志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2017年05月

国連に対しても「唯我独尊」の安倍官邸

 msnニュースに載った産経新聞によると、
(以下引用)

 萩生田光一官房副長官は31日午前の記者会見で、国連人権理事会の特別報告者、デービッド・ケイ氏が日本の「表現の自由」の現状についてまとめた対日報告書について、「日本政府の立場が十分に反映されていない内容の報告書が公表されたことは、極めて残念だ」と述べた。

 報告書は英語版で計19枚。メディアへの政府の直接的・間接的な圧力に対する懸念などが盛り込まれているが、萩生田氏は報告書が指摘している報道の独立性や歴史教育への介入などの論点に関しては、政府の立場についてこれまでケイ氏に丁寧に説明を重ねてきたと強調した。

 萩生田氏は「政府としてはわが国の状況が正しく理解されるように、引き続き特別報告者との対話を継続していきたい」とし、国連人権理事会の場などでも説明をしていく考えを示した。
(引用終り)
 これだけのさらっとした記事だが、国連からの懸念の表明に対して、頭からゼロ回答の強硬な態度ではないか。国連はむき出しの対立を嫌い、ソフトで紳士的な言い回しを重んじる場だと聞いているが、日本に謙譲の美徳はなくなったのか。「これまでに丁寧に説明を重ねてきた」というのだから、懸念が急に出てきたものでないことがわかる。しかし、「ご忠告に感謝し、改めるべきことがあれば対応する」程度の外交辞令もなしに、「わが国の状況が正しく理解されるように対話を継続する」と切り捨てて終っている。すべて自分たちの価値観が絶対で、反省する必要など何もないと決めているのだ。「余計なこと言うな」と言っているに等しい。
 相手は国連の人権理事会である。その特別報告者という人の立場がどういうものか、くわしくは知らないが、特に日本が大嫌いで悪口ばかり言う人だ、ということはなさそうに思われる。むしろ理事会の総意を代表して、その承認のもとに日本の人権状況への懸念を報告書にまとめたと受け取るのが自然な流れだろう。その報告書とは、こんなに軽く扱っていいものなのだろうか。
 「丁寧に説明してきた」という言い草には、毎度のことながら何の意味もない。譲歩の気持がなく、「要するに言うことを聞け」が内容なのだから、時間をかけても討論が深まることはない。相手が日本の国民であっても、国連の人権理事会であっても、安倍官邸の「唯我独尊」は変ることがないのだった。
 

それでも国民は許すのか

 安倍首相をめぐる一連の不祥事は、官邸自身が「もうこの問題で議論しない」と言い出すまでになった。事実関係の有無で言い争う段階は、もう過ぎたというのだろう。あとは、この腐敗した不道徳な政権を、それでも国民は許すのかという問題になる。森友学園から始まって加計学園へと続いたこの問題は、「モリ、カケ」とも言われるらしい。そば屋で注文するときは一番安いメニューだが、店の味が素のままでわかるので「通」は大事にする。「安倍そば屋」は、ごてごてしたトッピングで味をごまかしていたということだ。
 天下に怖いもののなくなった安倍政権は、あったものでも「なかった」と言えば、なかったことになると本気で思い込んでいる。マスコミだって「お友だち」にしてあるから、何をしても大丈夫と安心している。ところが時代はテレビと新聞だけではなくなった。政府広報メディアに支配されない情報ツールが育ってきている。広大なネット空間まで支配し尽くせるものではない。それにマスコミの中にだって反骨のある記者が一人もいなくなったわけではない。一つのきっかけがあれば、良心が目を覚ます。今回の場合は「あったものを、なかったとは言えない」と言った勇気ある前川喜平氏の証言が流れを変えた。
 折しも北朝鮮は、ミサイルの発射を派手に繰り返すようになった。安倍政権への援護射撃のようなタイミングだが、前段階としてアメリカの原子力空母群が3組も日本海・朝鮮半島に近づいたという異例の展開がある。その元をただせば、日米韓の防衛協力であり、アメリカと結んで中国・北朝鮮と対峙する日本の基本的な外交政策がある。
 トランプのアメリカには、個性的な独断と、手の早い危うさがある。これを持上げてすり寄る安倍首相では、世界を戦争から遠ざけることはできそうもない。下手をすると自衛隊をアメリカ軍の下働きに出す「国際貢献」に乗り出す可能性がある。南スーダンからは全員無事に撤退が出来たのだが、関連資料を読むと、かなり複雑な内戦状態の中で、施設部隊という平和目的に助けられて、非常に幸運にも戦闘に巻き込まれないで済んだという状態だったようだ。PKOに出るのは、憲法の制約もあることだから、今後は断るべきだろう。傾向としても、先進国は軍の派遣を減らしており、当事国に近い国の軍隊が肩代わりする例が増えているそうだ。
 国の中に向けても、外に向けても、安倍政権の政策は独善と偏見に満ちている。その目指す方向は、「間違った先祖返り」にあると私は思っている。過去の日本そのものでもなく、「想念の中の至高の日本」という虚像に取りつかれているのだ。

