志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2015年10月

小説・昭和からの遺言(91)昭和の時代とは何だったのか(その四)

 そもそも明治維新は、薩長ら雄藩が、まだ少年の明治天皇を擁して政権を奪取したクーデターだった。徳川慶喜が構想した大政奉還は、天皇の権威のもとに徳川以下の諸藩が近代化した合議制によって国政の実務を担当するという、日本国の伝統に基づいた「象徴としての天皇制」を再定義する試みだった。しかし幕府への懲罰感情の強かった薩長らは、武力を背景として宮廷内の実権を掌握し、錦の御旗を押し立てて、天皇親政に名を借りた「王政復古の大号令」で幕府を「朝敵」に追いやったのだった。
 軍事政権の性格を帯びた明治新政府のもとで、明治天皇は「大帝」の名で呼ばれるほどの偉業を成しとげたとされる。明治の元勲たちは官制の近代化を手がかりとして、殖産振興や富国強兵に全力で取り組んだ。江戸時代に蓄積されていた教育普及の高さ、職人の技術力、貨幣経済の整備などが、ことごとく国の近代化に役立った。結果として東の端にいた日本が、アジアで最初の近代国家に変身できたのである。
 憲法によって、日本は天皇が統治する「帝国」であると定められた。しかし天皇は絶対君主ではなく、議会と国務大臣による助言と輔弼(ほひつ)によって権力を行使することになっていた。明治天皇は、臣下と熟議した上で決断を下し、国運をかけた日清、日露の大戦争にも勝ち抜いたと信じられている。天皇を頂点として前線の一兵卒までが一丸となって戦えば勝てるという「皇軍の不敗神話」が、こうして形成された。
 日本にとっては「遠い戦争」だった大正時代の第一次世界大戦を経て、昭和の時代になったとき、日本の前には依然として近代化の進まない中国大陸と、その一部で日露戦争により特殊な権益を得たつもりの満洲の地があった。明治の戦争から一世代が経過して、日本の軍部は国政に大きな発言力を持つ軍閥に肥大化していた。「国難」があれば軍が起って国の進路を開くという自負がある。
 日本の軍国主義には、ドイツのヒトラーのようなカリスマ指導者はいなかった。しかし一定の方向に「空気」が流れだすと止まらない習性が当時の日本人にはあった。その深層に今は立ち入らないが、明治以来の膨張政策は、ここにも連続していたと見るしかない。軍は大陸へ進出する夢にこだわり、政府はそれを抑止するのに失敗した。
 国家にも個人のように一定の「集団としての意思」があるのだろうか。アジアの島国が近代化に成功して世界の強国の一つと数えられるまでになった。分に応じて近隣諸国の近代化に協力しながら、平和のうちに共存共栄をはかる道は選べなかったのだろうか。主観的にはそうしたかったのかもしれないが、相手の事情に合わせなければ共存はできない。それよりも、一度はできる限り大きくなって限界を試してみたかったのではないか。

小説・昭和からの遺言(90)昭和の時代とは何だったのか(その三)

 敗戦にともなう混乱は、疎開先の皇太子にも迫っていた。降伏をいさぎよしとしない宇都宮連隊の幹部が、皇太子を擁して徹底抗戦する意図で皇太子の引き渡しを要求してきたが、侍従武官と護衛隊指揮官の説得でようやくあきらめるといったこともあった。憲兵隊からは、アメリカ軍が皇太子をアメリカへ連れ去る可能性があるとの情報も寄せられた。それらのざわついた雰囲気の中でも、皇太子はけんめいに平静を保とうとしていた。
 しかし終戦の事態処理は、大筋では順調に進んでいた。日米両軍とも戦闘の停止はよく守られ、降伏文書の調印も日本軍の武装解除も順調に進み、アメリカ占領軍の進駐も混乱なく始まった。それらの統制のとれた動きの原動力が、天皇が発した「勅語」の権威であることは明らかだった。東京にマッカーサーが総司令官として着任し、天皇との会見も行われてやや落ち着いた秋になって、皇太子は東京に帰ってきた。
 このときに車の窓から見た東京の戦災風景は、強い衝撃だった。戦争に負けるとは、このように破壊されることだったのか。首都を守ることのできなかった日本という国の弱さを、改めて認識させられた瞬間だった。この国はどうなるのか、外国の軍隊に占領されるとは、どういうことなのか。その中で天皇は、そして皇太子である自分はどうなるのか、まだ何もわからなかった。
 しかし皇居に入ってからの暮らしは、意外なほどに穏やかで、昔のままに近いものだった。侍従たちは口々に戦時中の不便や苦労をねぎらってくれるのだが、自分にはそんな実感はなかった。むしろこれからが大変になると覚悟して帰ってきたのに、これからは安心してお暮らしになれますなどと言われるのが、違和感があった。
 このときの違和感を大事にしたいと、建仁は本能的に感じていた。この大きな戦争が失敗に終ったあとも皇室が無事に暮らせるというのは、どこか間違っているのではないかと思ったのだ。天皇がマッカーサーと信頼関係を結んで日本の復興に努力したこと自体は良かったと思う。敗戦国の元首が、国民から恨まれも排斥もされないで、立ち直る希望の象徴のように敬愛されているというのも、世界に例のないすばらしいことだとは思う。だがそれに甘えていていいのだろうか。
 明治維新をなしとげて近代化を成功させた日本は、それから何度も戦争を繰り返して大きくなってきた。日清戦争では朝鮮から清国軍を駆逐して、台湾の領有権と多額の賠償金を得た。日露戦争では朝鮮、満洲からロシアの勢力を退け、南樺太を獲得して、韓国併合への道筋をつけた。こうしてアジアの最強国となった上で、さらに世界の新秩序を唱えて膨張政策を続けたのが昭和の時代の前半だった。だがそれは必然だったのか。

