志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2017年08月

私は元号を使わない

 今の世界で、その国独自の年号を用いた暦を公式に使っているのは、日本だけではあるまいか。日本では古くから、天皇の代替わりごとに年号を改めてきた。ときには縁起をかついで、代替わりの途中でも「改元」つまり元号の更新をすることもあった。通算の年号がないのは不便だったろうと思うが、当時は世界共通の「絶対年数」といった概念がないのだから仕方がない。
 日本にも「皇紀」というものがあって、西暦よりも660年古い、つまり今年は日本紀元2677年なのだが、今はこんなことを言っても誰にもわからないだろう。軍国主義・国粋主義の時代に、「古事記」や「日本書紀」の記述をすべて正しいと仮定して、「神武天皇」の即位を元年として計算した「架空の歴史」に基づく年号だったのだ。西暦に対抗するつもりで持ち出して、昭和15年(1940年)には「紀元二千六百年」の記念行事を盛大に行っている。
 明治以降は、天皇の一代ごとに年号を定めることを、法律によって決めた。今に至るまで、日本の年号はそれによっている。
 ところで私は、すべての記述で暦は西暦に統一して日本年号は使わない。ただし例外が一つあって、私が育った昭和については、あまりにも記憶と密着しているので、昭和を使って西暦を括弧で併記する、またはその逆を用いている。太平洋戦争が始まったのは「昭和16年12月8日(1941年)」だったのだ。ただし、「平成」の年号は、役所の文書などで強制される場合以外は、決して使ったことがない。
 天皇の退位が近いとかで、次の元号が取り沙汰されるようになったが、元号を使うのは、宮中行事などの、なるべく限られた範囲にしてほしいものだと思う。国としての使用の可否を論じると面倒なことになりそうだから、制度としての年号は保存してもいいが、一般の暦では、西暦だけで用が足りるようにしてほしいし、また、必ずそのようになって行くだろうと思う。
 天皇が変わるたびに年号が変わって、暦も書き換えるというのは、天皇(皇帝)が時間をも支配するという古代信仰から発している。民主主義の現代には、ふさわしくないのだ。
 

遠くのミサイル、身近な暮らし

(熊さん)2日ほど留守だったみたいだけど、どっか行ってましたか。
(ご隠居)うんにゃ、ずっと家にいたけど、連れ合いの病院通いにつき合ったりして、意外に時間を取られてたんだよ。きょうは早くからミサイル騒ぎで、テレビは定例番組が全滅だ。新幹線まで止めたってんだから、なに考えてるんだか。上空を通過したミサイルとは、何の関係もないだろに。喜んでるのは、北の将軍さまぐらいじゃないのかな。
(熊)Jアラートとかいう、警報システムがあるんですね。
(隠)そうらしいね、ミサイル防衛と連動してるようだが、今回のは日本が狙われてミサイルが来るって話じゃない。通過するだけなのは、観測すればわかってるわけだよ。それを大騒ぎにするのは、緊張感を高めて、国民が政府を頼りにするように仕向けてるようにも見えるな。中嶋寛さんが言ってた、安倍内閣の支持率が下がると、北朝鮮がミサイルを撃つ。(安倍)「あ、またお願いね」「(正恩)「うん、いいよ」で「あ・うんの呼吸」という面白い話があったが、あれを思い出してしまうよ。
(熊)あうんの呼吸を、ヘンなところに使わないで欲しいけどね。戦争が近づくような雰囲気づくりは、まっぴら御免に願いたいですよ。
(隠)それともう一つ、27日の日曜日には、茨城で知事選挙があった。革新系が推して多選を重ねてきた現職が、自公推薦の新人に敗れているよ。候補者は、新・旧の二人にプラスして、共産党が独自候補を立てたんだな。100万票あまりのうち、自公候補が半分近くを占めたんだが、現職にも根づよい人気があって、共産候補の票10万あまりを加算すれば、余裕で勝てる票数を取っていたんだよ。結論から言うと、共産党を外しては自公に勝つことができない。裏返して言えば、共産党を仲間に入れてはじめて、小選挙区で自公政権を倒せるということを、改めて示しているように思ったね。
(熊)うーん、よくあるパターンですよね。政権の交代は、共産党を仲間に入れるかどうかで、ずいぶん構想が変ってくるんですよね。政権交代は、要するに国民生活を第一に考えるかどうかだと思ったら、共産党との協力は当然に思えますね。それ以上のごちゃごちゃした理屈は、あと回しでいいじゃないかと思ったりしますよ。
(隠)わしも共産党が政権与党になって、首相を出すようになるとは考えにくいんだが、今の政治の停滞を破るには、とにかくこのままでは、だめだと思うんだよ。共産党というカードは、これからの政治に欠かせない切り札になりそうだ。

