志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2017年12月

感謝の年だった2017年

 私にとってのこの一年間は何だったのか、神妙に振り返る気分になった今年の年末でした。表面的には大事件はありませんでした。あらゆる面で、現体制が維持されて年末まで来た、ということでしょう。それは反面で、来年は何が起こるかわからないという、漠然とした不安感と表裏の関係にあると言ってもいいでしょう。
 会社の業績としては、年度決算が、赤字続きを脱して黒字に転換したと聞きました。見るところ縮小均衡ではないかと思うのですが、やはり一つの安心材料です。ただし私としては経営責任から離れて久しい立場ですから、せいぜい会社から家賃を受け取るときの気の毒感が、少し薄らいだという程度のことに過ぎないのですが。
 その中で私たち夫婦の「世帯」としては、支える側から支えられる側になったことを実感させられた年になりました。今までは書類の上だけのことだった「要介護1」の認定が、実際に役に立ってくるステージを経験しました。介護保険とは、このように役に立つのかということを、妻が受けられるようになったサービスを通して教えられました。家族間の問題のように思われてきたことが、社会とつながっているのを実感したのです。介護施設を利用することにより、さまざまな形態の老後があることがわかり、私は一段広い世界に出たような心地を味わいました。
 こうした変化は、今のところ私にとっては好ましいことばかりが続いています。私が育った時代の感覚では、老後の暮らしの安定などは、現役のうちに自分の責任で築いておくべきことでした。国家の責任で支援を受けられるなどとは思っても見ませんでした。私の父も、同じだったと思います。ですから事業をやりながら、少なからぬ年金型の貯金を積んでいました。それが戦後のインフレにより、子供の小遣い程度の金額になってしまって、父が口惜しがっているのを実際に目の当たりにしました。
 それに比べたら、私たちは、はるかに安定した時代に生きていて、それは平和のおかげです。その意味でも、私たちは「戦争のない世界」に感謝すべきでしょう。家族、友人、知人の皆さんすべてへの感謝とともに、今のところ「戦争をしない国」でいてくれるこの日本の国に、最大の感謝を捧げながら、幸せだった2017年を見送ります。
 

突然ですがブログ望年会

 気づいてみれば早くも年末29日の金曜日。恒例の「年末望年会」は、本日をおいて後がなくなりました。只今から夜半まで、今年を締める何でもありの大掃除のような自由発言を受け付けいたします。コメントの設定はフリーにしておきますので、言いたいことをお寄せください。管理人は時々見回りして、頂いたコメントを、順次オモテ記事に上げて行きます。それでは2017年末ブログ望年会のスタートです。