間庭小枝さんの椰子の実コンサートと「この世にただひとり」の曲

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 先週の土曜日、2015年10月24日に、間庭小枝さんの第16回「椰子の実コンサート」に招待をいただいて行ってきました。間庭さんは所沢で「カルチャースタジオ・メヌエット」を主宰して音楽教室などで活発に活動するとともに、maniwa menuet の名でユーチューブに多数の音楽動画を提供して「よい歌の普及」に努めています。その間庭さんが年に一度、ソプラノ歌手のソロ・コンサートとして開催しているのが「椰子の実コンサート」で、私は昨年につづいて聞かせていただきました。昨年のブログ記事は以下にあります。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55608967.html
 今年のコンサートでは、「外国のうた」の中で「ジプシーのうた」(この世にただひとり)を私の作詞で歌っていただきました。しかも場内で作詞者として紹介をいただき、歌唱の前に歌詞の第一節を朗読するという、破格の扱いをしていただきました。妻も同席していましたから、記憶に残るコンサートになりました。歌そのものは、短いものです。ツィゴンネルワイゼンの中ほどで流れるハンガリア民謡の印象的なメロディーです。

1.この世にた だひとり きみこそ わがひかり
  つきせぬ あこがれを 永久(とわ)にと いのる
2.きみこそ 世のたから 花より うつくしく
  やさしい ほほえみを 永久(とわ)にと いのる

 この作詞をしたのは1966年(昭和41年)のことでした。野ばら社の「世界名歌集」の中で、独立した歌として題名も「この世にただひとり」で掲載しています。作詞に当っては、ハンガリー大使館を訪ねて原語の意味を教えてもらいました。ひたすらに恋人を讃える恋歌でした。
 この歌を、鮫島由美子さんが「ローレライ 〜ヨーロッパ愛唱歌集」というアルバムの中で、「ジプシーのうた(この世にただひとり)」として歌っていることが、あとでわかりました。レコードかカセットテープの時代のことです。私としては「この世にただひとり」を題名にしてほしかったのですが、事後のことで、そのままになりました。
 現在「この世にただひとり」で検索すると、マンガの作品(ひとりを「一人」と漢字にしている)があるようで、そちらの歌詞が出てくるようです。しかし一つだけ、楽天の「レコチョク」というネット配信サービスで、「ローレライ 〜ヨーロッパ愛唱歌集」の中からシングルで「ジプシーのうた(この世にただひとり)」が、一曲250円で購入できるようになっていました。
 歌にもいろいろな運命があります。かつて鮫島由美子さんに拾われ、今年は間庭小枝さんに歌っていただいたこの歌は、いつまで残ってくれるでしょうか。「この世にただひとり」へのあこがれは、生涯を通して変らないとしても。

「この世にただひとり」の歌は、ここで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=POVWjSlsiy4

小説・昭和からの遺言(89)昭和の時代とは何だったのか(その二)

 疎開先の教室でも、世の中の重大な動きは授業の前後に先生から伝えられていた。ドイツが力尽きて降伏したことも、沖縄が総力をあげた特攻作戦にもかかわらず全島をアメリカ軍に占領されたことも、連合国側が日本に降伏を促すポツダム宣言を発表し、それを日本側が「黙殺」していることも、そして広島に「新型爆弾」が投下されて相当な被害があったことも、ソ連が突然に中立条約を破って日本に宣戦布告をし、満洲や南樺太に攻め込んできたことも、長崎に二発目の新型爆弾が落とされたことも、そのつど概略のことは知らされていた。皇太子は私室にもどってそれらを伝える新聞を読むこともできた。しかしそれ以上のくわしいことは、侍従も答えられないのだった。
 それ以前から、東京への空襲が激しくなって皇居内でも被害が出たと聞かされていた。もはや負け戦の様相になっているのは誰にでもわかる。このときに日本の政府は、天皇は何をどうしようとしているのだろう。近代兵器を使う今の戦争が、歴史物語のような忠臣が現れて一気に形勢を逆転する可能性はありえないだろう。神がかりの奇跡でもいいから起きてほしいものだが、空想に逃げ込んでいる場合ではない。
 皇族として天皇の位を継ぐと決められている自分には、何か学友たちと同じではない日本の国と国民に対する責任があるのではないか。初等科の六年生になっていた皇太子は、そう考えると不思議に前向きの気持ちになれるのだった。そこで思ったのは、この先に何があろうと、自分は「しっかり」していようということだった。「しっかり」の内容はわからないが、それは苦難があっても乱れないことだと思った。何があっても驚かず、乱れないでいようと思ったのだ。
 その「何か」は、「正午から天皇陛下の重大な放送があります」という告知としてやってきた。学友たちとは別なホテルの一室で、皇太子は正座して放送を聞いた。こぶしを固く握って両膝に置き、頭を垂れ耳を澄まして聞いた。天皇の声が流れ始めてすぐに「朕は帝国政府をして、かの共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」のところで、ポツダム宣言を受け入れての降伏であることがわかった。涙は出なかった。ただ、来るべきものが来て戦争が終ったことだけが、はっきりとわかった。
 この日を境にして皇太子の様子が変ったことは、周囲の人々にもはっきり見て取れた。悲壮感かもしれないが、一種の威厳と重さが加わったように見えたのである。戦争に負けた国の王や皇帝がどのような運命をたどったか、世界の歴史には多くの例がある。天皇は詔書で「国体を護持し得て」と述べているが、日本の天皇だけが安泰でいられるわけがない。何があろうと、自分は乱れてはならないのだ。

ブログ連歌(420)

