花森安治は「あとがき」の中で、こんなことを書いている。「じつをいうと、文章を書くのは好きではない。きらいである。きらい、というよりは、つらい。できることなら、書かないですませたい。……書いていて因果だなあ、つらいなあと、おもいどおしである。そんなにつらいのなら、書かなければよいのである。それを書いている。あほかいな、である。」と。
 これは意外だったが、その因果で書いた文章に、圧倒されるような、すごい迫力を感じた。それは「武器をすてよう」という、「一銭五厘の旗」の中の一編である。今でもというか、今だからこそ光を放つ言葉が連続している。こういう人に、今の世にいて欲しかった。
(以下引用)
 どこの国だって、金がありあまって、捨てたいぐらいで、それで仕方なしに武器でも持とうか、などという国は一つもない。それどころか、国民のひとりひとりが、つらいおもいをして、やっとかせいだ金を、むりやりに出させて、それで武器を買ったり、兵隊を養ったり、それを使って戦争をして、人を殺したり、町を廃墟にしたり、暮らしをぶち壊したりしている。こんなバカげたことって、あるものではないのである。
……中略……
(日本国憲法第九条。ぼくは、じぶんの国が、こんなすばらしい憲法をもっていることを、誇りにしている。)全世界に向って、武器を捨てよう、ということができるのは、日本だけである。日本は、それをいう権利がある。日本には、それをいわねばならぬ義務がある。総理大臣は、全世界の国の責任者に、武器を捨てることを訴えなさい。
 なにをたわけたこと、と一笑に付されるだろうとおもう。そうしたら、もう一度呼びかけなさい。そこで、バカ扱いにされたら、もう一度訴えなさい。十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい。
 全世界が、武器を捨てる。全世界から戦争がなくなる。それがどういうことか、どんな国だって、わからない筈はないのである。いつかは、その日がくる。
 辛抱づよく、がまんをして、説き、訴え、呼びかけよう。それでもわかってくれないとしたら。
 そんなことがあるものか。
 地球の上の、すべての国、すべての民族、すべての人間が一人残らず亡びてしまうまで、ついに武器を捨てることができないなんて。ぼくたち、この人間とは、そんなにまで愚かなものだとはおもえない。
 ぼくは、人間を信じている。
 ぼくは、人間に絶望しない。
 人間は、こんなバカげたことを、核爆弾をもってしまった今でさえ、まだつづけるほど、おろかではない。
 全世界の国の国民のひとりひとりに、声のかぎり訴える。
 武器を捨てよう。