「収入つきの家」を建てる思想

 私たち夫婦が建ててきた家の歴史を振り返ると、常に「収入のある家」を建ててきたという顕著な思想があるのに気づく。草加の公団住宅に住み、隣接する農地が宅地開発されて分譲地になったときに、それは始まった。当時はNHKをやめたあとの、不本意なサラリーマン時代で、あまり裕福ではなかったのだが、遠縁のおばさんの思いがけない応援や、それに巻き込まれた妻の実家からの援助もあって、初めて「自分の家」を建てることになった。時代は、後から思えば「地価狂乱」の直前だった。
 そのとき、おもに妻の発案で、土地は広く買い、貸室つきの家を建てた。ローンの返済のためにも安定するし、「家主」になって「店子」を迎えるというのも、何やら新鮮に思われた。二階建ての赤いスレート屋根の家が堂々と完成したときは、周囲からの景観を見ながら、二人で歩いてみた。設計にも資金繰りにも、妻は全力で取り組んだ。そういう専門の学校に通いたかったのだそうだ。このときの幸福感を、今も鮮明に覚えている。
 この記念すべき家には、しかし3年しか住まなかった。1976年(昭和51年)には娘が中学生になるのを機に東京都内に住むことにした。現住地の中野の土地を、逆立ちするような無理な資金繰りで手に入れた。当初は家を小さく建て、残りを目いっぱい駐車場にして貸した。借り手はいくらでもいる絶好の立地だった。その頃から自営業として独立し、事務所・作業場のスペースが大きくなってきた。そろそろ駅近くのマンションでも買って事務所を分離しようと算段しているとき、隣家の老夫婦が、土地の一部を売ってアパートを建てたいと言ってきた。「値切らないでね」と言われた通りの値で買い取り、これでビルを建てられるだけの敷地に広がった。
 ビルの3階には1DKのマンションを4戸並べ、会社は静かで温度の安定する地下に入れ、1階に5台分の駐車場を設け、居宅は2階とした。この時点で借金の合計は1億2千万の最高値になり、以後、借金と戦う長い人生の開幕となった。貸室については、妻は「見ててごらんなさい、今にあの子たち、ここに住むようになるわよ」と言っていた。そしてその後、ほぼその予言の通りになって今に至っている。
 今でも貸室の1戸と4台の駐車場が働いている。そしてさらに面白いのは、自分の会社は、自分に「家賃」を払ってくれるのだ。これはビルのオーナーだから、会社を退職しても変わらない。会社がつぶれない間は、ちゃんと払ってくれると税理士さんが言っていた。
 自宅は自分の生活の場であってくれさえすればいいので、職場と分離すれば、また別な人生があったのかもしれない。しかし私の場合は、職と住の分離は一度も考えたことがなかった。良くも悪くも、私の人生は「この家」とともにあり、たぶんこの家の中で終る。これが私と妻とで作り上げた「私たちの家」である。
 

年金返上論に共感する

 小泉進次郎氏が「こども保険の財源として、(経営者に)年金返上を提言」したとの新聞記事(25日、朝日新聞の3・7面)を読んで、共感するところがあった。ただし私も自分のブログを「炎上」させたくはないので、これは「経済的に余裕のある人への年金給付の抑制」と読みかえてもいい。話の導入として、年配の経営者に、受給している年金の額を聞いても、ほとんど知らないと答えるそうだ。それはそうだろう、経営者ともあろう者が、自分の老後を年金に頼ろうなどと思うわけがない。
 私が自分の会社を社会保険に加入させたとき(当時は選択制だったと思う)も、自分がその恩恵を受けることは考えなかった。会社を経営する上での社会的責任の一つと思っただけだった。その感覚だったから、代替わりで退職の手続きをするとき、社会保険事務所で「フル年金が出るように」と、親切に指導してくれたのが、むしろ意外だった。法人の経営者は、サラリーマンの仲間だということを再認識させられた。私の妻も、共同経営者だったから、独立した人格として同様の扱いになった。もちろん安くない保険料を納め続けたからこその給付なのだが、本当にこれでいいのかなという感覚はある。
 私たち夫婦の場合、複合家族で同じビルで暮らしているから、娘たちの家族と家計はごちゃごちゃになる。私たちは金のかかる趣味も持っていないし、美食の習慣もなくて、出されるものを毎日おいしくいただくだけである。我ながら感心するぐらい、金を使わなくなった。いまさら欲しいものも買いたいものもなく、何を買ったと思い出すような大きな買い物は、この何年もしていないと思う。大きな支出は、おもにビルのメンテナンス費用だろうか。
 周知のように、今の年金制度は現役時の格差を引きずっている。国民の安全保障のためだったら、やはり一元化へと進むべきなのだ。制度が一元化されれば、掛け金は限りなく税金に近づき、給付は限りなく社会保障に近づいて行く。自分の才覚で老後も裕福な暮らしをしたかったら、そういう人は、任意で民間の保険を利用すればいいのである。

 

軍事費は値切りにくいが

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 日本の「防衛費」という名の軍事費が、じりじりと値上がりの傾向にあるようだ。北朝鮮によるミサイル発射の連続などもあって、「ミサイル防衛」関係費が増えているらしい。つい先日の朝日新聞では、無人偵察機のグローバルホークを導入する計画が、予定の3機体制で510億円の見積りのところ、630億円に値上がりすることがわかって中止を検討すると書いてあった。ところが今日の東京新聞によると、来年度の予算要求については5.2兆円の過去最大となり、そこには無人偵察機の取得費も盛り込まれたと書いてある。
 予算には入れておかないと可能性がなくなるという事情もあるだろうが、やはり欲しい機材だということだろう。だが専守防衛を旨とする日本としたら、安易に使うべきでない気がするのだ。1万5千メートルの高空を飛ぶといっても、偵察される側から見たら領空侵犯そのものになる。無人機と言えば、攻撃型の「暗殺兵器」としての働きが有名だが、偵察か攻撃かの区別は、相手側にとっては、ほとんど無意味で、敵対行為として全力で撃墜しようとするに違いない。
 偵察が目的なら衛星写真があるし、各種の現代的な情報収集手段があることだろう。日本が率先して北朝鮮の上空に自前の無人偵察機を飛ばすなどは、もし可能であるとしても、すべきではないと私は思う。だとすると、この偵察機は、ほかのどこで使うことを想定しているのだろう。この問題が、たとえば国会で今後も議論されるとしたら、高いか安いかだけでなく、どこへ飛ばすつもりなのかを充分に論じてほしいものだ。
 