(こばサン)http://blog.goo.ne.jp/n-koba3
年末の仕事を終え珍しく自宅でモバイルパソコンを開いたら望年会のお誘い、長老の発声が無さそうなのが残念ですが、珍しく東京に残留していたので参加できそうです。取り敢えずはご挨拶のみで、最後の仕事を終えて後ほど・・・。
(志村)
フェイスブックやツイッターが全盛の世の中に、ブログのコメント欄を使っての交流は時代遅れなのかもしれません。こばサンの旅行記には、いつも刺激を受けています。行ってみたいと思いながら、なかなか実行できないのが弱いところですが。
 私にとってのこの一年は、「介護」ということが身近になった年でした。それは「要介護」の認定を受けるところから始まります。そして「支える側」から「支えられる側」になることを意味するのですが、当初は夫婦間の問題のように思われました。しかしやがて、家族全体の問題であり、社会につながる問題だということがわかってきました。支えられる現場での経験を積みながら、「上手な支えられ方」ということも考えるようになりました。私にとって、興味深い新しい経験の分野となったところです。
(こばサン)
 介護保険の制度が決まり、介護支援専門員(ケアマネージャー)の必要から資格が設けられました。我々の会でも制度の実態はまだ雲の中でしたが、取り敢えずは「参戦」ということで地区で数人受験して、私も1期として資格を取りました。介護保険が始まり介護ステーションに各業界から参入が始まりましたが、医療業界からは大手の病院が特養型などの施設やリハビリ施設は参入したものの、個人でのケアステーションなどへの参入はすくなかったようです。我々の診療室も申請すれば施設の認可は下りるようでしたが、本業とは両立できそうに無く“資格の持ち腐れ”となってしまいました。
 それでもその資格のおかげで、区の介護審査委員会のメンバーとして6年ほど関わりました。初期利用者は制度も理解できなく、介護認定の申請を出しても、ヘルパーなどの利用は1割にも満たないほどでした。その後介護関係の業者の勧めなどもあり、利用者が急増し保険料の値上げや、利用制限強化などもありました。
 良い点悪い点など種々言われていますが、異業種からの参入もあり施設が増え、利用者にとっては選択範囲が増えて介護制度の恩恵が受けやすくなっています。
 ケアマネの受験時期に最初に学んだ「要介護者を制度の活用によって、介護度を下げ自立支援する制度」との意義が活きているのかはっきりしないと感じています。
(志村) 
「介護度を下げ自立支援する制度」というのは、やや無理があるように感じます。大半の利用者が、心身の衰えに抵抗し、少しでも長く現状維持できるようにと頑張っているのではないでしょうか。ただし単身者の場合は、環境や補助具などの改善で、自立生活が可能になる場合はあるでしょうね。私の場合は、ケアマネさんの助言がたいへん役に立ち、その後も経過を見てもらって、事務手続きなどもお世話になっています。デイサービスには自費参加の方法があり、私は妻に付き添って参加することで、自分のためにも下手な健康ジムなどよりも上質のサービスを受けている実感があります。
(花てぼ)http://blog.livedoor.jp/shography/
今年の私、颯爽と「避暑」に出かける辺りは順調な滑り出しでしたが、しりすぼみになってしまいました。これでは「望年」も何もありませんが、今年はこれ抜きでは語れませんのでお許しください。
ああ、どうしましょう、本当に「望年」は「亡念」です。
まあ、何ですね、当面の楽しみらしきことは、こちらの地区の「老人会の新年会」で何か読ませていただくことでしょうかね。そのころはもう放射線治療がはじまっているのですがね。
(志村)
人生は山あり谷ありで、かなり深い谷に出会ってしまいましたね。私も現代の医療がなかったら、今までに最低でも3回は死んでいました(盲腸炎・大腸がん・肺結核)。それでも、病運にも「天に任せる」しかない部分は残るのでしょう。花てぼさんの、生来の明るさ、向上心が、必ずや病気に打ち勝つと信じています。来年も、お仲間とのすてきな公演を聞かせてください。もちろん書道の道でのご活躍も期待しています。
(みどり)http://blog.goo.ne.jp/okita-midori
やっと家事を終えこちらへ伺いました。ささやかでも例年通り忘年会が開かれましたことを喜んでおります。よくぞ此処まで続きましたね。
花てぼ様ブログへ、「少しでも顔を見せて下さると嬉しいです。」と書き入れてから此方へ参加したのですが、一足先に明るいお声が聞こえてきました。