8379 600兆 誰が稼ぐの この格差社会で (獣医さん)
8380  企業栄えよ 国籍不問 (建世) 
8381 沖縄の 辺野古埋め立て 断固阻止 (みどり)
8382  政府の対応 皆で見守り (うたのすけ)
8383 積年の 血涙の染む 島なるぞ
8384  止むにやまれぬ 沖縄の乱 (建世)
8385 米軍の 基地あるかぎり 平和なき (みどり)
8386  民意明らか 埋め立てやめよ (建世)
8387 防衛費 福祉削りて 膨張す (みどり)
8388  不足経費は 消費税にて (てるゆき)
8389 派遣法 改悪ひそか なされけり (みどり)
8390  悪代官は 手段選ばず (てるゆき)
8391 国会は 逃げて外遊 散財す (建世)
8392  皆で行けば 怖い者なし (てるゆき)
8393 改憲阻止 正念場となる 参院選 
8394  厳しくあれど 絶望をせず (建世)
8395 月いずる 天に暗雲 絶えざるも (みどり)
8396  虫の声絶え 秋冷清し (建世)
8397 人文と 社会科学系 学問を
8398  恐れ廃止と 未来を封ず (みどり)
8399 焚書坑儒 暴帝の故事 彷彿す
8400  電子の世にも 姿を変えて (建世) 

急がれる「受け皿」作り(池田幸一メール)

(池田幸一さんの2015年10月26日深夜のメールです。)

 皆様。池田幸一です。
 拝啓岡田克也様。“長年お世話になりながら誠に心苦しいのですが、次の選挙では貴党に投票する気にはなれませんので、この段ご通知申し上げます。”近頃の民主党を見ていると、こんなハガキを出したくなってしまいます。維新の残党と手を組もうなどとは以ての外、政治家としての資質を疑います。貴方は、多くの国民が本能的に安倍政権の危うさを知り、翕然と全国的に湧き上がった戦争法案反対の声は、戦後70年をかけてやっと芽を出した「本もの」のデモクラシーだとは受け取れないのでしょうか?
 今急がれるのはこの国民の声の受け皿で、これでは折角湧き上がった「アンチー安倍」の声が生かされないのです。どうして「国民連合政府」を作ろうという共産党の呼びかけに賛成出来ないのか?国民の切ない声を吸収し、国民と共に考え、戦うことが野党としての義務ではないのか?折角その気になった「打倒安倍政権」の流れを汲み取るどころか、自公政権を後押しするような愚かさ、このような民主党に投票することは自殺行為に他なりません。
 政界再編成は天の声、またその第一歩は民主党の解体です。おそろしく右から左へ幅の広いこの党が、まともな統一見解を打ち出せる筈はないのであって、これでは野党第一党として失格、国民の負託に添えない欠陥政党と言わざるを得ない。
 このたびの戦争法案反対の司令塔は、超党派議員連盟の「立憲フオーラム」であることは、多くの人の知るところ、これこそが今後の国民の声をキャッチする核ではないでしょうか?民主、社民の混合チームは現在44議員、代表は近藤昭一、副代表に阿部知子、福島みずほ、水岡俊一、、幹事長に辻元清美、事務局長に江崎 孝、事務局次長に那谷屋正義、顧問には横路孝弘,又市征治、照屋寛徳、江田五月、菅直人、など・・・この中には「シベリア特措法」成立に力を貸して下さった方々の名も多いのです。
 「受け皿」の形は二年前から既に出来ていたのです。長妻 昭さんの名が見えませんが、民主党をぶっ壊せの荒療治はこの人の役目、誰かがやらねばならない仕事ですが、この国民の声を叶えるには相当の腕力と知恵が必要です。
 “幾ら説明したところで、今の国民は理解してくれないが、そのうちだんだん判ってくる。政治とはそんなものだ。”この声に腹を立てた母親や若者の怒りがどのようなものか?これに全国各地の「憲法9条を守る会」「反核」のグループなどが団結し、今こそ「打倒安倍」一点に集まるべきだと思います。
 私は映画俳優の故菅原文太氏の言葉が忘れられないのです。“凡そ一国の宰相たるものは、国民に腹いっぱい飯を食わすこと、そして戦争で一人も国民を殺さない事、この二つが出来れば一人前”ですが、まさに至言と申せましょう。安倍総理は果たして適格か?彼はすでにバングラデッシュで国民の一人を殺し、あと何人やられるか?。何はともあれこの愚かな政権を倒すことが第一で、共産党の画期的な提案に耳を傾け、早急に共同戦線を展開すべきです。
 そうでないと「安倍ファッショ」には勝てません。国民をご主人様とは見ず、専らワシントンに忠節を尽くす安倍総理は、アメリカ国会で約束した通り9月17日には戦争法案を強行採決いたしました。一強多弱,バラバラの野党が束になってかかっても叶わない。広範な国民の支持を味方にしてこその勝負です。
 私は手術後一か月、幸い順調のようですが、体力気力の衰えで暫くはしっかり発信が出来ないのが残念です。しかしそのうちに、親しい方々に直言し、「受け皿」作りを急ぎたいと思います。

小説・昭和からの遺言(88)昭和の時代とは何だったのか(その一)

 それから成長とともに昭和の時代の戦争を、その始まりから終りまで見てきた。生れたその年の一九三三年に、日本は満洲国の建国をめぐって国際連盟から脱退した。満州事変から始まる十五年戦争は、常に建仁とともにあった。そして父親である昭和天皇は、大元帥として全軍を指揮しておいでになると聞かされてきた。それは天皇の公務である、皇太子もいつかそのように強く偉大な立場にならねばならないと教えられてきた。そこでは、なぜそうなのかを疑うことは許されなかった。
 戦場が大陸であり、太平洋戦争が始まってからも遠い海外での勝利として伝えられている間は、日本という国も、その頂点に立つ父である天皇も誇らしいと思っていたのは当然だった。日本の天皇が世界を指導するような立場になる時代が来るのかもしれない。そのときに自分が天皇に即位したら、どんな役目が待っているのだろうか。日本が世界の勝利者になったら、その後にはもう戦争はないだろう。それだけでも、世界にとって良いことに違いない。それはかなり愉快な空想と言えるものだった。
 そんな空想が崩れてきたのは、アッツ島の玉砕、ガダルカナルでの苦闘と撤退などを聞くようになってきてからだった。当時は初等科の高学年になっていたから、戦争の見通しが決して明るくないことは理解できた。敵は物量にものを言わせて攻めてくるのを、日本軍は精神力で耐えているなどと聞かされると心が痛んだ。そして日本兵は傷ついても戦うことをやめず、最後は「天皇陛下万歳」を叫んで突撃したり自決したりするというのも、それが美談ではあっても心が重くなる話だった。
 やがてサイパン島が民間人を含めて玉砕し、本土への空襲が必至の状況になってきた。学習院の初等科でも学童疎開が行われ、沼津を皮切りとして最後は奥日光へと避難先での生活が続いた。学友たちは合宿形式の集団生活だったが、皇太子は奥日光でも別棟の居室で暮らし、多くの侍従や目立たぬように配置された軍によって守られていた。それでも授業や昼食の弁当などを通して、学友たちの粗末になる食糧事情や、家族から遠く離された心細さを見聞きすることが多くなった。
 その間にも、戦局は一向に好転しない。アメリカ軍はフィリピンから沖縄へと迫ってきて、これで南方との連絡が絶たれたことは、地図を思い浮かべればすぐにわかった。そしてヨーロッパでは同盟国のドイツが東西から攻められて敗戦の瀬戸際まで来ていると伝えられた。日本だけが世界を相手に戦って、どうして勝つことができるだろう。戦争は避けることのできない運命のように思っていたが、本当にそうだろうか。父である天皇はいま何を考えているのだろう。それは建仁が初めて感じた戦争への当事者意識だった。