「特攻兵器『蛟龍』艇長の物語」を読む

 「特攻兵器『蛟龍』艇長の物語」(宗像基・堀口洋子(聞き書き)・社会批評社)を読んだ。新刊ではなく、10年前の2007年に出た本だが、昨日、阿部めぐみさんを案内して社会批評社の小西誠さんを訪ねたとき、たまたま目について持ち帰り読み始めたら、止まらなくなって一気に最後まで読んでしまった。著者は台湾出身のクリスチャンで海軍兵学校に入った人だが、聞き役の堀口洋子さんの力量があるのだろう、良い味を引き出していた。
 表題にもなっている「蛟龍」だが、戦時中にこの名は公表されず、単に「特殊潜航艇」と呼ばれていた。そして開戦のハワイ攻撃にも5隻が参加して、ここで戦死した「9軍神」が有名になるのだが、5隻で9人というのは、当時から、いかにも不自然だった。事実は酒巻少尉の艇が座礁して捕虜の第1号になっていた。しかしアメリカ側が公表しても日本海軍は知らないことにして押し通していた。この本で、酒巻艇の羅針盤が故障していたことがわかったが、羅針盤なしで潜航艇が航行できるわけがない。引き返さなかったのが間違いだった。
 あとの4隻のうちの1隻は、アメリカ駆逐艦に発見され撃沈された。その時間は、ハワイ空襲による開戦よりも早かった。そしてあとの3隻もどうなったのか、潜航艇による戦果の記録はない。当時の潜航艇は2本の魚雷を発射する設計で、曲りなりにも乗員に生還の可能性を残していたが、帰ってきた例はない。戦果らしいものとしては、シドニー港に潜入した潜航艇が2本の魚雷の発射に成功し、いずれも命中はしなかったが、岸壁で爆発して近くの小型船にいた19名を戦死させた例が記録されている。
 「蛟龍」の操縦は難しかったという。正規の潜水艦の艦長を上回るほどの技量が必要だった。兵学校出の士官が艇長になるのだが、その部下としては、予科練出身などの少年兵が配属されてきた。そして資材も燃料も被服も劣化する中で厳しい訓練を続けると、当然ながら事故が多発する。著者も水没、着底の事故を経験したが、幸運にも近くにクレーンがいて九死に一生を得た。やがて海軍の目ぼしい艦艇がなくなるころになって、大量に生産されていたのが「蛟龍」などの特攻兵器だった。
 人間魚雷の「回天」、人間爆弾の「桜花」などは文字通りの特攻専用だったが、その一歩手前の「特別攻撃隊」は、開戦の初期から用意されていたのだった。日本の軍隊に人命尊重の思想はなく、その反対が尊いとされていたのだ。 

ブログ連歌(492)

9819 原爆忌 非核の願い 絶えざらん (みどり)
9820  絶対悪の 認識をこそ (建世)
9821 地位協定 自民の姿勢も知らず
9822  やっぱり官僚作文 読むのに限る (獣医さん)
9823? HIBAKKISYAの 気持ちも汲まず (獣医さん)
9823 核禁の 条約あれど 参加せず 
9824  言を左右の 被爆国とは (建世)
9825 核所有 核無所有も 我が意中 (みどり)
9826  核廃絶の 信念をこそ (建世)
9827 本マグロ 経(減)れば食べるの 止めりゃ良い (獣医さん)
9828  食べ続けたけりゃ 智恵を出したら (建世)
9829 マグロより 食糧自給 不安なり (みどり)
9830  明日を思わぬ 飽食の民 (建世) 
9831 長雨や こころも沈む 終戦日 (建世) 
9832  我が身はげまし 食物買出し (みどり)
9833 食うことが まずは大事と 挑戦す
9834  中身探しは 冷蔵庫から (建世)
9835 石垣の 碧き海辺に ディゴ散る
9836  駐屯地化を 拒む島人 (みどり)
9837 先島に 似合わぬものは 軍事基地 (建世)
9837B オスプレイ いつの間にやら 北の地へ (獣医さん)
9838  加速度つけて かさむ軍事費 (建世)
9839 イージスは 名にそぐわずに すぐ壊れ (建世)
9840  押し付けらるる 兵器増しゆく (みどり) 

