ち話でそんなに踏み込んで話せたわけじゃないよ。だからこうして書いているわけさ。だけど「今夜のブログに書いておくから読んで下さいよ」と言ってあるから、読んでくれると思うよ。それときょうは、阿部知子さんが民主党に来ているが、あれは総理にもなれる人だと秘書さんから聞いたよ。長妻氏とも話が合うようだ。蓮舫さんもいるし、民主党には、自民党なんかよりも、楽しみな人材はよっぽど多いんだよ。
(熊)短くても政権を担当した経験があるわけだしね。
(隠)自公に対立する「安倍を止める連合」の二大政党なら、新党は勝てる。これだけは確かなことだね。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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