次の参院選は改憲阻止さえ容易ではない厳しい現実

 この22日にあった老人党護憲プラスの例会では、田代雄倬さんを再びゲストとして迎え、最近の政治情勢を中心に話し合いました。そこで提示されたのは、来年夏に予定されている参議院の選挙では、憲法改定発議を阻止する3分の1の議席の確保さえ容易ではないという厳しい現実でした。
 原因は、改選されない半数の勢力比が、自公与党にきわめて有利になっているからです。自民65、公明11で合計76議席に対して、民主(+緑風会)17と共産8の合計は25しかありません。(ほかに維新、次世代、無所属といった党派もありますが、ここでは計算できる党派は前記の4党と考えます。)
 参議院全体の定員は242ですから、憲法改定発議阻止のためには81議席が必要です。つまり次の選挙では56名の当選が必要になるのです。このうち比例区については、不振だった前回と同じ12議席は取れると仮定します。すると残りは44になります。
 選挙区では、定員6の東京で3(民主2と共産1)、および4人区×3か所、3人区×5か所、2人区×4か所で各1の合計15議席を確保するとします。すると残り29を、32の1人区で獲得しなければなりません。つまり1人区で全勝に近い成績をあげなければならないのです。
 反安倍勢力を結集すれば、参議院を再びねじれさせることができるような幻想があるかもしれませんが、現実はとても厳しいのです。それというのも、野田政権による自殺的「大政奉還・解散総選挙」の半年後の参院選が、民主党への失望感のどん底で行われたことの後遺症が深いのです。
 安倍政権の視野には、憲法96条の先行改憲が据えられているでしょう。これを議会の2分の1以上で発議できることに変えておけば、それ以後のハードルはぐっと低くなります。あとはいつでも、国民投票で勝てる見込みの立つ時期を待てばよいことになります。待望の改憲に向けて、安倍政権はぜひとも参議院での3分の2が欲しいでしょう。
 だからこそ、なんとしても改憲発議阻止の3分の1を確保しなければなりません。そして、それだけでも容易なことではないのです。

小説・昭和からの遺言(87)三種の神器と天皇の地位

 太平洋戦争の末期、アメリカ軍の本土上陸が必至となった時点で軍部から出された対策に、「天皇に三種の神器を奉じて大陸へお移りいただく」という提案があったとの記録がある。陸軍は大陸に大軍を残していたので、作戦的には本土よりも天皇を守りやすいと考えたのだろうが、昭和天皇はこれを否定して松代大本営への移動を可とした。ソ連の真意も知らず、国外で天皇を守れると夢想した軍部の認識不足も甚だしいが、昭和天皇が三種の神器の護持に並々ならぬ義務感を抱いていたのは事実のようである。
 三種の神器とは、八咫(やた)の鏡、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙の剣の三点からなり、歴代天皇が継承する宝物とされている。現在は鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、勾玉は宮中に古代からのものが祀られており、宮中には鏡と剣の形代(かたしろ・神性を与えた複製)も置かれている。これらは皇族といえども実物を見ることはなく、箱に納められ白布で覆われているようだ。
 伝説では神器は天照大神から天孫に与えられたことになっており、神代と現代とをつないでいる貴重なものだが、これを科学的に研究することは、おそらく天皇陵墓の発掘調査とともに、天皇制が存続する限りは難しいかもしれない。そう考えると、日本の天皇は、世界にもまれな「生きている神話」そのものであるのがわかる。
 しかし敗戦間際の非常事態に発想されたように、天皇が三種の神器を奉じて生きてさえいれば、国が滅んで外国に亡命しても「国体は護持された」ことになるのだろうか。そんなことはありえないと昭和天皇も思ったに違いない。大八洲(おおやしま)と呼ばれた国土と、そこに住む国民があってこその日本国であろう。「あまつ日嗣(ひつぎ)の栄えまさんことまさに天地(あめつち)と窮まりなかるべし」と祝福した天照大神の期待が、わが子孫が無事でさえあればよいという小さなものであったはずがない。
 さらに建仁には、幼い頃に読んだ日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話絵本の記憶があった。草薙の剣は、武尊が東征の途中で枯れ野で賊が放った火に囲まれたとき、周囲の草を払って迎え火を放ち難を逃れたときに活躍している。そのとき身近には弟橘媛(おとたちばなひめ)がいた。その姫は、その後房州に渡る船が荒天で危うくなったとき、海に身を投じて海神の怒りを静めたと言われる。弟橘媛はこのとき「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と別れの歌を詠んだ。
 遠い伝説の時代から伝わる神器とそれにまつわる物語は、幼少の皇太子に限りないロマンの夢を与えたのだった。そこでは剣さえも荒ぶる武器ではなく身を守る知恵だった。太陽のように世を照らす光になる、それこそが天皇の役目だと思ったのだ。

