昨夜は大久保地域センターを会場として開かれた「いのちの森〜高江」を見て考え話し合う集会に行ってきた。最初は昨年末に完成した1時間ほどの映画の上映で、謝名元慶福(じゃなもとけいふく)監督の作品。高江の森の自然遺産を丁寧に紹介しながら、住民が150人しかいない集落に500名の機動隊が投入され、抵抗する人々を排除して行く状況を伝えていた。北部演習場の再整備のため、新しいヘリパッドが作られて行く。昨年の夏から世界的に注目を集めるようになり、アメリカから反戦の退役軍人が座り込みに参加するまでになっている。
 のどかな自然風景の中で、大勢の人と人が力づくで争っている姿の異常さは鮮烈である。しかも対立している人たちは直接の利害関係人ではない。地元民は自然と暮らしを守りたいとしても、排除する機動隊員は役目として派遣されてきている。同じ言葉の通じる日本人同士である。相手が同情の余地もない「土人」だったら、仕事がずっと楽になることは見ていればわかる。
 映画を見て、その後につづいた話し合いを聞きながら、私はしだいに「戦争の本質」ということを考え始めていた。この対立の根底には「戦争」が横たわっている。そもそも基地とは戦争があるから必要になる。戦争さえなければ、目の前のすべての問題は消えてしまうのだ。では戦争とは何か。話し合ってもだめで、殺すしかない相手を消すための手段である。それほど悪い相手が、今でも本当にいるのだろうか。第一次第二次と、世界は戦争が終わる度に、戦った相手が本当は悪魔でもないふつうの人間で、政治の枠組みで戦うように仕向けられいただけだったのを知った。だから「戦争は心の中で始まるものだから、心の中に平和のとりでを築かなければならない」という反省の言葉を残したのだ。
 今の日本で警察官なろうとする人たちは、公務員としての身分待遇の安定とともに、国民の幸福を守るためには身を挺して悪と戦うことも辞さないという役割に魅力を感じている人も多いことだろう。そして教育の中でも職務命令の忠実な実行を求められるに違いない。それはいいのだが、高江のような「治安」の出動では、そこは戦場ではなく相手は「敵」ではないのだ。やりにくいだろうが戦争の論理に陥ってはならない。むしろ戦争というものの本質を理解した上での「反戦警察官」が増えることが、日本の警察のためには好ましいと私は思い至ったのだった。
 熱い戦争になって破壊と殺戮を始めなくても、戦争に備えて基地を整備しておくというだけの段階でも、これほどの自然破壊と資源・人力の消耗を強いているのだ。これでも戦争への準備が必要だとか、アメリカの武器を購入してアメリカの経済や雇用に貢献すると言っている政府の気が知れない。
 集会の終りに、岡野愛さんのリードで全員が立ち上がって合唱した「沖縄・今こそ立ち上がろう」のメロディーが、今も頭に残ってリフレーンしている。あとで解説を見たら、元歌は1968年にフランスのパリで歌われたというので驚いた。「美しき五月のパリ」として加藤登紀子が歌っている。