写真集「北辺の機関車たち」

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 写真集「北辺の機関車たち」を見ました。大木茂さん(大木晴子さんのお連れ合い)ほか2名の機関車好きが、現役の学生時代に撮りためた写真を再編集した復刻版です。発行元は(株)復刊ドットコム(本体価格4000円)です。
 ここに登場する機関車たちは、私にとっても懐かしいものばかりでした。私の実家は、駒込、田端、上中里の3駅からほぼ等距離の位置にあり、高台から見下ろす田端の操車場も、その続きにある田端機関庫も、子供時代からしょっちゅう見に行く気に入りの場所でした。戦時中には、間近に見る機関車の力強い姿は、「日本はまだまだ大丈夫だ」という、安心感を与えてくれました。田端と駒込の中間で、山手線と合流する貨物線の列車がトンネルを抜け、全力で煙を噴き上げる機関車に引かれて坂を上がってくる姿は、声援を送りたくなるような勇ましさでした。時には力尽きて途中で止まってしまい、急発進で動輪を空転させることで力をつけ、ようやく再び動き出すこともありました。
 それにしても、蒸気機関車とは、何という人間臭い存在でしょうか。石炭を食べさせて熱を作り、水を蒸気に変えてピストンを動かし、無骨な鉄筋を振り回して車輪を回して行くのです。車輪と連動する煙の噴き上げは、遅くなると苦しい息継ぎのようになり、蒸気は吐息のように感じられるのでした。
 大木茂さんの鉄道好きは、これを転機として機関車に集中して行ったのでしょう。晴子さんと知り合ったのも、この時期だったとのことです。そして大木茂さんは写真を本職として今に至るまでになりました。蒸気機関車とは、それほど「絵になる」工作物なのです。それはおそらく、機関車が「人間との共同作業によって、はじめて動いていられる」構造を持っているからでしょう。
 この写真集は「50年ぶりの復刻」だそうです。この50年で、世の中はこんなにも変りました。機関車がもう交通の主役でないことは、誰でも知っています。それでも、ある時代の主役であった事実は変りません。「何かのために」、あるいは「何かとともに」生きる長さとしてなら、50年には充分な長さがあります。それは「誰かのために」、あるいは「誰かとともに」生きる長さとしても足りるのではないか、何の脈絡もなく、そんなことを思って感動しています。
 

真実は「黙殺」で「なかったことにする」安倍官邸

昨日の保坂展人氏のフェイスブック(元はツイッターらしい)に、次の投稿があった。

今週の大ニュースと言えば「前川前次官会見」だった。テレビ番組で、官邸を代弁するコメンテーターが、問題の行方を問われて「黙殺する」と語ったのには驚いた。「黙殺」という言葉の響きには、唯我独尊の権威主義が見え隠れする。事実はひとつ、だから検証でなく「黙殺」なのか。

 本来は民意で国政を選択すべき選挙制度の下で、安倍独裁政権の登場を許してしまった。なぜこうなってしまったかの検証は必要だが、今はさし迫っている危険への対応を考えなければならない。今回の問題にかぎらず、政権にとって批判の種になりそうな材料が出てくると、「調べてみたがそのような事実は確認できない」「そのニュース源は信頼性が少ない」「官邸としては問題ないと考えている」といった官僚答弁が繰り返されることが多くなった。マスコミの側も、独自の深掘りの取材に取り組む姿勢が、すっかり弱くなっている。
 だからこそ前川喜平氏の「あったものを、なかったことにはできない。」という発言が輝きを増してくる。それと比例して、安倍官邸の救いようのない暗さが際立ってくるのだ。この政権に、日本を輝かせるどんな可能性が期待できるだろうか。
 安倍首相がベテラン気取りで参加したらしいG7は、北朝鮮への包囲強化や難民対策の厳格化、ISの絶滅など、総じて世界の非寛容化を予想させる宣言を発して終幕した。世界からも戦争の臭いがして、平和への夢が薄くなって行く。


 





「フランス音楽の午後 2017」を聞いてきた

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 外出のリハビリを兼ねて、「オルケストル・フランセ・デュ・ジャポン」のコンサートを聞いてきました。「花てぼ」さんが昔に書いた「最後の授業」の場面を挿絵に描いたものを、この演奏会用パンフレットのエッセイ欄を担当した団員さんが、ネット検索で探し当てて転載の了解を求めたというやりとりを、ブログで読んで今日の演奏会を知ったという、まことに薄い縁で、小平市民文化会館(ルネこだいら)へ行ってきました。直接の動機は、花てぼさんの挿絵が使われたコンサートのパンフレットを見ることでしたが、「フランス音楽」というところにも、少し興味はありました。そして結果は「大当り」でした。
 フランスの音楽と言われても、フランス起源の子供の歌を少し知っている程度だったのですが、今回のプログラムは、フランス音楽の特性を余すところなく教えてくれたような気がしました。選曲も良かったのでしょう。ビゼーの「小組曲・子供の遊び」、フォーレの「組曲・ドリー」、ジャン・フランセの組曲「ボッケリーニの主題による『バレエ学校』」で構成されていました。私は専門の知識など何もないのですが、繊細な細工物のように組み立てられて響き合う演奏は魅力的でした。音楽監督で指揮の右近大次郎さんがまた、すばらしかった。
 アマチュアのオーケストラを指導してまとめ上げた手腕は氏の実績の通りなのでしょうが、これほどフレンドリーで親しみの持てる指揮者を、今までに見たことがありません。フィナーレの終演で、両手を高く上げた姿勢そのままに、さっと跳び上がって客席に向き合ったのは、破綻なく最後まできた安心と喜びを、客席と共有したかったのでしょうか。
 フランスの音楽には、フランス人の国民性が反映しているのが、よくわかりました。それはドイツ交響曲の、一糸乱れぬ団結と力強さの表現の正反対にあるものです。これほど違う国民が地上で国境線を分けている現実は、島国しか知らない私には想像を絶します。その境界線で起きたエビソードの一つが「最後の授業」なのでした。
 世界の平和を考えるときに、ヨーロッパの人たちには、私の知らない別な知恵があるに違いないと思いました。それは明らかな独自性を持ち、消すに消せない伝統を背負っている人たちの共存なのです。音楽を聴くことで、フランスという国の魅力が、実感をもってわかりました。国民の個性は、一つひとつが人類の文化遺産なのです。滅ぼしてもいい民族、征服しても構わない国などは、この世界に一つだってありはしないのです。
(追記)
 「花てぼ」さんのブログを見たら、私の理解がいいかげんだったのがわかりました。まず、花てぼさんが挿絵の提供を求められたのは、「オルケストル・フランセ・デュ・ジャポンの団員」ではなくて、その代表の澤川有平さんなのでした。したがってプログラムのエッセイの筆者も同じ人で、かつヴィオラの奏者でもあったのでした。私は花てぼさんとともにロビーでお話までしたのに、何も気づかずに帰ってきました。演奏の素晴らしさとは関係ないと言えばそれまてですが、私の「ひとり合点」くせが、遺憾なく発揮された次第でした。