母の生家を訪ねてきた

 この火曜日の20日(2015年10月)に、千葉県・八日市場にある母の生家を訪ねてきました。久しく「本家」と呼ばれてきた家ですが、跡とりの当主が亡くなり、子供たちも家を出て独立した後を守っていた妻も、昨年亡くなって無人となりました。そこへ、私と同年の従弟で、最後の当主の甥に当る作曲家が住むことになり、久しぶりに日帰りで訪ねてきました。

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 駅からは、母に連れられて何度も歩いた「古い道」を歩いてみました。見渡す限りの水田は、青々としています。いまどき裏作の麦でもあるまいと聞いてみると、稲刈りのあとの株から自然に芽が出て、二度目の稲が生えるのだということでした。放っておくと稲穂も出て小粒の米も実るが食用にはならないで、やがて枯れ、春には田起こしで鋤き込んで田の土の肥料になるのだそうです。

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 水路には、鴨が泳いでいて、白鷺の姿がありました。

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 家の正面入り口です。右に立っているのは槇の木で、「千葉県の木」だそうです。道の左右には、槇塀(刈り込んだ槇の生垣)が続いています。

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 門構えの周辺は、昔の面影そのままです。頑丈な門扉がついていますが、これが閉じられているのを見たことはありません。この門をくぐって、戦後の食糧難時代に、何度も「米貰い」に通ったのでした。母はこの家の長女でしたから、明るい声で「また来ましたよ」と入って行き、私は子供ながらも、少し肩身の狭い思いをしていました。

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 母屋は、たぶん20年ぐらい前に新築されたものでしょう。私の記憶とは、かなり違ったものに近代化されていました。

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 庭の奥にある土蔵と離れ屋です。蔵は二階部分から朽ちかかっていますが、もう手をつけられないということです。離れ屋は、戦時中は医師だった叔父の家族が疎開してきて使っていました。今は無人で閉め切っています。この裏が部落の墓地になっています。
 母屋では、奥の一間の床を補強して、従弟のグランドピアノが置いてありました。彼も今は一人の身の上です。しばらくはこの「本家」の家主として住んでくれるのでしょう。
 今回は、近くに住む叔父の養女とも会いました。警察官で、子のいない叔父の養女になったのですが、「私が来る前に、西ヶ原の建世ちゃんを貰うって話があったと聞いている」という秘話を教えてくれました。五人もいた中での末っ子だからでしょうが、たぶん私の母は承知しなかったでしょう。人生には、いろんなことがありえたのですね。

当面のお知らせ

 インターネットの接続不良もあり、しばらく休養を兼ねて更新を休んでいます。本人は元気ですので、ご安心ください。この機会に、過去記事などもごらん下さい。月別またはカテゴリー別のアーカイブからどうぞ。

小説・昭和からの遺言(86)祈る者としての天皇(その三)

 皇太子として沖縄で祈ったのは、父・天皇に代って謝罪しておきたいという気持ちがあったと思う。しかし、自分がたまたま戦争をして負けた天皇の皇太子に生まれ合わせたから祈った、というだけのことではないような気がする。日本の歴史の中で天皇の役割ということを考えると、自ら大将軍となって軍を率いるような場面は、むしろ例外だった。古代の神話時代は別として、文明が定着した平安以降は、貴族による派閥の争いはあったにせよ、政争とは違った次元の権威として存続していたように思われる。
 時には建武の中興のように、忠臣の力を借りて天皇親政を試みた例もあるが、結果は芳しいものではなかった。武士の力が強くなった時代以降は、戦乱の外にあって、勝者に権威を与えることで天下を安定させるという、今の憲法のいう「国民統合の象徴」に似た役割を果たしてきたのではないか。そう考えると、明治憲法よりも、現行の日本国憲法の方が、よほど皇室の伝統に親和的と言えるのではあるまいか。
 新憲法の制定が、マッカーサーの主導という面があったにせよ、日本側からも多くの知恵が寄せられている。そして何よりも感動的だったのは、人間を尊重し人間の幸せのために国家が存在するという、前文に掲げた「人類普遍の原理」が、天照大神に発する皇室の伝統と矛盾しないどころか、その核心に一致すると思えたことだった。
 皇室には「宮中祭祀」と呼ばれる一連の神事がある。それらは国家と国民の安寧を祈るためのもので、古代の面影を伝える荒行に近いものも含まれると言われる。昭和天皇も皇太子も、宮中祭祀の伝承には熱心だった。自ら稲を栽培して収穫し、実りに感謝する行事などは、農耕民族としての原点を忘れないためにあるのだろう。まつりごととは、まさに政治の原点で、天皇は「祈る人」であったのだ。
 その祈る心を国民の心に寄り添う行動として表現するのは、建仁天皇にとってじつに自然なことだった。敗戦の記念日や沖縄終戦の日、原爆記念日ばかりでなく、次々に起こる自然災害の被災者のためにも、天皇は后とともに足しげく現場を訪れるようになった。そして相手が座っていれば自らも膝をつき、ときには座り込んで同じ目線で言葉を交わすようになったのだった。
 国民の幸せは、平和であってこそ守られる。その信念は、戦跡をめぐる慰霊の旅でも確固なものになって行く。忘れられた戦跡や忘れられた戦死者が埋もれてはいけないのだ。
 戦争で人間が幸せになることはない。それは戦争に負けた日本だけではなく、世界の問題になってくる。国家は国民に戦争を強いることができるのか。そんな根元的な問題を、もはや政治的な権能を有しないと決められた日本の天皇が考えている。

