久しぶりの「池田幸一メール」ご紹介です。満96歳になられました。

皆様。 池田幸一です。
 私は昨日、満96歳になりました。若い頃はさして頑健な生まれでもなかったのですが、(1941年の徴兵検査では、甲種、第1乙種、第2乙種、丙種のうち、第2乙種でした)思わぬ長壽に恵まれました。 しかしいつの間にか周辺から同輩の姿が消え、そのうえ私も入退院の繰り返しで日常が随分淋しく、不自由になりました。頭の方もボケて来ましたが、何より困るのは思った通りのことが巧く書けない事です。
 中国人から授かった恩義に感謝し、その徳に報いるように付き合おうではないか、なぜ大恩ある中国を疎外し、アメリカの手先になって中国包囲網に汗をかかねばならないのか?西洋の功利に比べ東洋の道義の方が付き合い易いのではないか。トランプ時代の到来をチャンスに、せめて米中等間隔のスタンスに立てないだろうか、この簡単なことが満足に述べられないのです。
 お前の見方は浅はかだ、中国はそんな御人好しではない。ましてや戦争は国府軍や中共軍に負けたわけではない。我が国はアメリカの物量に負けたのであって、“勝った勝ったと自慢する中共軍は逃げ回っていただけのことだ。「長征」という名の逃亡は1万2500キロにも及ぶ「避戦」であって、その健脚ぶりは褒めてもよいが、国府軍を精鋭無比の日本軍と戦わせると言う驚くべき奸智こそが彼らの戦略で、「他人のフンドシで相撲を取った」だけのことである。”と説くのは産経新聞の「野口裕之の軍事情勢」です。
 一事が万事、このような目で見ると中国人の偉大さは何一つ見えてこないでしょう。蒋介石は一家一族を挙げてアメリカを味方に引き込み、日本軍を泥沼に追い込んで自滅させました。中共軍は兵力を温存してゲリラに徹し、共に力を合わせて日本軍が構築した大石の目を潰し、いつの間にか死に石にしてしまったのです。まさに名人芸、鮮やかな完勝でした。碁だけではありません。私は中国が好きでしげしげ訪れていますが、残された遺跡と文物の偉大さにはいつも圧倒されます。
 この中国で我が国は戦争中にどのように振舞ったか? 私の原隊は京都伏見の9連隊で、南京攻略の主力となった中島今朝吾中将の部隊です。“我隊ハ捕虜ハセヌ方針ニテ”つまり、捕虜は捕え次第皆殺しという猛烈な部隊で、それがため当時の古兵から残酷な武勇伝を耳にタコができるほど聞かされました。いずれも悪魔の所業で「チャンコロ」と軽蔑して人並みには扱わず、悪いことの限りを尽くしています。“にい公には悪いことをした、オレは地獄へ落ちるだろうな、”これが古兵たちの述懐でした。
 多年紛糾の尖閣諸島領有の問題は、“子孫の叡智に任そうではないか”という東洋的棚上げを双方が認め合い、1972年、周恩来と田中角栄の骨折りで成立した「日中共同声明」は、以後40年の日中蜜月時代を生みました。誰がこの友好平和を潰したのか? 一つは拿捕した中国船を帰さずに、国内法で裁こうとした前原誠司外相のミス、更に致命的な失敗は尖閣を東京都で買い取ろうと全国に寄付を呼び掛けた石原元都知事、それに動揺して国で買い取った野田佳彦元首相の浅慮。これですべてがパーになりました。なぜなら、約束した棚上げが無視され、中国が怒ったからです。
 戦後アメリカの占領下、軍事同盟と核の傘に守られ、ひたすら従属の道を歩んだ我が国ですが、いつの間にか中国の大恩を忘れてしまいました。彼たちは忘恩の徒の裏切りを後悔しているでしょうか。また尖閣を巡る40年の平和を台無しにしたのも我が方ですが、どうして謝り、元のさやへ帰るよう努力しないのか。自分のことが自分でできる自由独立を、今こそ考えるべきではないでしょうか。
 前回に引き続き、これだけ述べてもまだ充分でないから困るのです。