ブログ連歌(487)

9719 血を流せ 戦争好きの 改憲派 (みどり)
9720  どうせ自分は 征かないつもり (建世)
9721 医者は 軽い病気は いつも風邪ですと (獣医さん)
9722  薬は五日分 はい次の方 (建世)
9723 ああ羨まし フランス韓国 新たな指導者が現れて (獣医さん)
9724  いつまでつづく あの顔と声 (建世)
9725 山火事で 消えぬどころか  9倍に
9726  燃えてもセシュウム 減ることなく (獣医さん)
9727 傷ましき 原発汚染地  山河もゆる (みどり)
9728  新緑にさえ 計測機当て (建世)
9729 首相特区 加計(かけ)友が賭(か)けて 得意(とっくい)顔 (獣医さん)
9730  明るみに出た あとはどうする (建世) 
9731 食まもれ 遺伝子組み換え 不安なり (みどり)
9732  われは在りたし 自然人にて (建世)
9733 審議より 数を頼んで 強行す (建世)
9734  党議拘束こそ 共謀罪 (獣医さん)
9735 激震の 予感のうちに 夏がくる
9736  この6月を 無事でありたし (建世)
9737 夏めくに 共謀罪の 闇深し (みどり)
9738  廃案そして 梅雨晴れを待つ (建世)
9739 「怪文書」 と決めつける 「深い文書」 (獣医さん)
9740  訓詁の術にて 「ある」は「ない」とす (建世) 

結核菌と戦うことになった日の新聞

 いつまでも治らないカゼと思っていた病状に、新しい展望が出てきました。主治医をお願いしている地元の内科医から、肺のレントゲン写真に疑点があるとの指摘があり、警察病院呼吸器科への紹介状を貰って転院することとしました。警察病院には、私の豊富な医療データが保存されています。一度は「非結核性マック症」との診断を受けましたが、「当面は悪さをしないようだから卒業にしておきましょう」と判定されたことを思い出しました。しかし呼吸器科は非常に混雑しているということで、病院側の判断で「総合内科」を受診することになりました。結果的に、これが正解だったように感じました。
 警察病院の各種検査が充実していて、かつ効率的に運用されているのには、いつも感心させられます。痰のサンブル出し、血液検査、胸部レントゲンの正面と横位置撮影などがテキパキと進められ、そこで昼休みになって一度は帰宅し、午後1時からの診察ては、すべての検査結果から判断した治療方針が立てられていました。要は結核菌が暴れ始めているので、抗生物質の大量投与と、結核菌を殺す薬、結核治療薬の3種の薬を、明日から服用することになりました。その飲み方も、合計7錠を朝の1回にまとめて飲みなさいという豪快なものでした。その後は、6月6日に薬の効果を確かめ、血液の検査もするとのことでした。
 総合して考えると、かつては無害と思われたマック症が、基礎体力の低下とともに結核の症状を顕在化させたのでしょう。当時から、「マック症の治療法は、結核と同じですよ」と言われてはいました。とにかく、これで「なかなか治らない変なカゼ」が、はっきりした敵として姿を現したことになります。いつになったら治るんだという、見通しの立たない不安感が、これでだいぶ薄らぎました。
 こんなわけで、病院で明け暮れた一日になりましたが、新聞には前文科省次官の前川喜平氏の証言が大きく扱われています。加計学園問題では、内閣府に押し切られて行政が歪められたと、生々しい経験を語っているのです。信憑性の高い発言と思われますが、政権側は証言を否定し、文科省内の調査では文書の存在は確認できないと強弁し、さらには前川氏への個人攻撃に乗り出していると伝えられます。政権に都合の悪いことは「なかったこと」にしたい、証言者が出てきても公式の場には出さないようするなど、つじつま合わせの隠蔽で切り抜けたい意図がありありと見えます。
 政権側の利得を最優先にし、権力を行使しても真実の暴露を防ごうとするのは今に始まったことではありませんが、安倍政権になってから、目先の利害を超えて真実を明らかにしたいというような情熱が、政権側から示されることは絶えてなくなりました。すべては政権に有利でありさえすればいいのです。
 継ぎはぎの対症療法ではなく、日本という国の病根を探り出して、健康体にして行くことを誰が考えているのだろう。今の政権は、あまりにも低レベルの人たちの集団のように見えます。