「次の病院の予定」がなくなった

 大腸がん手術後の5年間が終了して、最後の診断を済ませてきました。CTと血液の検査に異常はなく、これで一段落ということで、今後についての相談がおもな内容でした。3ヶ月ごとの観察を受けている間は、定期的に医師に見てもらっている安心感がありましたが、今後は「異常があれば病院へ行く」という通常の暮らしにもどるわけです。40代の人なら時々はがんの検診も受けるといいですよと言えるが、この年では、その人の人生観によるということでした。
 私としては、いま書いているものが仕上がると、当面の課題がなくなって、あとはたぶん「おまけの人生」になります。苦痛があったら医者にかかって、直す方法があれば楽にしてもらうという、ふつうの暮らしで充分だと思います。少し前には、肺に影があると言われていた呼吸器科でも、「変化がないので卒業にしましょう」という判定をもらったところでした。
 昨日は地元の「地区まつり」で、区民センターでやっていた「高齢者体力測定」というのを受けてみました。左手の握力が、5段階評価で3だった以外は、全部の項目で5か4だったので、気をよくして帰ってきました。近ごろ実行率が低下しがちな就寝前体操も、さぼらないで続けようと思い直したしだいです。歯科にも変化はなく、2ヶ月に1回の清掃と点検を受けるだけにしています。
 医師の話の続きですが、一度がんを経験したから、がんが再発しやすいということではない。誰にでもがんの可能性はあるので、若い人は定期的に検査して、早いうちに手当てすれば早く完治するというだけのことだというのです。私の場合は、治療の終了で、がんについては「ふつうの人」にもどったというわけです。
 そこで私は、数年前のローン完済を思い出しました。40代の草加時代から始まった土地と住宅のための銀行ローンが、ついに完済で借金ゼロになり、土地建物の登記簿から金融機関の抵当権が消えたのでした。すさまじい借金の山とたたかい続けた40年間の借金人生が、ついに終って「ふつうの人」にもどったのです。
 周囲の人に負担をかけない「ふつうの人」でいられる時間は、あとどれくらいあるのでしょうか。「お世話になりました。チームの皆さんによろしく。」「何かあったら、いつでもまた来てください。」と、医師と握手を交わして帰ってきました。
 ふつうの人でいられる幸せを楽しみながら、自分にできることは少しでも多くやっておくのが世の中への恩返しになるのでしょう。「次に病院へ行く日」の予約票を入れておく箱が、空になりました。

ケビン・メアの「決断できない日本」を読む

 ブログ友の「花てぼ」さんが図書館からの払い下げで読んで、どう評価していいかわからないと書いていた「決断できない日本」(文春新書・2011年)を、中野図書館から借りて読んでみました。著者は在日経験が長く沖縄総領事も勤め、国務省の日本部長になったケビン・メアです。2009年に「沖縄県民は『ゆすり』の名人」と発言したとされて問題になり、解任された話題の人でした。
 当時は悪代官の代名詞のように言われていましたが、自分なりに釈明しながら日本への直言を残して置きたかったのでしょう。自覚的には、外交官として自分は誰よりも日本に長く滞在し、日本人を妻として家庭を作り、日本が好きな最上の親日家であったというのです。そして解任されるきっかけとなった発言については、アメリカで小さな学生グループの勉強会で話したものが、半年も後になって学生のメモから復元されたもので、その正確性も真意も検証されず、日本の通信社の悪意によって仕掛けられた罠であった。そして自分には釈明の機会さえ与えられなかったと無念を述べています。
 2009年は民主党への政権交代で鳩山政権が成立した年です。「普天間は最低でも県外」が盛り上がっていました。沖縄に居座る悪代官としてのアメリカ外交官というイメージは、マスコミに乗りやすかったのでしょう。しかし著者は、日本通の自分だが「ゆすり」という日本語は知らなかった。恐喝のようなイメージではなく、決断が遅くて結果的に予算を無駄にする日本の官僚組織への批判だったというのです。しかし火に油を注ぐ結果になることを恐れたアメリカ政府は、一切の反論を禁じて解任を決めました。
 事実関係はわかりません。録音がない以上、正確な用語は再現できないし、翻訳の問題でもあるでしょう。それでも後半で著者は日本への忠言という形で、日本の安全保障の問題を説いています。そこに読み取れるのは、アメリカから見た日本の立ち位置の問題なのです。「いったい鳩山は何を考えているのか」と思ったそうです。著者の頭では、日本と米中の関係が等距離で正三角形などは、ありえないのです。中国が膨張する独裁国で、日米は同盟している民主主義国だと決めているからです。
 メア氏の論理をたどって行くと、国連憲章の平和主義の原則、それは日本国憲法とも通じるのですが、そんなものは理想主義者が願望を書いただけの価値のない文章だと考えていることがわかります。その目で見れば、基地建設が「わずか数名の活動家の妨害」で止まってしまうような日本のやり方では、国の安全は守れないということになります。そこから見れば「決断できない日本」なのでしょう。でもそれは、事なかれ主義の官僚の非能率を批判するのとは、また別な問題だと私は思います。 
 「花てぼ」さんの地元図書館が、この本を「用済み」として払い下げたのは、やはり正解なのでしょうね。でも、書棚の幅がそんなに狭い図書館なのでしょうか。反面教師として置いておけばいいのに。