根性あった花火と雷

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 昨夜の雷雨は豪快だった。夜になってネットを見たら、いろいろな人が写真に撮っていた。また、昨晩は土曜日だったから、方々で花火大会が予定されていたらしい。この「鶴見川花火大会」もその一つで、天候を見ながら少し早めに打ち上げを始めてみたのだが、雷雨が激しくなったため、結局は中止となり、順延も延期もしないと決めたということだ。
 夏の終わりの花火には、「夏が行ってしまう」という一抹の淋しさがある。今年は太陽が出ないままの夏の終わりだから、その淋しさは一入(ひとしお)である。その代わりに雷雨が夏らしさを演出してくれたのは、よかった。
 夏の雷雨というと、昔々の話だが、大規模夏キャンプの記録撮影に行ったことを思い出す。ものすごい雷雨に見舞われて、3台のビデオカメラのうちの2台が、たちまち死んでしまた。電源ショートで現場修理は不能である。東京から予備カメラを送るなどの騒ぎになった。ところが翌日はカラリと晴れてイベントは大成功、記録ビデオも感動の名作になった。
 世の中、何があるかわからないものだ。迫りくる雷雨に立ち向かっているように見える花火は、健気である。

戦死者は黙っているから使いやすい

 「逝きし世の面影」ブログの主である「宗純」さんとのコメントのやりとりの中から、「戦死者は黙っているから使いやすい」というフレーズが浮かんできた。
 たとえば「さきの戦争で亡くなられた方々の、尊い犠牲の上に今の繁栄があることを忘れてはなりません。私たちは深い感謝の念とともに、先人たちの果たせなかった夢を引き継ぎ、新しい未来を作って行かなければならないのです。」といった言葉を最近も聞いたような気がするが、戦死者への追悼を口にしながら、新しい「戦争のできる国」への路線を整えて行くこともできるのだ。
 戦死者を「軍人として戦争で死んだ人たち」と定義すれば、少なくとも建前としては命令に従い、課せられた責務を果たすつもりで戦闘に参加した人たちが大半を占めるだろう。事前に覚悟の遺書を認(したた)めていた人もいるかもしれない。特攻隊員なら、全員がいっせいに遺書を書き、遺髪を添えて家族あての封筒に入れた。
 当時の日本人の男にとって、兵役につくことは逃れられない「義務」だった。だから志願の形をとった幹部候補生でも、非常に厳しく制限された中での選択の自由でしかなかった。そして軍隊に組み込まれた以上は、みんな一様に「作戦目的に使われる駒」の立場に置かれる。命令は絶対だから、無理でも理不尽でも拒否はできない。
 こうして戦争に行った者たちは、全員が死んでくれたら為政者はどんなにか楽だったことだろう。しかし特攻隊員の中からさえ、死なずに帰ってくる者がいた。玉砕したはずの部隊からも生存者が出た。生きて帰った者たちは戦争を批判する。上官も政府も間違っていたと言う。それが正解だから始末が悪い。運悪く戦場で死んでしまった者たちを、もし生き返らせることができたら、もっとすごい体験談をいくらでも語るだろうに、さぞ口惜しいことだろう。
 私は空想するのだが、靖国神社の上空に英霊たちが集まって、思いのたけを自由討論で話し始めたら、どんな情景になるのだろうか。もう上官と部下の区別もない。人数なら部隊長も参謀も、絶望的な少数派である。議論は何日間でも、日夜を通して続くだろう。英霊は補給がなくても腹が減らない。きっと激しい徹底的な議論になる。その内容を聞いてみたいものだが、それを聞くことが出来るのは、虚心に資料を読み、証言を注意深く聞くことのできた人の耳だけである。
 

夏の太陽に会いたかった

 長期の天気予報を探ってみて愕然とした。このあとも天候はぐずついたまま、8月の末まで行ってしまいそうなのだ。東京で8月に雨の連続の長さは40年ぶりとかいうことだが、夏らしくならずに終ってしまった夏の記憶は、過去にもないことはない。「今年は夏がありませんねぇ」などと会話したことを覚えている。
 以前にも書いたと思うが私は夏が好きだ。半袖のシャツ姿で、素足に下駄(最近は草履が多いが)を履いて歩く。左腕の手首に巻いた腕時計の跡が、くっきりと白く残るのが夏の証拠だった。秋になってその白さが薄れて行くのに、ひそかな淋しさを感じたものだ。
 そんな夏の記憶は、やはり若いころの箱根での山歩きに原点がある。いくら歩いても疲れを感じなかった。どこへでも自由に行けるという解放感があった。あの夏の一日が再現できるものなら、千万金を積んでもいいと思う。
 しかし、そんなことを言っても現実は変らない。昔は、太陽はしだいに燃え尽きて弱くなり、地球の生命は寒冷化によって絶滅すると信じられていた。ブライス先生は、冬の最初の寒い日に動物が異様に反応するのは、寒さでの死滅を予感するからだと言っていた。
 ところが今の科学的予想では、太陽はだんだん膨張し、周囲の惑星を呑み込んでしまうという見方が有力であるらしい。それと関係があるかどうか知らないが、当面の地球的課題は、温暖化の防止だと言われるようになってきた。いずれにしても、人類全体の生存期間を超えるような、スパンの長い話ではあるのだが。
 それよりも人間の課題は、今の文明社会を、戦争で壊してしまうかどうかという切迫した問題になってきた。核兵器が何発で人類を絶滅させられるかは、信頼できる計算で割り出すことができる。生存期間の予想よりも、絶滅の予測のほうが簡単なのだ。
 そんなことを、とりとめもなく考えているうちに、我ながらまとまりのない駄文になってきた。これ以上のボロを出さないように早く退散しよう。これもみんな、天気が悪いせいなのだ。
 

平和のために戦死した?