「平和の語り部」収録に行ってきた

 本日の午前中、中野区の企画による「平和の語り部」記録映像の収録に行ってきました。語り部として選ばれたのは、私のほかに、中野区内で空襲を経験し、当時は学徒動員で飛行機工場で働いていた男性と、中野区の学童疎開で長野・福島県へ行っていた女性の、計3名ということでした。3人の証言をそれぞれ15分程度に編集して、ビデオ教材として区内の中学校に配布する計画のようです。インタビューアーを担当するのは、今年大学生になったばかりの、フレッシュな女子学生さんでした。この学生さんとの会話を含めて、ソフトな雰囲気ながら、伝えたい中身については、たしかな手ごたえを感じられるひとときになりました。カゼの病み上がりで声は荒れていたと思うのですが、途中でセキ一つも出ない、不思議なほど滑らかな会話が続けられました。
 あの太平洋戦争は、私の国民学校2年生の12月に始まり、6年生の8月に終ったのです。戦争の前半は「勝った、勝った」の勇ましさばかりでした。そして形勢逆転し、東京が本格的な空襲を受けるようになったのは、最後の年の1月以降の、8ヶ月にも満たない短い間のことでした。その間の経験は、子供だった私には、緊張と真剣さとスリルの連続でした。恐怖を感じることはむしろ少なく、頭上で展開されるB29爆撃機と日本の高射砲や戦闘機との戦いは、まさに大空で展開される活劇でした。よく話すのですが、ゲームの面白さなどは足元にも及ばない、真剣勝負の切実さがあったのです。敵機が撃墜されるのを見るのは、何よりも嬉しい快挙でした。その敵機の中にも、生身のアメリカ兵が乗っていることなどは、ずっと後になってから考えてわかったことです。
 そのように、「勝つか、負けるか」がすべてになり、敵を破壊し殺すことが最大の目的になり楽しみになってしまうのが、戦争というものなのです。戦時下の少年にとっては、そのほかの生き方は、あり得ませんでした。しかし、戦っている相手が「鬼畜・米英」だというのは、当時の宣伝で作られた虚像でした。そして、戦争そのものも、天災のように人智を超えたところから来るのではなくて、「誰かがやめると言えば、やめられる」ものだということを、教えてくれたのが8月15日でした。そのときの気持を聞かれて、「口惜しかったけど、これで家が焼かれないで済むと思って安心した」と、そのままを答えました。そしてまた、進駐して来たアメリカ軍の兵隊が友好的で親切だったことは、日本の軍隊とは比較にもならないほど違っていました。ジープのアメリカ兵から貰ったドロップスの甘さは、今でも覚えています。
 最後の「平和への思い」について、答えは明らかです。戦争は、ありとあらゆる無理と無駄を集めて、ある種の人たちが作り出す狂乱です。その狂乱が始まると、破壊と殺戮が「戦果」として賞賛を集め、さらに戦果を拡大することが求められるのです。なぜ戦争をしなければならないかを説明するために、必ず持ち出されるのが「自存自衛のため」であり「恒久平和を築くため」ですが、それを理論的に証明することはできません。脅しに使われるのは、歴史の隅から引き出してくる「備えを忘れて滅ぼされた国たちの記録」です。その一方で、戦争をして滅びた国の例は腐るほどあるのに、なぜか自分の国だけは勝つことを前提にして戦争は始められます。
 世界の未来にとって、戦争は有害で無益なものになりました。今や戦争は「外交の最悪の失敗」以外の何物でもありません。中野区は、昭和57年に「憲法擁護非核都市」の宣言をしています。

国会中継を見ていたが

 昨日はネット中継の衆議院本会議で、「共謀罪」法案が可決される現場を見ていた。賛成、反対の代表討論のあとで、記名投票に入る。あとは退屈としか言いようのない「儀式」の連続になる。議員は一人ずつ名を呼ばれて登壇し、「堂々めぐり」と呼ばれる右回りのコースを歩きながら、投票札を「賛成」または「反対」それぞれの担当者に手渡して行く。
 登壇するときは、2回にわたって立ち止まって頭を下げる人が多い。1回目は演壇そのものか、演壇の左側に掲げられている日の丸旗に礼をし、2回目は議長に向けて礼をしているように見えた。議長も目線が合えば軽く答礼していた。
 これを全議員が繰り返すと、「投票漏れはございませんか」と確認して、票数を点検の上、発表する。票数がどうなるかは、みんな最初から知っていて、その通りになる。問題法案であっても、手続きは何も変らない。投票の際に、「断乎反対」などと票を掲げて見せた反対者が、数名いただけだった。不規則発言に対する議長からの注意もなかった。
 これを見ながら、政治の「現場」というのは、どこにあるのだろうと思った。衆議院の本会議というのは、法律を通すための手続きを完了する場でしかないのではないか。法律の良し悪しを論ずる場としてなら、法務委員会の方が、ずっと中身のある議論をしていたような気がする。その委員会にしても、最後は採決に持ち込まれて「正論」が負けるのではあったが。
 きょうの新聞によれば、同じ時に国会の外では多くの人たちが「共謀罪反対」の意思表示をしていたことがわかる。国会まで来られない地方でも、さまざまな意思表示をした人たちがいたことだろう。この人たちの行動も、また一つの「政治の現場」ではないだろうか。ここでの意思表示は、政権与党の政策を直ちに変えさせることはできないかもしれないが、反対意見の存在を示すことはできる。そしてこの反対意見は、次の選挙で政権を交代させる力を秘めているのだ。
 今の衆議院を見ているだけで、政治はつまらないと嘆いていても始らない。議員の中にも、将来を期待したい人は確かにいるのだ。私たちの代表にふさわしい人を増やすことによって、国会を今よりも面白くして行くことはできるに違いない。国会中継がつまらないとしたら、面白い議論の聞ける議会に変えて行くしかない。そう考えて気持ちを立て直した。
 