早くご存知でしたら獣医さんもお越し下さったかしら?尤もあちらは毎日のように雪に脅かされているようで、北国の暮らしの厳しさを思います。
 ところで皆さま、難しいお話中だったようですね。
忘年会では楽しい話、愉快な話を持ち込み、皆さまの笑顔を誘えたらと考えていたのですが、世の中厳しくも辛い話が多過ぎます。つい先日深山霞様、あかね様ご夫妻の大切な従姉様がお亡くなりになり、私も哀しみを深くしております。こんな偶然があるのか不思議な機縁を感じたのですが、其の従姉さまは私より三歳下なのですが、義士祭の日の生まれなのでした。其の上に俄かに逝かれた原因が大動脈解離だったのです。この事を知り体が震えてしまいました。私の場合は大動脈解離した際に10数時間に及ぶ大手術を行い、一時的に冷凍状態になり心肺停止の上で、人口血管置換手術が成功し命救われたのでした。こうして
来年も生きられると信じながら、術後7年7ヶ月も超えることが出来ました。介護保険料は一度も欠かさず払うのみで、今も自立できております。
 こうした瀬戸際で、人の命を左右するものは何なのでしょう。運命によって生かされているのかどうか解かりませんが、見えない大いなるものへ頭を垂れ、家族や友と呼べる人たちのいる身であることに深く感謝しています。
楽しい話ではなく済みませんでした。深山様ご夫妻の辛いお気持ちをもお伝えしたかったのです。
 至らず、失敗の多くなった私ですが、どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。
(志村)
よくおいで下さいました。また、いつもながらのお気づかい有難うございます。
今年は昨年につづいて、親族、知人、友人との死別の多い年でした。みんなが相応の年齢になっているのですから止むをえません。自分が曲りなりにも自立して生きていることに感謝しないといけないのでしょうね。みどりさんの経験も深刻なものだったのに、お会いすると、お元気なので、つい健康のことなど忘れてしまいます。12月14日義士祭がお誕生日の日と、今年でしっかり覚えました。来年も、よろしくお願いいたします。
 本日のわが家、いちばん下の孫、大学3年の男子が、大掃除の力仕事を、かなり本気で手伝ってくれました。気は優しくて力持ちの、気立ての良い男になりました。このところ一番の、わが家の明るい話題です。
(ナツ)http://blog.goo.ne.jp/soukaikei_119
いつもブログを拝見させていただいております。ボツボツ忘年会の時期だと伺いました。
歳を取るということはこういうことかと切実に感じる今日この頃です。
今まで簡単にできたことが、戸惑ったり忘れて思い出せなかったり体の故障が治りが遅いことにやっと最近自分が高齢者であることに気づかされた一年でした。
健康体であることが唯一の取り柄でしたが、やはり歳相応になりました。
四月に脳梗塞(軽症)を病み、口が回らず話ができなくなった時には落ち込みました。左足が不自由になり、兎に角歩けるようになりたいと三日坊主の私が毎朝歩行練習を欠かせませんでした。要支援2ということで連れ合いがお世話になっているケアマネージャーさんにいろいろ勉強させていただきました。
お陰さまで話もできるようになり、歩くこともできますが、現在はギックリ腰でリハビリ中です。次から次へと故障が出てきますがうまく付き合っていくしかありません。
私にとってブログはどんな時でも励まされたり慰められたり沢山の元気を貰える大切な場所です。みなさんに感謝です。良き新年をお迎えくださいませ。
(志村)
ご同様と言っては失礼かもしれませんが、いろいろと故障というのは出て来るものですね。ギックリ腰は私の持病(ビデオカメラが重かった時代の職業病)でした。腰痛体操は指導されていると思いますが、無理のない範囲で「立ち向かう」気持ちを失わず、上手につき合っていくのがいいと思います。久しくお会いしていませんが、どうぞお元気でお過ごしください。
(こばサン)
ぼつぼつ皆様お出ましのようで、老いのお話がありました。クラスメイトの引退や亡くなった話が今年も多々あり己の年を感じた一年でした。旅に明け旅に暮れる時を、少しでも長く過ごせることが今の願いになっています。・・・皆様のおいでを待っているうちにいつもより長く過ごしてしまいました。“エレブンピーエム”を見終わって寝る!遠い昔になりました。「昔話をする我」老いを自覚するのは避けたいので・・・お休みなさい。
(志村)
遅くまで、おつきあいありがとうございました。教えていただいて安曇野を訪ねたことを、今でも鮮明に覚えており、あの写真は、今も私の机の上から見下ろしています。調べてみたら、2007年9月24日、今から10年以上も前のことでした。古き良き日でした。