(熊さん)終戦記念日で、テレビでもいろんな番組がありましたね。
(ご隠居)ゆうべは、NHKスペシャル「戦慄のインパール」というのを見ていたよ。戦争の末期近くに、ビルマ(今のミャンマー)から印度に向けて進撃した無謀な作戦だったんだ。最初は3週間で終るつもりが、誤算つづきで雨季に入り、密林の中で補給が続かず、3万人の兵が「白骨街道」と呼ばれた進撃路の往復で死んでしまったんだ。参加した日本側3個師団の師団長が、3人そろって途中で解任されるという不祥事も起きた。根本の原因は、勝算もないのにムードに乗せられてしまった作戦の不備にあったんだね。この作戦には前から関心があったから、1993年に放送されたNHKのドキュメンタリー「責任なき戦場ビルマ・インパール」
http://www.youtubelist.sblo.jp/article/116032855.html(50分)
も思い出して、ユーチューブで見てしまったよ。前作には、イギリス側の映像資料も使われていて、作戦全体が客観的に描かれているように思った。
 昨夜の番組で印象的だったのは、日本側参謀の「5000人殺せば取れる」という言葉だった。これは、自軍から5000人の戦死者を出す予定で攻めるという意味なんだよ。
(熊)えーっ、殺すのは敵じゃなくて味方なんですか。
(隠)つまり兵隊を消耗品として使うのが指揮官や参謀の仕事だと思っているんだ。当時はそれが戦争というものだと考えてたんだね。のちに特攻隊を組織するようになるのも、この思想の延長だと思うよ。戦争に勝つことが最優先になると、人間の命は、どんどん小さくなって行くということだ。最後は「一億玉砕」まで言い出したんだが、国民がみんな死んで守る「国」には、何が残るんだろうね。
(熊)うーん、わかりませんね。そんなものは国じゃない。
(隠)終戦記念日には、いろんな鎮魂の行事があったが、「今の平和は、戦争で死んだ人たちのおかげです」みたいな言い方には、なにか抵抗を感じなかったかい。大事な人をなくした遺族には、それで少しは慰めになるかもしれないが、本当は生きていてくれた方が、ずっと良かったんじゃないだろうか。死者の鎮魂に意味があるとすれば、それは無用な死を招いた戦争という愚かな行為を繰り返さない教訓になるという、その一点だけだろう。それ以上の意味づけをして持ち上げて美化するのは、むしろ危険な印象操作のような気がするんだよ。
(熊)きのうの「全国戦没者追悼式」で、安倍首相の式辞と、天皇の「おことば」が対照的でしたね。首相の式辞がまさに「尊い犠牲への感謝」を強調してましたよ。天皇はひたすら、深い反省と平和への願いを述べていました。
(隠)わしは気が向かなくて放送は見なかったんだが、きょうの新聞で両方の全文が読めた。「戦死した兵隊さん」への感謝というと、子供のころによく聞かされた歌を思い出すよ。
 
 兵隊さんよありがとう
    (橋本善三郎・作詞)

肩をならべて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
(2番の歌詞で「傷ついた」になり、3番で「戦死した」になる)

(追記)
(隠)先日書いたオスプレイの記事が、出先に行って意外に盛り上がってたみたいだけど、あまり興味がないんで放っておいたよ。
(熊)そうですか、いろんな人がいますからね。

8月15日は、やはり忘れられない

 東京は夏が突然死んでしまったような、湿っぽい日になったが、72年前のきょうは、朝からよく晴れていた。正午に「重大な放送」があることは、前夜からラジオで知らされていた。どんな放送なのか、家の中でも話題になったが、手がかりは何もなかった。朝の新聞は配達されなかった。その前の数日間に、広島と長崎に「新型爆弾」が投下されたこと、ソ連が宣戦布告して敵対国になったことが知らされていた。「これはもう、どうにもならんな」と、元新聞記者の父も言っていた。
 そんな中での「重大放送」だから、「一億玉砕」の命令か「ポツダム宣言受諾」か、二つに一つの決断以外は考えられない。ポツダム宣言の内容は、すでに、ほぼ正確に公表されていて、そこには「降服は日本国民の奴隷化を意味しない」と書かれていた。じつはポツダム宣言は、日本政府にとっても寛大な内容と判断されて、おもに天皇制の存続についての問い合わせに手間取っていた。だから「受諾を前提に考慮中」との返信を送っていれば、アメリカによる原爆の投下も、ソ連の参戦も止められる可能性があった。しかし政府が国内向けの記者会見で「ポツダム宣言は黙殺する」と言ってしまったので、これが「考慮にも値しない拒絶」と受け取られ、原爆投下もソ連参戦も、この「日本の拒否回答」を理由として実行されたのだった。
 のちに「黙殺する」は「ノーコメント」のつもりだったと言い訳されるのだが、日本的な「建て前と本音の使い分け」は、外交には通用しなかった。決定的に重大な場面で、日本政府の官僚的発想が、大きな災難を招いたことになる。
 そんな経過での「陛下のお言葉」だから、「玉砕」でなく「降服」の告知であることは聞いてすぐわかり、そこに驚きはなかった。天皇の声というものを初めて聞いたから、妙に高音の、たどたどしい朗読だと思った。すぐに感じたのが、これで空襲がなくなる、家が焼けずに残ったという安心感だった。
 それでも、昨日まで「勝利の日まで」とがんばっていたのだから、多少の虚脱感はあった。夕方になって新聞が配達され、それは久しぶりの多ページで、第一面に「万世のため太平を開く」の文字があったと思う。記事には広島、長崎の惨状も、かなり詳しく報じられていた。それを見て、父が「悪いものを作りやがって」と言うのを聞いたとき、私は初めて涙を落した。
 しかし総じて家族は落ち着いていて、かつ明るかった。私はその翌日ぐらいに、久しぶりに門灯に電球を入れて点灯してみた。周囲が異様なほど明るくなり、父があわてて「おい、よせ」と止めた。それでも電球は、不自然にねじ切られていた。あの家は終戦を喜んでいると思われたようだ。
 アメリカ機の空襲は15日からピタリと止まり、以後は示威飛行へと移行したのは見事なほどだった。私たちの実感としては、日本はアメリカと戦い、アメリカにのみ負けたのだった。ソ連軍は終戦を無視して樺太を南下し、樺太での地上戦によって、ソ連軍の北海道上陸が阻止されたという経緯を、昨夜のテレビ番組で見た。私の実感の中にも、ソ連に降伏したという認識はない。