空母通ればミサイル飛んでくる

(熊さん)北朝鮮は乱暴ですね。日曜日の夕方に、また日本海へミサイルをぶっ放したんだって。
(ご隠居)官邸も一時は騒然としたようだね。安倍首相は緊急の記者会見で「国際社会の平和的解決に向けた努力を踏みにじるもので、世界に対する挑戦だ」と非難したそうだ。中国はアメリカとの間に入って「100日間は待ってほしい」と説得してるようだよ。ところで、マスコミはちっとも報道しないんだが、その前に、アメリカの原子力空母が、2隻も日本海に入っているんだよ。
(熊)へーっ、そうですか。ちらっと聞いたような気もするけど。
(隠)空母が動くってのは、かなり大変なことなんだよ。空母は1隻だけで行動することはない。艦隊を引き連れて「打撃集団」の中心になるわけだよ。それが2組も日本海に入ったわけだ。アメリカとしたら、北のミサイルが在日のアメリカ軍基地を攻撃しないように備えを固めたという形だな。だから今度のミサイルはアメリカ艦隊への、北朝鮮からの「警告射撃」のようにも見えるんだな。
(熊)ふーん、そうか。両方が関連してるんですね。
(隠)北朝鮮としたら、アメリカが先制攻撃で決定的な打撃を加えてくるかもしれないという警戒心がある。だから何もしないでいると、ますます封じ込められるってんで、「負けてないぞ」ってとこを見せたいんだろう。早く言えば、意地の突っ張り合いをやってるわけだよ。
(熊)そういうわけか。でも危ないですよね。そうやってちょっかいを繰り返してるうちに、手元が狂って本当に相手に当てちゃったら、戦争が始まっちゃうじゃないですか。
(隠)そうなんだよ。そんな偶然から本格的な戦争が始まることもあるし、中には偶然に見せかけて戦争を仕掛けることもあるんだな。でもね、いまアメリカと北朝鮮が戦争を始めても、いいことは一つもないんだ。そうなったら韓国も、それに日本だって無事ではいられない。アメリカ軍のシミュレーションでも、とても採算のとれる戦争にはならないのは、わかってるそうだ。それなら正直に緊張をゆるめてやればいいのに、それができない。大国の立場ってのも、因果なものだよ。
(熊)なんでもいいけど、戦争だけは願い下げですよね。
(隠)そうだよ。だから浮き足立たないで、日本は平和がいい、戦争には加担しないと言うべきなんだな。それよりも、今は日本の国内が大事なところなんだよ。例の「共謀罪」関連が国会で通ってしまったら、日本はまた一段と先祖返りの方向に変質してしまうことになる。これを世論の力で止められたら、安倍政治に一つの風穴をあけて、流れを変えられると思うんだよ。
(熊)そうだよね。がんばらなくっちゃ。

土日は連休にします

この土日は連休にします。カゼで弱った心身の回復に努めます。

共謀罪についての国会討論を聞いた

山尾志桜里 無題金田勝年 無題

 きょうの午前中、ネットで見られる国会中継で、衆議院法務委員会での「共謀罪」についての討論を見ていた。民進党の山尾志桜里氏が金田勝年法務大臣に質問していた。山尾氏は元検察官の経歴があり、2014年の総選挙では、民主党から立候補して電力労組と「原子力平和利用についての政策協定」を結ぶことなく、小選挙区で議席を獲得している。民進党の今後を担う論客として、期待できる人だと私は思っている。
 討論を聞いていて、現職の法務大臣の答弁がいかにも頼りなくて、討論者としての格の違いを見せつけられるようだった。質問を受けるたびに、付き添っている官僚と打ち合わせないと言葉を出すことができない。新しい法律では何が「共謀」の捜査の対象になり、一般の人たちの討論や集会の自由がどのように守られるのかが、少しも明快にならないのだ。途中で見解が変るので、自民党が用意した「立法の趣旨」の内容が、議論するにつれて逆にぼやけてくる。
 山尾議員の質問時間は25分間に限られているので、討論で追いつめられても途中で打ち切りになる。新聞によれば、自民党はこの法案をきょうのうちに委員会で採決し、本会議に持ち込む条件が整ったことにする予定とのことだ。明日からは本会議に場を移すから、そこでまた波乱があるだろうが、国会ではこのような手続きで法律を作って行くわけだ。
 かつて木島則夫氏が参議院議員になったとき、「皆さんは、国会の中ではどんな立派な議論が行われているかと思うでしょうが、実際にやっていることは、儀式、儀式の連続なんです」と真情を吐露していたことを思い出す。法案が何であれ、採決は数で決まる。
 でも、そこで止まっては未来に希望はないと、今の私は思う。討論を聞いていれば、物事の本質がわかることがある。国民が政治の中身を知ることは無意味ではない。今の少数が、明日の多数にもなることを保障するのが民主主義なのだから。
 国会議員には、こういう人に政治を任せてみたいと思うような人も、確かにいるのだ。 