「鬼退治」にひそむ差別の論理

 今朝の朝日新聞「天声人語」で、鬼退治の物語が題材になっていた。鬼から見たら財産を奪われ親を殺されたことになる。鬼に子供がいたらどう思うだろうと、「相手の立場でも、ものを見る」ことを説いていた。それも大事なことだが、私はむしろ「相手を鬼と決めつけてしまうこと」の方が問題ではないかと思った。桃太郎の鬼退治物語では、鬼は形は異形だが人語も解して、人間のように暮らしているように見える。せいぜい盗賊の仲間であって、駆除すべき害獣とは違うのではなかろうか。
 とすると、鬼だから攻め滅ぼしていい、財産は戦利品として持ち帰っていいという物語は、鬼になぞらえた人間の一部に対する差別意識のように見えてくるのだ。そして私は、アメリカ兵が「鬼畜米英」と呼ばれていた戦時中の雰囲気を思い出す。あのときも敵は人間ではなくて鬼畜だと教えられていた。だから一人でも多くの敵を殺すことが、良いことだと思い込まされていた。
 どこかに書いたかもしれないが、農村出身で実直な警察官だった私の叔父も、「アメリカ兵に捕まったら、日本人はみんな殺されます。缶詰にされて食われてしまいます」と大まじめで言っていた。姉である私の母が「そんなこと出来るかい」と言っても、「奴らならやります。そういう連中ですから」と意見を変えなかった。そういう警察官が、八丈島では人格者として尊敬されていたのだから、島民への影響力は大きかったろう。
 戦争が終り、国民学校6年生だった私たちが進駐してきたアメリカ兵に出会ったとき、それは「ハロー」と呼びかけるとジープからキャンディーを投げてくれる優しい人たちだった。その同じアメリカ兵が、戦時中は「鬼のような連中」と呼ばれ、当時の雰囲気では、「のような」を省略して鬼そのもののように思われていたのだ。人間でない鬼なら、いくら殺しても、どんな殺し方をしても構わない、ということになる。
 これはなにも、軍国主義だった当時の日本国内の専売特許ではなかった。離島の玉砕戦で、最後まで降伏の勧告を無視して、抵抗をやめない日本兵は、アメリカ軍にとっては理解不能の「狂った鬼たち」に見えたことだろう。こんな連中を相手にして戦死者を出すのはつまらない、日本を屈服させるためだったら、多少は乱暴な戦法をとってもいいだろうという心理は働いたに違いない。軍事施設の有無にかかわらず、人口の密集する都市を「面」として焼き尽くす空襲は、こうして立案され実行された。
 戦争が終って虚脱した私たちが発見した真実は、日本人もアメリカ人も、どちらも「ふつうの人間」だったという、ごく当り前の事実だった。ここから導かれるただ一つの、後の世に伝えるべき教訓は、人間を鬼にしてはいけない、あくまでも「同じ人間の仲間」として見なければならないということだ。対立する相手を鬼と呼んでしまったら、次は自分が鬼として追われる立場になる。この心得は、現在強い力を持っている者にこそ必要な心構えなのだ。とかく強いという理由だけでも、人は鬼になりやすいのだから。
 
 