澤地久枝の「14歳(フォーティーン)」を読む

 澤地久枝の「14歳(フォーティーン)〜満州開拓村からの帰還」(集英社新書)を読んだ。著者の最新作だが、「青春と読書」内の連載(2014〜15年)をベースに加筆・修正したと奥付で紹介している。孫の年代に当る今どきの若者たちが、あまりにも何も知らないのに呆れたのが執筆の動機になったようだ。著者の14歳は、昭和19年から20年(1944〜45年)に当っている。私よりも3歳の年長だから、終戦をはさんだ当時の混乱ぶりと「軍国少女」としての感覚は実感できた。さらに内地ではなく、満洲の吉林で満鉄の社宅に住んでいたという環境が、独特の状況になっていて興味があった。
 文体はウエットなところがなく、要録を書き出すように乾いている。一人称は「私は」でなく「少女は」で通している。自分の経験したことも、客観的に描こうとしているのだと思った。敗戦でソ連兵が進駐して来たとき、少女は家に踏み込んできた兵士によるレイプの危機にさらされた。母親の決死の抵抗で辛うじて難を逃れるのだが、あのとき汚されていたら、自分の人生は全く違ったかもしれないと著者は述懐している。
 満州のソ連軍は長くはいなかった。大量の機械設備を解体して北へ運ぶのとともに撤退し、その後に中国兵が入ってきた。それは最初は共産軍だったが、やがて国民政府軍が支配者になった。ここで初めて邦人団は日本への「退去」を認められることになる。そこで著者も15歳になってから日本へ「帰還」できたのだった。それまでの間には、特権的な社宅生活から、不潔と寒さと飢えに苦しむ収容所生活への激変があった。身近な人との死別も経験した。それらを14歳から15歳の多感な時期に体験させられたのだ。
 それなのに今の15歳は本当に何も知らない。それでいて携帯とITさえあれば何でもわかって好きなものが手に入ると思っている。「なんという時代になってしまったのだろう」と著者は「あとがき」の中で書いている。だから「老いのつくりごとではない。少年に、わたしはもう一度話をする」というのだ。そして「この本を書いたことが、無意味にならないことに希望をつないで。」と閉じている。
 そこで私が思ったことがある。この本は、著者が希望したように、今の14〜15歳、つまり中高生にぜひ読んで欲しいと思うのだが、実際に読んでくれるだろうか。もし熱心な教師がいて夏休みの課題にでもしてくれたら、すばらしいと思うのだがどうだろうか。ちょっと難しそうな気がするのだ。私の年代だから、深い興味と納得を感じながら読むことができた。しかし戦争というものを、書物の知識としてさえろくに持っていない今の十代に、戦争に翻弄される家族の苦悩を、実感をもってわからせることが出来るだろうか。
 しかし一方では、原爆忌などで見られるように、戦争の惨害というものを、みごとに批判して平和を誓ってくれる子供たちもいる。あれはやはり、誰かの話を聞き、本も読んで考えた結果なのだろう。だから「語り部」は多いほうがいいのだ。いろいろな人が、それぞれの視点で覚えていることを残して行く。私たちはみんな、語り尽くせない物語を持っているのだから。