「無理を通した安倍が引っ込む」になるかどうか

 国家戦略特区の事業として認められた獣医学部新設に際して、「官邸の最高レベル」が関与したことを示す資料が出てきた。獣医師の不足解消が国家的な緊急課題なのかどうか、その辺の事情は北海道の「そりゃないよ獣医さん」にでも聞いてみたいところだが、内閣府と文科省との間で「『できない』という選択肢はない」と記載した文書の存在がわかったということだ。
 最高権力者の意向に添うためなら、官僚は可能なあらゆる法律解釈と権限を駆使して協力するだろう。そして常識では不可能なことでも合法的な決定にすることができる。ただし事が明るみに出ると「公平であるべき行政を歪めた」という批判を受けるので、「圧力をかけたことは一切ない」「公正な判断によって決定した」と答えることになっている。
 「最高レベル」からこういう見解が示されると、官僚は絶対に「自主的に判断して決めた」という虚構を守らなければならない。口が裂けても本音ではものが言えなくなるから、苦しさに堪えかねて重大事件では自殺者を出したりもする。しかし今回は、「最高レベルの意向」を示す客観的な証拠が出てきたのだから困ったことになった。文書そのものを「怪文書」として「なかったことにする」しかない所に追い込まれている。
 この加計学園問題は、安倍首相にとっては森友学園以上に深刻な問題になりそうだ。そこには森友学園のときに「私(や妻)が関係していたということになれば、これはもうまさに総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい」と言ってしまったことが、言霊のようにエコーしている。あそこで見得を切ってしまった勇み足が、またも首相を苦しめることになる。
 今回は「私は感想を述べただけで、なにも圧力をかけたわけでも、法律に反したことでもない。官僚が勝手にやったことだ」と開き直るだろうか。そして国民はそれを許すだろうか。支持率にはどのような変化があるだろうか。そしてまた誰よりも、安倍首相自身が、自分の発言の重みを、どのように考えるだろうか。この興味ある問題は、これからどのように発展するのだろう。

いま大事なことは何か

 次から次へ、新しいニュースが飛び込んでくる昨今ではある。北朝鮮のミサイル発射で緊張させられたかと思ったら、自衛隊機が函館で墜落した。今朝の新聞は秋篠宮家の眞子さまが婚約したと報じている同じ第一面で、安倍総理の知人が理事長を務める加計学園の新学部について、文科省から特別配慮の文書が出てきたことを大きな記事にしていた。「森友学園」問題は、さらに深く拡大しそうである。国会では「共謀罪」法案が成否の山場にさしかかり、昨日は大規模な反対集会とデモが行われた。高浜原発原発4号機が、きょうの午後から再稼働するという話も気になる。
 私は体調が回復せず、どこへも出られないのだが、テレビと新聞とインターネットで、いろいろな情報は集められる。もともと「横丁の隠居」を自称しているのだから、この際は机の前にいて出来ることをやろうと、少しばかり意欲が出てきた。自分の体は動かなくても、いま何が問題かは伝えたいのだ。
 当面のもろもろの問題には、政治的な課題が多い。この5月は政治の季節と言ってもいいくらいだ。ところが政治スケジュールから見ると、今は国政選挙からは遠い位置にある。東京の都議会選挙だけはこの夏に予定されているが、小池新党が出て来るとかで、かなり特殊な構図の選挙になりそうである。私も含めて、都民は誰を信じたらいいか迷うかもしれない。一方で国政の選挙は、衆議院で[0増10減」の見直しが行われ、選挙区割の見直しなどで、「1票の格差、2倍以内」が、次回の総選挙から実現しそうだという。
 これを逆に言うと、国政選挙の機会は、すぐ近くにはないということだ。政権与党は両院の3分の2以上を占め、安倍内閣の支持率は、いろいろ言われながらも劇的には下がらない。支持する理由のトップは「ほかの内閣よりも良さそうだから」だそうだ。だとすると、いま必要なのは「安倍内閣よりも、もっと良い魅力的な政治」をイメージすることではないだろうか。
 北朝鮮が脅威だと感じるなら、アメリカとの同盟を強化して防衛予算を増やせば安心なのだろうか。オリンピックを無事に開くためには、「共謀罪」を通して取り締まりを強化することが、どうしても必要なのだろうか。原子力発電の継続は、今と未来の日本のために役に立つと、本気で思っているのだろうか。
 次の選挙が見えてこない今だからこそ、私たちは「安倍内閣には期待できない政治を実現してくれる、新しい政治勢力」を育てなければならないのだと思う。こんなとき、政権交代可能な野党があってくれたら、どんなにいいかと思う。その資格を持つべき民進党は、いま再建の途上にある。その中には私が信頼できると思う人たちも何人かいる。ここを、再び「安倍内閣よりは良さそう」な政治をしてくれる政党に育てるのが、遠回りのようでも本命の道だと私は思っている。
 旧「民主党政権」に裏切られたという印象を持っている人も多いだろうが、一度であきらめてはだめなのだ。政党の良し悪しは、実際に政治をやらせてみなければ、わからないのだから。

一時休業の件

 3日間、無断連休しましたが、ちゃんと生きてます。14日の日曜日には、多摩市民オーケストラの定期演奏会も聞いてきました。カゼがなかなか治らないのは事実ですが、それほどの重症ではありません。ただ、ブログになるべく欠番を作らないようにする几帳面さがなくなって、そのこともあまり気にしなくなりました。
 自律心を失うのは、決して良いことではありませんが、自分への採点が甘くなっていると思います。間もなく満84歳になるという、自分の年齢に甘えているのかもしれません。でも、6月には函館の「かわぐちえいこう」さんを訪ねて、2泊3日でレンタカーを乗り回す予定にしています。しかし、飛行機に乗るのも、レンタカーで走るのも、今年で最後にするつもりです。なんとなく、「これが程よいところ」という気がするのです。
 気に入った風景を眺めたり、気の合う人と話したりするときに、「これが最後になるな」と予感することがあります。「元気でね」と別れるのですが、その後のことは知りません。
 つい先日、眼科で検診を受けました。12年ほど前に、私の両眼に眼内レンズを入れて、白内障を根治してくれた先生です。そのとき「焦点は25センチぐらいで、本とパソコン画面が楽に見られるようにして下さい」とお願いしました。「おかげ様で、あれから本が2冊書けました」と言うと、「それは良かったですね」と、にっこり応じてくれました。近ごろ左目の視力が少し落ちてきましたが、それくらいは、もういいのです。第2種(タクシーも運転できる)の運転免許は、更新するつもりがありません。2019年6月18日まで有効です。取得したのは1949年12月24日でした。
 何事にも、程よい終り方というものがあるのだと思います。本人が自覚していなくても、他人があとから見て「いいところだったな」と思えるような。