鼻血体質の解消を体験

 このところ鼻血の出ることが多くなって、気になっていました。何かにぶつかったとか刺激物を食べたといった心当りもないのに、ふと水洟がでたような気がして拭いてみると、血がついていることが続いていました。この傾向は子供時代からのことで、自分は体の弱い子なのだろうと思い、親もそう思っていたようでした。
 成人してからかなり昔に、何かで耳鼻科にかかったとき、右の鼻孔は鼻血の出やすい形になっていると聞かされたことがあります。考えてみると、鼻血を出すのは右の鼻孔が多いのでした。それ以来、病院で鼻にパイプを通す処置を受けるときは、必ず左の鼻孔を使うよう依頼するようになりました。
 鼻血はそれ自体で大事になることはありません。小鼻(鼻翼ともいう、骨のない柔らかい部分)を圧迫して出血している側の鼻孔をふさぎ、血流を止めて固まらせ、数分で止まったら息を通して乾かせばいいのです。チリ紙を丸めて鼻孔に押し込むのは、かえって時間がかかります。経験を重ねて、あわてずに処理する方法は覚えました。
 そんな経過で、自分はこのまま鼻血体質とつきあって行くのだろうと思っていました。ところがこの一週間ほどは、ほぼ毎日のように出血があり、ついに外出しての会食中に鼻血を出して、さすがにこれではまずいと思いました。そこで昨日は警察病院の耳鼻科を受診しました。科が違っても、半年以内に受診歴があれば初診料はかからないということで助かりました。
 耳鼻科の若い担当医に、これまでの病歴を説明し「なにか対症療法がありますか」と聞くと、診察室の椅子に座ったまま、ファイバースコープを鼻孔に入れての診察があり、医師は「出血するところを焼いておきましょう」と、事もなげに言うのでした。麻酔をかけて電気で焼く手術の準備がその場で始まり、血や唾を受ける容器を自分で顎の下にあてがうように指示されました。麻酔は薬品をつけたガーゼを鼻孔の奥深くまで押し込む方法で、鼻の奥が脳に直通しているのを実感しました。その上で内視鏡を見ながらの手術ですが、本番での痛みは何も感じませんでした。
 思ったより早く、10分ほどで手術は「お疲れさま」で終り、次に「鼻をかんでみてください」と言われて恐る恐るやっていると、「強くやってみてください」とのことで、そうしてもチリ紙は白いままでした。「これで当分は心配ないでしょう」ということで、すべて終了でした。
 生涯つづくと思い込んでいた鼻血体質とは、これで決別できたようです。明細書を見たら、名称は「鼻腔粘膜焼灼術」というのでした。こういう方法が、いつごろから実用化されてきたのかは知りません。医療技術の進歩は、82歳の老人にも確実な恩恵を届けてくれました。

共産党が本気になった

 共産党の志位委員長が昨日(2015年10月15日)の外国特派員協会の記者会見で提唱したという「国民連合政府」構想は、来年の参議院選挙に向けて現実味を帯びてきた。内容自体はこの夏から言われてきたことだが、日米安保条約の枠組みや自衛隊の存在については、党としての政策は一時凍結してもよいと踏み込んだところに真剣さを感じる。
 安保法制を廃止するには、とにかく衆議院で連合政府が過半数を占めなければならない。一度の選挙で実現する話ではないので、選挙協力は一定の期間継続しなければならないのだ。共産党の公約が、政権をとったら直ちに日米安保は廃棄する、自衛隊は解体するというままでは、政権に近づくことは難しい。連合政府を実現するには妥協が必要ということだ。
 政権に入ったための妥協というと、思い出すのは村山内閣時代の社会党である。あのときは首相の座を提供されたことで自民党の術中に落ち、社会党は不本意な妥協を繰り返しながら、分裂と壊滅の道へと進んでしまった。しかし今回の共産党の言う自党政策の一時凍結は、それとは次元が違っている。政策の違いを一時横に置いて、選挙協力で政権を交代させようというわけだ。
 その場合は、共産党は首相を出す必要はない。内閣にも入らなくていいかもしれない。選挙協力で合意した政策に限って協力すればいいことになる。だから選挙協力の政策は、簡単明瞭で少数にしぼるのがいい。憲法違反の疑いの濃い安保法制は、運用で凍結した上で改廃する、原発は基本を廃止に向ける、格差の是正を優先する、といったところだろうか。とりあえずは参議院の一人区で全勝しなければならない。
 それにつけても「国民連合政府」の顔になる人物が欲しいものだ。日本新党を率いて細川内閣を実現させたときのような熱気は、どうしたら生まれるのだろう。「とりあえず自民で安倍抜きで」あれば、誰でもいいのだが。

小説・昭和からの遺言(85)祈る者としての天皇(その二)

 昭和天皇が北海道を含む全都道府県への「巡幸」を果たしながらも、足を踏み入れることのできなかった県が一つだけ残った。それは沖縄だった。太平洋戦争で最後の捨て石として徹底抗戦を命じられ、日本本土で地上戦が展開された唯一の県でもあった。二十万名の戦没者のうちの半数以上が一般の沖縄県民であったとされている。さらに沖縄は戦後も長期にわたってアメリカの施政下に置かれていた。その間に多くの軍事基地が作られ、県民は日本政府から見捨てられたと感じていた。
 この沖縄を、昭和五十年(1975)に訪れたのが、当時四十一歳の皇太子だった建仁の「祈る旅」の原点になった。同年に開催された本土復帰記念事業としての沖縄海洋博覧会を機に、妃とともに訪問したのだが、空港に到着して最初に向かった先は、南部戦跡の「ひめゆりの塔」だった。この旅を前にして、皇太子は「石ぐらい投げられてもいい、沖縄の人たちの中に入って行きたい」と語ったと伝えられる。
 しかし投げられたのは石では済まなかった。塔の前で説明を聞いていた皇太子夫妻の前に、洞穴に潜んでいた活動家が火炎瓶を投じたのである。瓶は献花台手前の柵に当って高く炎を上げ、火流は夫妻の足元にまで流れてきた。現場は大混乱に陥ったが、皇太子は動じることなく、煙を浴びた服を着替えることもせずに、次の予定地である「魂魄の塔」へと巡礼を続けたのだった。その塔での思いを、皇太子は次の琉歌に詠んだ。
  花ゆうしゃぎゆん(花を捧げます)
  人(ふぃとぅ)知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
  戦(いくさ)ねらぬ世(ゆ)ゆ(戦争のない世を)
  肝(ちむ)に願(にがてぃ)て(心から願って)
 琉歌とは、八八八五の音で詠む琉球王朝からの伝統の歌の形式で、皇族の中でもこの形式で歌を詠んだ例はほかにない。沖縄の人たちの心に寄り添いたいという真情は、それほど深かったのだ。
 この旅の総括として文書で発表された「お言葉」は、「多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」と述べている。まさに「わが生涯の責務」を自覚した人の実践宣言であった。
 この皇太子の訪問によって、沖縄における皇室への印象は格段に好転したと言われる。しかしもちろん、関心は沖縄にだけ向いていたのではない。戦争のない世の中は、祈るだけで実現できるのだろうか。非戦を貫く強い意思は、どこから生まれるのだろう。