オスプレイは、みっともない飛行機だ



 オスプレイが話題になっているので、どんな飛行機かと少し調べてみたら、ちょっと意外なこともわかったので書いてみる。開発が始まったのは、なんと1980年代初頭だったというので、まずはその古さに驚いた。垂直に離着陸できるヘリコプータの長所と、水平飛行の速さとを、プロペラの回転軸を傾けることで達成しようと発想したもので、ヘリコプターのベル社が軍部の要請を受けて研究・開発に取り組んだという。
 原理的にすぐれた発想で実用性があるのなら、ふつうは次々に改良型が開発されて飛行機業界の新分野に成長する筈だが、オスプレイはそうはならず、いつまでもオスプレイだけの孤独なままで、新しい機種が増えることはなかった。ただし今は古くなっている大型ヘリの後継機として、高速輸送を担う次の主役に選ばれているらしい。しかし30年以上たっても新しい仲間が増えず、基本的に初期のままの姿でいるところに不安が残る。万全の安心感で選ばれたのではなく、他に選択肢のない無理が感じられるのだ。
 オスプレイの構造上の特徴は、水平飛行のための固定翼を備えているところにある。ところがこの固定翼が問題で、面積が小さくてエンジン故障時の滑空などには役立たない。プロペラも水平に向けたときは先に地面を叩いてしまうから軟着陸は不可能である。プロペラにはヘリコほどの大きさはないから、離着陸時の下降気流は高速・高温になり、騒音はすさまじい。そしてプロペラの空気抵抗により故障時にも安全に着地する能力を欠いている。
 これで軍用として役に立つのかと思うのだが、使用目的が「輸送機」だから、いいのだろう。それにしても、アイディア倒れのような「みっともない」飛行機だと思う。ちなみに「みっとみない」の語源は「見とうもない」だそうだ。見たくもない変な飛行機ということになる。開発段階で事故率が問題になったと伝えられたが、採用しようというのだから、それなりの理屈はあるのだろう。日本の自衛隊も導入を決めているという。その価格が一機100億円とかで、それが高いとか安いとか議論されているようだ。
 どっちにしても軍用と名がついたら価格は青天井になる。こんなものに税金を使ってほしくないのだが、せめてなるべく安く、なるべく少なく済ませてもらいたいものだ。

山歩きの思い出

 「山の日」の関連で、新聞にも山の話題がいくつか出ていたので、自分の少年期の山歩きを思い出した。父は箱根の仙石原村温泉荘、大涌谷の麓、湖尻の港を見下ろす丘の上に山荘を持っていた。おもに精神障害のある長兄のために、お手伝いさんつきで維持していたのだが、私はそれに便乗して、春夏の休暇などには、自由な長い時間を過ごした。
 当時「参謀本部の地図」と呼ばれていた5万分の1の地図を頼りにして見当をつけ、原則として全行程を徒歩で、あちこち歩いてみた。近所には知人も友人もなく、常に一人で行った。靴は次兄が復員で持ち帰った軍隊靴が気に入って愛用していた。皮革の表裏を逆に使い、内側が滑らかな合理的な造りだった。ザックを背負うことはなく、たいていは手ぶらで、遠距離の予定のときだけ、にぎり飯とガラス瓶の水を入れた小袋を手に持つ程度だった。(ペットボトルは、まだない)
 遠出では、湖尻から深良峠に上がり、外輪山を縦走して長尾峠を経て金時山の山頂まで行き、仙石原に下山して、そこから帰りだけバスに乗ったことがある。大涌谷から神山の山頂まで登り、そこから駒ケ岳山頂へ縦走して、元箱根から船で帰ったこともあった。どちらも、ほぼ丸一日かかる行程だった。
 そんな山歩きで我流で身につけた歩き方だったが、後年、NHKで山岳ロケに行ったとき、山のプロから「足の運び方がプロ並みですね」と言われたことがある。ただし基礎体力がないから、荷物を背負ったりしたら、まるでだめだと思う。しかし手ぶらの軽装でなら、山道の案内板にある所要時間の6割程度で歩ける自信は持っていた。
 だが、今にして思うと、独行での山歩きは、ものを考える時間でもあったのだ。中でもいちばん強かったのは「人恋しさ」だった。いま隣に、理想の恋人がいてくれたらと、何度思ったかわからない。あの長い孤独な山歩きは、結ばれるべき人と出会うための旅だったのか、本当にいま突然に思いついた。
 そう思ったら、急に世界が違って見えてくる。そこへ妻がお茶を運んできた。これは偶然なのだろうか。
 もう充分に、長い道を歩いたようなような気がする。孫たちもそろそろ学生時代を終ろうとしている。あの子たちは、一人で山道を歩きながら、ものを考えるような時間を持つことが出来たのだろうか。気にはなるけれど、もう本人に任せるしかないだろう。

 

梅林宏道の「在日米軍」(新版)を読む

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 岩波新書の1冊だが、この初版は15年前に出ていて、私は一度読んでいる。私がブログを始めるよりも前なので読書記録は残っていないが、内容はよく覚えている。平和運動のビデオを作っていた関係で参考資料にした。今回は「変貌する日米安保体制」という副題がついていた。
 なぜ日本にはアメリカ軍が駐留しているのか、これは少し考えると、かなり異様なことだ。平和条約で独立を回復した同じ日に、日本は日米安保条約を結んでアメリカ軍の駐留継続を認めたのだった。米ソの鋭い対立が続いていた世界情勢の中で、アメリカの庇護がなければ日本の安全は保てないと思われていた。その結果として、あまり実感の伴わない独立の回復となった。
 日米安保というと、何となく日米が友好関係にあることを示しているように思われるかもしれないが、これは純然たる軍事同盟なのだ。そして日本の自衛隊は、日米軍事同盟の一環として発足した経緯を忘れてはならない。だからアメリカ軍と対立的に行動することは想定されていない。装備も情報もアメリカ軍の仕様と共通である。
 こうして「元・占領軍」だった在日米軍は、そのまま同盟国軍として日本に駐留を続けることとなった。その目的は、もはや日本の防衛ではない。アメリカの世界戦略における前進基地であり、有事の場合の安全で効率よく、かつ安上がりな補給基地にもなっている。日本政府の「思いやり予算」は、アメリカ軍の世界戦略に、大きな貢献をしているのだ。
 本来なら、アメリカの同盟軍と位置づけられる日本の自衛隊は、もっと力強い友軍として世界で活躍すべきところだが、ここで日本の憲法が強力なブレーキになってくる。なにしろ自衛以外の武力行使ができないのだから、アメリカ軍を守って戦うこともできない。「日本の存立が脅かされる事態」を適用しようなどと、脱法的な苦労をしているところだ。
 しかし著者は、だから憲法を緩めようとは言わない。日本には日本にしかできない貢献の方法がある。それは非軍事的な手段による紛争の解消だと言うのだ。この分野だったら、日本はいくらでも国際貢献ができる。アメリカ軍の下で自衛隊が「半人前の協力」をするよりも、ずっと役に立つ働きができるだろう。
 