改憲の先を行く「戦える自衛隊」

 先に話題になった「巡航ミサイル」の導入に続いて、自衛隊は「ヘリ搭載型護衛艦」としていた「いずも」を、空母に改修する検討を始めたと報じられた(12月27日朝日新聞)。写真を見ると、いかにもそれらしい姿をしている。排水量1万9500トンという大きさは、帝国海軍の空母「瑞鳳」クラスよりもずっと大きい。瑞鳳でも、零戦と攻撃機を合わせて30機近く積むことが出来たのだ。一人前の空母として機能させることを前提に設計されていたことは明らかだと思われる。
 そして「いずも」には、同型の2番艦として作られた「かが」があり、すでに就役していて、この2隻が海上自衛隊で最大の艦艇だということだ。艦艇は長く使うものだから、将来を見通して応用のきくように設計するという考え方は、わからぬではない。しかし、それにしても手回しが良すぎるという感想はある。憲法の精神から「専守防衛」を旨としていた筈の自衛隊に、攻撃的な空母は似合わないのではないか。「離島や領海の保全のために必要」といった論点から、やがて国会でも議論の焦点の一つになるだろう。
 日本の自衛隊に「周辺諸国と戦っても負けない実力」への渇望があることは、まぎれもない事実だろうと思う。それは「武器をもって国を守る」ことを使命とする「軍人」の論理である。それでも、ここでちょっと待ってほしいのだ。そもそも日本はいつから「必要な時には戦えるふつうの国」になったのか。世界で唯一の「軍備に頼らずに国の存続と繁栄を図る平和国家」になったのではなかったのか。百歩譲っても、多大の負担を忍んでも、外部からの侵略にはアメリカの軍事力に頼るという協定を結んだのではなかったか。
 その日本が、自前の軍事力で自国の防衛をはかる「ふつうの国」になることについて、私たちはまだ一度も自覚的な選択をしたことがない。これはおかしいではないか。このままでは、ずるずると既成事実ばかりが先行して、気がついたら別な国になっていた、ということにもなりかねない。「時の空気に流されてしまう日本人」の悪癖を、また繰り返すのだろうか。
 「武装平和」を選ぶのなら、一旦緩急のあったときは徴兵制に応じる覚悟がなければならない。それがいやだったら、少なくとも今の安倍政権にはストップをかける必要がある。いま何もしなければ、事態はますます悪い方へと動くだろう。

いずも

変らぬものは非戦と平和

昭和逝き 平成終り 変る世に
 変らぬものは 非戦と平和

年賀状に使う「今年の一首」ができました
私は、武力による平和というものを信じません 
かつて「東洋平和」の名のもとに
一千万の東洋人を殺した戦争がありました 

「敵」を殺すことで平和ができると思うのは誤りです 
「敵」を作れば、次から次へと「敵」が増えます
自分が相手にとっての「敵」になって
命を狙われ、心の安らぐときがなくなります

「敵」を敵でなくす方法は、相手を知ることです
そして自分を相手にわからせる努力もすることです
相手が何を考えているか互いにわかれば
次の一手がわかるので、不安がなくなります

互いに武装した上で戦わない「不戦」と
最初から戦う意思を持たない「非戦」とは
似ているけれど中身は違うのです
人類を救うのは、「不戦」よりも「非戦」の思想だと
 私は思っています

今年最後のパライソ中央

 今年の11月から妻がお世話になるようになった、介護保険適用のデイサービス施設「パライソ中央」の、きょうは年内最終日でした。自主参加の形で私も同行することにしたので、週に一度、月曜日の午前中に定期的に出かける共通の場ができました。
 10名に満たない少人数の家庭的な雰囲気が気に入って、ケアマネージャーさんから紹介され何カ所か見学した結論として、ここを選びました。車での送迎つきですから、家を出てから帰るまで、すべてお任せの安心感があります。妻の認識としては保健施設に通っている感覚のようで、郷里の妹との電話では「健康教室に通ってるの」と説明していました。 
 サービスの内容としては、メドマー(血流促進機)、赤外線照射、マッサージなど受身のメンテナンスと、多彩な体操器具による筋肉のほぐし、鍛錬などがバランスよく組み合わされたローテーションが組まれています。それでも、まじめ一方で鍛錬に励むという雰囲気ではなく、顔見知りになった利用者とスタッフがごちゃごちゃになって談笑する中で時間が進んで行くのです。見ていると、身体に障害を持っている人も少なくありません。私よりも年長で、90代と思われる人もいます。それぞれが無理のない範囲で、自分に合ったことをしていればいいのです。数年以上、かなり長期にわたって通っている人もいるようでした。
 朝のお茶の時間から始まり、頭の体操、手指の体操、ゲーム的な動きへと進んでから、個別のコースに入って行くことになります。そこにはスタッフが長年の経験を通して集積して来たであろう各種のノウハウが、伝承され蓄積されているように感じられます。
 所定のコースが終ると昼になり、全員が2台の車に分乗して帰途につきます。私たちは経路の都合で最後まで乗っているのですが、途中で降りる人たちとの別れのあいさつを通して、それぞれの人たちの暮らしが垣間見える場合もあります。自宅前に、連れ合いさんが時間通りに迎えに出ている几帳面な家もあれば、一人でマンションに入って行く人もいます。とにかく通所者を「自宅に送り届ける」までが施設の責任範囲だと、運転上手のベテランさんに教えてもらいました。
 施設の利用が始まってから一カ月余り、ようやく「月曜日はパライソに行く日」というのが定着したようです。来年も、どうぞよろしく。みなさん、よいお年を。