小説・昭和からの遺言(84)祈る者としての天皇(その一)

 天皇になることを運命づけられていた皇太子の時代に、自分への問いかけを繰り返しながら育ててきた一つの結論があった。それは、避けることのできない運命からは逃げないでいようということだった。逃げようとすれば周囲に迷惑をかけるばかりでなく、自分が惨めになってくる。それよりも自分に課せられた職分に正面から取り組んで、力を尽くしてみれば後悔が少ないだろうと思ったのだ。
 そこで憲法に定められた「国民統合の象徴」という天皇の役割は何であるかを考えた。それは国民の指導者になれということではない。そうではなくて「この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」のだから、国民が主役でその全体の意思に沿うことのできる者でなければならないのだ。それはつまり、天皇は国民の心に寄り添えということではないのか。それならばわかる、自分にはできるし、そうしたい。
 というのは、建仁には負い目の気持ちがあった。それは戦後の天皇による「全国巡幸」の中で、父の昭和天皇が、あまりにも無邪気に国民の歓迎を喜んでいる姿を見聞したときに感じた、かすかな違和感から始まっていた。とくに今も鮮明に覚えているのが昭和二十二年(1947)の広島での新聞写真だった。原爆ドームが背景に見えている会場で、帽子を掲げて見せる天皇は、熱狂的なバンザイの歓呼に迎えられたと書かれていた。その市民の気持ちはありがたいが、それだけでよかったのか。
 広島の市民が天皇を迎えたことで、一度は永久に廃墟になるとまで言われた町の復興を信じられるようになった喜びはわかる。しかし、この市民に対面した天皇には、原爆投下という未曽有の惨害をもたらした戦争を引き起こしたことについて、少しでも詫びる気持ちはなかったのだろうか。もし自分が天皇だったらどうしただろう。壇上に進み出た最初に、市民に向けて脱帽し深く頭を下げたら、少しは気持ちを伝えられたかもしれない。そんなことを思ったのだった。
 さらに遠慮なく言えば、敗戦を境にした昭和天皇の「変わり身の早さ」については、いろいろな資料で見聞を広めるにつれて、自分にはついて行けないと感じる部分が出てきたのだった。たとえば戦争責任を裁いた東京裁判を通して、元は臣下であった軍人たちの罪状が論じられるとき、被告の罪が重くなればなるほど天皇の身は安全なるという皮肉な構図が生れていた。昭和天皇の心は痛まなかったのか。そして絞首刑に処せられたA級戦犯の七名が靖国神社に合祀されたことを理由として天皇は参拝をしなくなったのだが、それだけでよかったのだろうか。なぜ天皇の名において多くの国民を戦死させ、その霊を神格化で美化した軍国主義の本質を反省しなかったのだろう。

小説・昭和からの遺言(83)天皇の統治は虚構であったのか

 皇太子であった学生時代までは、新憲法に定める「国民統合の象徴としての天皇」という位置づけを、そのまま受け入れていたように思う。所詮は自分は皇太子であって「ふつうの人」になることはできない。それを幸運とも不幸とも考えることはなかった。その認識が激しく揺さぶられたのは、妃を迎えたときだった。国民の祝福は素直に嬉しかったのだが、あのとき、短い間でも「ふつうの家」に住んでみたいと思ったのだった。
 しかしそれは一時の夢でしかなかった。最善の理解者となってくれた平民出身の妃とともに、自分に定められた運命に従うほかはなかった。それと同時に、父である昭和天皇の人生について、深い思いをめぐらすようになった。明治憲法によって一国の統治者と定められていた人の責任の重さである。それは立憲君主制と呼ばれているが、最終的な権威は天皇に集中していた。ことに軍に対する指揮権は絶対だった。
 その昭和天皇が、日本の歴史始まって以来の大戦争を発令するに至ったのは、本意ではなくて、軍閥が支配する政府の決定を追認せざるをえなかったからだという理屈で、東京裁判は天皇の責任を問わなかった。あの決定は、果たして妥当なものだったのだろうか。宣戦布告の詔勅には「御名御璽」として記名押印しているのだ。少なくとも形式上は最高責任者ではなかったのか。戦場に散った兵士たちも「天皇陛下万歳」を叫ぶことはあっても、東条に忠誠を誓って死んだ者はいないだろう。
 天皇が訴追されなかったことで戦後の日本が安定を保ち、それが占領軍の統治を穏和なものにして、日本の復興を助けたことは否定しない。昭和天皇がマッカーサーとの会見において信頼と尊敬をかちえたのは、皇室の歴史の重みとともに、その人徳によるところが大きいとも思う。それでもなお、天皇は常に最善の選択をしたと言えるのだろうか。
 たとえば満州事変の初期に、断固として陸軍の暴走を止めることはできなかったのか。満洲国の成立を急がずに、国際連盟に残留する道を選べなかったのか。中国への大規模侵攻をなぜ許したのか。そして太平洋戦争の開戦後に、挽回不可能な戦況に陥ってからも、「一撃を加えての和平」にこだわり、いたずらに戦力の消耗を繰り返した判断の悪さはどうしたことか。こうした後悔の念は、昭和天皇の生涯を通して頭から去らなかったことだろう。しかしそれを口に出すことはできなかった。
 昭和天皇は、憲法により国家統治の大権を与えられていながらも、国務大臣が天皇を輔弼しその責に任ずという憲法を最大限に活用して戦争責任を免れた。これもまた一つの虚構ではなかったろうか。それに対して今の天皇は新憲法によって国政に関する権能を有しないと定められている。その立場にいて、国民のためにできることは何なのか。

とりあえずのお知らせ

 明日14日(水)に、一週遅れの「国会一周散歩」に行きます。正午に地下鉄丸ノ内線「国会議事堂前」駅の改札出口前からスタートして、議事堂の周辺歩道を左回りに一周し、時間があれば適宜に昼食をとります。銀杏並木では、そろそろギンナンが落ちている季節でしょう。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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