ドラマ「あんとき」を見て考えたこと

 昨深夜、長崎発のドキュメンタリードラマ「あんとき」を見ていた。「あんとき」とは、忘れられない日のことだ。長崎の人にとっては、それは72年前の8月9日になる。背中を真っ赤に焼かれて手当てを受ける場面が、アメリカ軍の研究用映像に残った少年は、88歳になった。「同じことを何度も話させられて、もう疲れた」と語っていた。しかしその人も、二度めに登場したときは、「被爆を感覚として覚えている人がいなくなって行く。知っている者が、やはり語り継がなければ」という趣旨のことを言っていた。
 このドラマの場合は、主人公は2歳で原爆を経験した被爆二世ということになっていた。だから放射能について、遺伝的影響についての意識から逃れることができない。だからこそ記憶を踏まえて前向きに生きて行かなければならないという構造になるのだが、当然ながらそういう直接的な経験を持つ人は周囲から少なくなって行く。「あんとき」が、直接に知っている「あの時」から、知識としての「その時」に変化して行くのだ。
 当り前のことだが、経験者は年を追って少なくなり、やがていなくなる。そのときに「原爆は、いけない」という思想は、知識として残された資料を通して伝える以外に、後世に残す方法がなくなるのだ。だが幸いにして現代では、証言者たちはライブの映像と音声を残すことができるようになった。この変化は大い。歴史の証言者たちは、あたかも生きて世にあるかのように語ることができるようになったのだ。
 そう思うと、今ならまだ間に合う証言者が、他にも大勢いそうな気がしてきた。その中には自分自身も含まれている。たとえば空を覆って落ちて来る焼夷弾の雨を下から眺めた経験は、それを投下したB29の乗員にはわからないだろう。東京の地図を広げて、どこからどこまで焼くと作戦を立てた司令官は、もっと高い安全な場所にいた。それらの人たちも、地上では実際にどんなことが起きたかを知るべきだったのだ。
 「あんとき」にどこにいたかによって、人が殺す側と殺される側とに分かれて立っていた。人が殺し合う戦争こそが、すべての間違いの根本だったのだ。そのことに、もう気づかなければいけない。自分が殺されたくなかったら、何の理由があろうとも、人を殺してもいいと思ってはならないのだ。

今朝の夢

 死んでしまった親友が夢に出てきた。
「お前もたまにはいいことを言う。いいことを言ったあとは少し黙ってろ。下手なことは言うな」だと。
「そうか、わかった」と思って目がさめた。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55595230.html

「核兵器は絶対悪」から「戦争は絶対悪」へ

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 8月の日本には、平和への祈りの風景がある。広島に原爆が落とされてから、すでに72年が経過した。直接の体験者たちは、すでに2世代以上過去の人になった。それでも語り継ぐ人たちがいて、世界から話を聞きに来る政府代表者が80人も集まったとのことだ。ここでは誰もが核兵器は二度と使われてはならないと言う。平和な未来をつくろうと言う。
 今年になって、世界はようやく「核兵器を使ってはならない」ことで合意した。核を持たない中小国が先頭に立って、国連の場で禁止の条約を採択させたのだ。ところがこの条約には、核を保有する大国は参加しないし、安倍政権下の日本も参加しなかった。そして参加しない国には、条約の効果は及ばない。
 その一方で、世界の大国は核兵器が使われないことを前提にして国づくりを進めている。大都市の社会インフラも生活空間も、核戦争から市民を守るようには作られていない。核兵器は手放せないと言いながらも、自国が核で攻められるとは思っていないのだ。それならなぜ核兵器が必要かというと、抑止力として必要という理屈が返ってくる。
 でも、これはおかしい。抑止力という考え方は、結局は、自分だけが武装して他を圧倒していれば安心だという「力による支配」に帰結するからだ。対等でない力関係は、安定的に長く続くことはできない。弱者は必死になって、一点でも勝てるようにと努力するから、いくら監視していても終りが見えないのだ。
 そうではなくて、ここは「核兵器が絶対悪」ならば、「戦争そのものが絶対悪」だという、単純明快な真実に立ち返るべきなのだ。戦争は人間の文明史とともに歩んできたが、その役割は20世紀までで終了した。どんな意味でも、戦争は人類の未来のために有益ではなくなったのだ。
 そのことに気づいた日本国の憲法は、やはり先進的だった。この憲法を「みっともない」と貶めようとする総理大臣は、それこそ「みっともない」存在と断ずるほかはない。

本日は臨時休業しました

ネット接続不調につき、臨時休業しています。過去記事には問題ありません。
なお、現在は正常化したようです。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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