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冬至の日ざし

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 きのうは冬至だった。角部屋の食堂の窓には、例年のことだが南中時刻(11時44分ごろ)に、上部10センチほど日が当る。心細い日光だが、これ以上細くならずに翌日からは少しずつ回復しながら、春分そして夏至へと向かってくれるのだ。
 冬になると、私は冬が嫌いで夏が好きなのだと、しみじみと思う。体質が「冷え性」だからだろうか。小学生のころ、冬の休み時間に遊びもせず、校庭の隅で日なたぼっこしながら、一瞬でもいいから真夏の太陽が照ってくれないものかと夢想したことを思い出す。
 人生には、季節の変動のように浮いたり沈んだりがある。沈んでしまったときには仕様がない、じっと我慢して浮いてくるのを待つしかない。子供のくせに、そんな妙な大人びた考え方をする子供だったと思う。どうしてそうなったのか、本人には説明できないのだが。
 今は自分を、かなり幸せな人間だと思っている。守ってあげると決めた人がいる。それだけでも自分が生きている理由になる。
 きょうから、太陽はまた日ごとに力づよく帰ってくる。そして正月が来る。たぶん今年と同じような、なごやかな正月になるだろう。それから先のことは知らない。それでよい。

電力会社とは何者なのか

(本日は熊公がいないので、ご隠居が一人で語っています。)
 「のら猫 寛兵衛」さんのブログ「そうでんねん送電線」で見かけたんだが、
http://noraneko-kambei.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20 
電力会社の横暴はひどいものらしいな。再生可能エネルギーで起業したい人が、万全の計画を立ててみたものの、送電線に余裕がないという理由で断られ、あきらめたという話が出てくる。電力自由化といっても、作った電気は送電線につながなきゃ送れないからね。その余裕がないというのが、どうも怪しいんだ。競争相手を入れさせないための障壁にしてるらしい。理由を聞かれると、原発のために余裕が必要なんて説明が出てくる。相手によって説明が変わるというんだな。
 電気事業というのは、昔は事実上の国営だったが、今は10電力に分割にして民営化している。といっても各地で独占企業のようなものだよ。その中で東京電力だけは、福島原発事故の補償問題なんかもあるんで、持ち株会社にして政府の資金も入れて支えているんだよ。本来なら破産整理すべきところを形だけ残してるんだ。だから私は東電に金は払いたくないから、東京ガスの「電気・ガスのセット料金」というのを利用して、ささやかな抵抗をしてるんだ。これだと料金も少し安くなるんだよ。
 日本では電力会社が発電も送電も一括して経営しているが、世界的には発電と送電は分離するのが主流なんだ。送電網の維持・整備は、むしろ国営に向いているだろうね。今のままでは、電力の自由化だ、民営化だといっても、電力会社の既得権に切り込むのは、すごく難しい状況になってるんだ。これから期待される小規模の「地産・地消」型の自然エネルギー発電を育てるためにも、送電線は電力会社の私有物ではなくて、公的な社会インフラにして行く必要があるんじゃないのかな。