改憲発言は「森友・アッキード事件」を消す目くらまし爆弾だった説

 先月4月の末まで、安倍首相は、かなり危ないところまで追いつめられた気分でいたのではなかろうか。教育勅語を生徒全員に唱えさせるなど、戦前回帰路線の森友学園は、安倍首相夫妻とは、親近感で結ばれた関係にあった。その学園が経営拡大のために欲しかった土地として、隣接する国有の遊休地があった。所管の官庁は、その土地を「ゴミが埋まっているので、その撤去費用を減額する」と理由をつけて、格安で学園に払い下げる決定をした。この前後に、安倍昭恵、首相夫人の名が出てきたのだ。
 これに関連してネット検索したら、「身内でズル罪」という面白い言葉が出てきた。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20170308/1488930855
 政・民・官の3者が(この組み合わせには限らないが)身内意識で結ばれたとき、ほとんどすべてのことが実現可能になり、これを罰する法律はない。「身内でズル」というと悪いことのように思われるかもしれないが、考えてみたら世の中の大半のことは「身内でズル」で回っている。家庭経営などはその典型の固まりだろう。健康保険など各種の社会保険も、広い意味ではみんな「身内でズル」の範疇に入ってしまう。さらに拡大すれば、国家の存在そのものが「身内でズル」の大きな制度化と見なすこともできるのだ。
 だから「身内でズル罪」は法律にならない。特定の相手に不当な利益を与えたなどの贈収賄や、官庁が国有財産を処分する際の不当な会計処理など、法律に違反する事案が問題にされるだけである。しかし安倍総理は不用意にも、2月17日の国会質疑で森友学園問題について「私や妻が関係していたということになれば、これはもうまさに総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい」と発言してしまった。だからこれが首相の進退にかかわる大問題になってしまったのだ。
 ここでの正解は、「そんなこともあったかもしれないが、法律にふれる行為ではない。ただし道義的責任があるというご意見もあろうから、今後は妻にも注意させる」と言っておけばよかったのだ。だからこれは、安倍氏が自ら招いた災難と言える。なにしろ攻め手がなくて困っていた多くの人たちに、絶好の手がかりを与えて元気づけたのだから。その危険な「勇み足発言」が、このほど衆議院予算委員会の議事録から、ごっそり削除されたと伝えられている。国会の議事録というのは、政権に不都合なら、そんなに簡単に消せるものなのだろうか。
 しかしインターネットの現代で、国会議事録から発言が消されようと、この安倍発言はユーチューブでもブログ記事でも、フェイスブック、ツイッターでも、すでに無数に出回っている。動画を「魚拓」として個人で保存している人もいる。今さら「なかったことにする」のは、総理の権限をもってしても不可能だろう。
 けれども、これは「身内でズル」事件なのだから、もともと総理を辞めさせるほどの力はない。それなのに議事録の削除までしてくるのは、逆にこの件を安倍氏がいかに気にしているかを照射している。「総理大臣も国会議員も辞める」なんて、なぜ言ってしまったのかと、事あるごとに苦い思いを嚙みしめているに違いない。これから審議が進むにつれて、その苦渋が繰り返されることになる。「自業自得」とは、こういう状態を表現するための言葉だ。

かんじゅく座公演「ねこら!2017」を見る

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 鯨エマさんが主宰する高齢者劇団「かんじゅく座」の公演「ねこら!2017」(5月14日まで・中野「ザ・ポケット」にて)を見てきました。登場人物は、一人の小学生を除いて全員が猫という設定です。現代の猫社会は、人間社会に似て、生きて行くだけで大変なのです。気まぐれな飼い主の意のままに翻弄されて、虐待や放棄の憂き目に会う中で、高齢化の波に洗われ、下手をすれば捕まって「殺処分」される運命も待っているのです。
 でも、全体の展開は決して暗くはなりません。全員が猫を演じるというのは、ある意味で演じやすく、容易に笑いを誘うというメリットもあるのです。たとえば中には妊娠中で出産間近の猫もいます。生活が苦しい中で子を生むのは不安にしても、猫仲間にとっては当り前の現象なのです。そんな中に、不登校の小学生の男の子が迷い込んできました。場所は隅田川の川岸という設定です。自殺するつもりで水に入って行く男の子を、猫たちは全員が力を合わせて岸へと引き上げました。
 やがて母猫は3匹の子猫を産みました。かわいいけれど将来が心配な子猫たちを箱に入れて、飼い主を探してきてくれたのは、猫たちに助けられた男の子でした。このハッピーな展開は、昨年に自身が高齢出産を達成した鯨エマさんの体験が、少しは反映しているのかな、と思いました。
 この芝居で鯨さんが表現したかったのは、「生きて行く上で大事なことは何か」を考えてもらうことだと解説には書いてありました。そしてドラマは、猫たち全員が新しい船を仕立てて、隅田の川岸から乗り出すという、申し分のないエンディグへと進んで行くのでした。全員が歌う「ここが僕らの生きる場所」の最後の5行は次の通りです。
自由に ヒゲの向くままに
悠々と 気のむくままに
自由に 肩で風きり
悠々と しっぽふりふり
東西南(にゃん)北 歩くのさ ニャン!
 なお、この劇は、今年6月2日から5日(金〜日)まで、福岡市「ももちパレス」で開催される「全国シニア演劇大会」(かんじゅく座は初日)にも参加します。

