遮断機の下りた踏切に入った人を助けようとして、自分も犠牲になってしまった人のことがニュースになっている。現場には哀悼の花束が置かれているということだが、結果的に、善意が事故を大きくしてしまった。危険の迫る情況で、正確な判断をするのは難しい。しかし、だからこそ、ふだんからそんな場面を想像して、自分ならどうするかを考えておくといいと思う。
 埼玉の草加団地に住んでいた時期に、私もこんな経験をしたことがある。夜遅い帰宅で東武線の草加駅に着き、跨線橋を渡って改札へ出ようとするとき、前を歩く酔っぱらった男性がいた。見ていると、よろよろとホームの端の方へ行きそうになる。そのときは特急電車が通過するとのアナウンスがあって、近付いてくる音が聞こえ始めていた。私は数歩かけ寄って、左手をその人の肩にかけて力まかせに押してその場にしゃがみ込ませ、右手は跨線橋の入り口にかけて強く引き寄せた。ちょうどそのタイミングで、特急はすぐ横を轟音とともに通り過ぎた。警笛を鳴らさなかったから、暗い中で人影を視認しなかったのだろう。間もなく反対の改札側ホームから見ていたらしい駅員が来て、「良かったですね、大丈夫ですか」と声をかけてきて、あとは酔客の世話をしてくれたようだった。
 私の想像だが、前記の踏切で助けに入った人は、その瞬間は助けたい相手に集中して、近づく電車との位置関係を確かめる余裕をなくしたのではないだろうか。危急の際の判断は、理性よりも反射神経的に働いてしまうことがある。そして断定行動に入ると、立ち止まりが難しい。しかし人命救助は特攻隊ではないのだから、自分が死んでしまっては意味を失うのだ。情況を判断して、自分が安全でこそ褒められるということを、平時にちゃんと考えておくことが有益だと思う。
 夏の事故では、水に落ちた子供を助けようとして親が死んだといったニュースが出ることがある。私も一応は泳げるから助けに行くかもしれないが、できれば周囲を見回して、ペットボトルを持っている人がいたら中身を空けてもらって、浮きにして脇に抱えてから水に入るぐらいのことは、してみたいと思っている。