 

魅力を感じないリニア新幹線

 リニア新幹線の工事受注をめぐって、大手建設業者が談合疑惑で捜索を受けているとのことだ。解説を読むと、リニア新幹線にはすでに3兆円の政府資金の投入が決まっていて、事実上の国家プロジェクトに格上げされているらしい。しかし国民的な期待感という点では、どうなのだろう。今の新幹線が工事中だったころの熱気とは、較べるべくもないように思われる。1960年代、育ち盛りだったわが家の娘たちまでが、「夢の超特急」と唱えながら模型の玩具を大事そうに眺めていたのを思い出す。
 今の新幹線は、東京〜名古屋間を、ほぼ100分で結んでいる。リニア新幹線ができると、それが45分ぐらいで行くようになるらしい。時間が節約になるのはいいことだろうが、その裏で犠牲になるものも少なくないのだ。まず、全線の9割までが地下とトンネルになるので、窓に見える景色というものがなくなる。車両には運転士は乗っておらず、すべて外部からの遠隔操作で運行されることになる。安全対策は講じられるだろうが、「乗り物」に乗っているイメージよりも、ダストシュートで送られるゴミのように運ばれるイメージが先に立つ。ビジネスで移動する人たちには、移動タイムはロスだからゼロに近いほどいいのだろうが、そこには「旅する」という感覚は何も残っていないだろう。同じ急ぐにしても、空の旅とも違う異質の移動手段のように思われるのだ。
 それでも何がなんでも時間を節約したいという、「時間の亡者たち」は先を急ぐ。理想とするところは所要時間ゼロの瞬間移動だろう。便利になった現代に、それほど早く会いたいのなら、手っ取り早くテレビ電話をかければいいと思うのは、高見の見物を決め込んでいる隠居の感覚なのかもしれない。
 ところで、新しいインフラを整備するについては、もちろん経営収支の基礎となる需要の予測も立っているに違いない。人口が減少して行く日本でも、今の新幹線より料金が高くなっても、充分に採算の取れるだけの乗客があると予想しているのだろう。そこには現行の新幹線が、リニア新幹線に乗客を奪われて減収になるのも、当然に計算されている筈である。どっちにしても、いまリニア新幹線のために日夜努力している個々の人たちが責任を追及されることは、将来もないのだろう。
 私は鉄道好きだが、残念ながらリニア新幹線には、話のタネ以上の魅力は感じない。生きている間に機会があったら一度は乗ってみるかもしれないが、たぶん二度は乗らないだろう。私が好きな「乗り物」とは、かなり違ったものとして出来上がる気配が濃厚だからだ。
 
 
 

瀬戸内寂聴さんの「いのち」を読んだ(2)

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 瀬戸内寂聴さんの「いのち」(1)を書いて一夜明けてみると、昨日自分で書いたものが、なにかしっくりしないような気がしてきた。著者の気持に寄り添ったようでいて、添いきれていないような気がしてきたのだ。その原因が、著者があくまでも「女である自分」にこだわっているからだと気がついた。寂聴さんは、つねに「女である自分」の感性だけでものを見ていて、およそ「人間として」という視点を持っていないのではなかろうか。
 人には生まれながらにして男か女かの区別がある。私たちは時として男女の別を超えて「人としてどうなのか」を考えることができる。私などは、ある時期から女性の権利向上の運動にかかわったから、余計に「性別を超えた人としての権利」といったことを考えるようになり、人の性を意識しないことが、人として良いことだという認識を持つようになったらしい。しかし、寂聴さんの感性は、あくまでも「女であること」の現実に即しており、性を超えなければならないなどとは、考えてみたこともないのではないかと思えるようになってきた。
 では、女であることの本質とは何なのか。それは常識的には「子を産む性」だということになる。だが寂聴さんは、この点には深入りをしていない。それでも、本の題名を「いのち」にしたのは、なぜなのだろう。やはり男よりも女の方が、より深く「いのち」にかかわる性だということを、自覚しているのではなかろうか。彼女には、おそらく「男になってみたい」といった願望は、露ほどもないように思われる。
 私はこの本で、出家得度に至る心境や、仏弟子としての自覚や悟りについての講話も聞けるかと思ったが、それらは他の法話集などで読むべきなのだろう。それよりもこの本で読めたのは、あくまでも女らしい女の一代記だった。私は突然、1963年の私のスタジオに、やはり瀬戸内晴美さんを招いておけばよかったと後悔した。この人の女盛りに、ナマで出会って言葉を交わしてみたかったと思ったのだ。
 でも、この本を読めたのは収穫だった。95歳になって、なおこれだけのものを書いて残せたというだけで、並の人ではない。生涯に書いた原稿が200万枚というのにも驚いた。書籍にしたら、2000冊以上も一人で書いたことになる。