左足アクセルなら、すぐ普及する

 YAHOO!ニュースに「アクセルと踏み間違えない『左ブレーキ』が、普及しない理由」という記事が出ていたと教えてくれた人がいて、久しぶりにこの問題を思い出した。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170509-00000019-zdn_mkt-bus_all
 私は以前に踏み違えで追突事故を起こしたことがあり、同じ足でアクセルとブレーキを踏み分けることの危険に気がついた。それ以来、左足でブレーキを踏むことにして、完全な習熟には1年ほどかかったが、今は安定的にそれで運転している。だがその過程で痛感したのは、「左足で踏めるアクセルが欲しい」ということだった。
 危険を感じてブレーキを踏む動作は、強く右足に教え込まれているから、これは変えない方がいい。さらに、気をつけてやってみればわかるが、ブレーキの踏み方には、常にアクセルよりもずっと細やかな加減操作が求められている。その熟練を、別の足にやらせるのは大変なことなのだ。
 今の自動車のペダル配置は、アクセルが右端にあり、その左に、やや大きめのブレーキペダルがついている。だが、この配置が絶対かというと、決してそうではない。私が昭和24年(1949年)に免許を取ったときの教習車は、1930年代製と思われる日産のダットサンだったが、ペダル配置はブレーキが右で、中央にアクセルがあり、さらにギアチェンジのためのクラッチペダルが左についていた。この応用でペダル配置の左右を入れ替えるなどは、その気になれば簡単なことだろう。私はその観点で、「ペダル位置の変更による左足アクセル」の安全性を確信し、自動車のメーカー各社と業界新聞や関係官庁に提案したことがある。またブログ記事にしたことも何度かある。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55591998.html
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55593341.html
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55594319.html
 しかし呼びかけは、ことごとく拒否され、日刊自動車新聞が一度取り上げてくれただけだった。現状のままの自動車では、対策は左足でブレーキを踏むしかない。それが、上記したようにかなりハードルの高い習慣の変更になるから、なかなか普及が進まないのだ。だが、きょうのYAHOO!ニュースには、最後にとても面白いことが書いてあった。官庁も業者も、この問題に本気で取り組まないのは、左足ブレーキの普及にいくら力を入れても、誰にも何の金儲けにもならないからだというのだ。それならここで一挙に問題は解決する。
 自動車メーカーは、ペダル位置を入れ替えて「左足でもアクセルを踏める安全対策車」を売り出せばよいのだ。アクセルが中央に来れば、右足だけで運転したい人にも迷惑はかからない。長距離で右足が疲れたときだけ左足と交代する方法をとることもできる。ペダル位置の変更に、たいした設備投資は要らないだろう。安い経費で「安全運転のできる新車」を売り出すことができるのだ。価格もあまり高くないだろうから、消費者も大歓迎である。この商機は、早いもの勝ちの勝負になる。
(追記)
 ペダル配置が変ると危険だと反論したい人がいるだろうが、「止めたいときは右足でブレーキを踏む」という最重要な動作は同じなので、何の問題もない。

漢字の読めない元首相と日本語のできない現首相

 早くカゼを治したくてほぼずっと横になっていた午後、テレビから流れるままに参議院予算委員会の国会中継を見ていた。民進党の質疑で、蓮舫代表と小川敏夫氏が質問し、安倍総理が答えていた。最初の話題は、昨日の午後、長妻議員が先日のビデオメッセージなどを踏まえて「国会で自分の主張を言わず、報道やビデオでバンバン言うことに違和感を覚える。」などと追及したのに対して、首相が「自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していたたきたい」と答弁した件を取り上げていた。
 自分の考えは新聞に書いてあるから読めというのでは、国会軽視そのものになる。委員長からも答弁後に首相は注意を受けた。さらにその前の応酬の中では「そもそも新聞記事などを発端に質問をされている」と反論しているのだが、これは幼稚な理屈のすりかえだ。首相のインタビュー記事を載せている新聞は、立派な質問の根拠になる。そのことと、自分の考えは新聞に書いてあるから読んでくれればわかると突き放すのは、全く次元の違う話なのだ。
 そういう昨日のいきさつを踏まえて、蓮舫代表と安倍首相は、かなり長い時間をかけて追及と答弁を繰り返していた。蓮舫代表としたら最低でも、「新聞に書いてあるから読んでくれというのは不適切であった」と遺憾の意ぐらいは示してほしかったろうが、首相の答えは全くかみ合わない。「自民党の総裁としての私の立場はですね……」などと、質問とは関係のない自己都合の演説を適宜に繰り返して時間を消化して行く。結局は、「2020年までに憲法9条の第3項に自衛隊の存在を書き込む」かどうかという核心の問題には、ほとんど話題が及ばなかった。
 この質疑の間ずっと、安倍首相の横席に元首相の麻生氏がいて、ニヤニヤ笑っていたのが印象的だった。麻生氏は漢字の読めない総理大臣として有名だったが、現首相は「質問されても質問の文脈からずれた答弁をする」、日本語の使い手として問題のある人のようだ。ネット上に「安倍さんに日本語の通訳をつけてくれ」という書き込みがあったが、その気持がわかるような気がした。



カゼに負けました

 5月の初めから、カゼの初期対応に失敗して、すっかり拗(こじ)らせてしまいました。発熱と咳に悩まされ、基礎体力への自信もゆらいでいます。しばらくの間、体調の回復を最優先にすることと致します。5月9日の「正午から国会一周散歩」も、今月の私は不参加とさせて頂きます。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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