例えは悪いのだが、最近よく考えることを書いてみる。それはトイレで用便(大)をするときに出て来る感想なのだ。数年前に改装して、しごく快適になった。便座は温かく、温水も出る。いずれも「低温」の設定で充分である。最後に適量のトイレペーパーを使い、清浄を確認して無事に終了となる。その一回ごとに、どれほど現代文明の恩恵に浴し、各種の資源を消費しているかを考えるのだ。水道と電力と専用のパルプ製品が使えるから成り立っている現在である。
 戦後になってからも、父の故郷の山村へ行ったときは、便所の使い方に面食らった。下に大きな便壺があり、糞尿を貯めて肥料に使っていたのだ。だから用便後の紙は下へ落してはいけないと言われ、すぐ横に用済みの紙を入れる箱があった。用意されていた用便紙は、新聞紙を適当な大きさに切って重ねたものだった。すごい臭気が充満していたことは言うまでもない。でも、東京の家の便所も、この時代までは基本的に同じ作りだった。ただ、紙は下へ落して、定期的に汲み取り屋さんが来るところだけが違っていた。
 今でも大震災があったりすると、トイレの不便が大きな問題になる。回数を減らしたくて水を飲まず、脱水症状を起こす人までいるということだ。でも誰にもある生理現象を隠すことはない。私の母は農村の育ちだから、度胸のよいところがあった。戦後の町を歩いていて公衆便所が見つからないと、まだ残っていた焼け跡あたりで私に見張りをさせ、要領よく用を足したりしたことがあった。
 だがそんな話はきょうの本題ではない。いま言いたいのは、今の私は「ただ生きているだけ」で、かなりの資源消費をしているということなのだ。資源を作り出す側の仕事をしなくなって長くなっているが、公的制度を含む過去の遺産を使って毎日の消費生活を営んでいる。現役時代を含めても、私は米一粒でも作り出す仕事はしていない。映像や音声をいじり、勝手な文章を書いて暮らしてきた。でもそれらは「社会的な仕事」の一部分だから、生産的ではあったということにしておこう。でも現状は、その意味での生産をしなくなっても生きていて、それが今後もかなり長く続きそうな気配になっている。それが気になるのだ。
 人間でない動植物なら、たいていは子孫を残すことを生きる目的にして生涯を送って行く。人間は子孫を残すこと以上に、膨大な「文明」を築き上げてしまったために、生きることが非常に複雑になってしまった。これは自分だけの問題ではない。子供たち孫たちの世代を見ていても、同じような複雑さの中で「自分の道」を探しているのがわかる年代になってきた。彼ら彼女らが、文明を否定する「先祖返り」を目指す様子はない。むしろ私たち以上に現代文明に適応して生きているように見える。
 ただ、それに比例して、「生き物としての強さ」から遠ざかっている面はないのだろうか。「生き物の原点」を思い出すような「文明の崩壊」を経験することはない方がいい。だが文明は否応なしに人間を「原始の生命力」から遠ざけて行くだろう。今は彼らの未来の平安を祈るしかない。