ブログ連歌(501)

9999 年の瀬に 万句近づく 連歌なり (建世)
10000  よくぞ続きし 10年の余 (建世)
10001 猛吹雪 札幌の地で一人祝う一万句 (獣医さん)
10002  冬晴れの空 国会一周へ (建世)
10003 寒空に 原発やめろの 意思表示 (建世)
10003B ノーベル平和賞 今年は高く評価する (獣医さん)
10004   (日本の)政府不在が 花を添えたか (建世)
10005 神仏へ 祈るは平和 欲を忌む (みどり)
10006  まず核禁止 Yes, I can.  (建世)
10007 鎌倉の 宮に怨念 歴史あり (みどり)
10008  社寺煤払い 年は暮れゆく (建世)
10009 再稼働基準 そんなものなくてよい (獣医さん)
10010  すべて廃炉へ ハイさようなら (建世)
10011 再稼動 危険大なり 原子炉の
10012  審理正しく 検事明言 (みどり)
10013 年の瀬に 何処に行ったか「国難」は (獣医さん)
10014  北(来た)ぞ北ぞと 掛け声ばかり (建世)
10015 義士祭も 過ぎて歳末 押し詰まり (建世)
10016  餅つき懐かし 生家の行事 (みどり)
10017 少子化に 待機児童が いる不思議
10018  文部厚労 役所が壁とは (建世)
10019 不惜身命 何処まで貫く 貴乃花 (獣医さん)
10020  言わず語らず ドスコイドスコイ (建世)

ついに一万句(五千首)を達成しました。2007年10月27日に始めてから10年余りでの快挙です。ご参加くださった、すべての方々に感謝いたします。ただしこれは一つの通過点と考えて、連歌はノンストップで次へと続けて参ります。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。皆さまのふるってのご参加を、お待ちしています。

瀬戸内寂聴さんの「いのち」を読んだ(1)

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 瀬戸内寂聴さんの最後の小説になるだろうと言われている「いのち」を読んだ。ふつうの書評なら、著者に「さん」はつけないところだが、読み終ったら、自然に「さん」をつけたくなっていた。洗いざらいの告白を聞かせてもらって、親近感が生まれたのだろう。
 瀬戸内晴美と名乗っていたころの瀬戸内さんについては、多少の思い出がある。教育テレビの「われら10代」を担当していて、テーマが何だったかは忘れたが、ゲストに新進の女性作家を呼ぼうということになり、思いついた名前の中に瀬戸内さんの名もあったのだ。しかし班長から「あの人はエロいからなぁ」というクレームが入って、結局は戸川昌子さんに落ち着いた。戸川昌子さんは、推理作家とシャンソン歌手との二刀流だったから、「どっちが本流ですか」みたいな、無難な話をして貰ったような記憶が残っている。
 それだけのことで、瀬戸内さんについても、書いた作品もろくに読んでいないままに人選をしていたのだから、いいかげんな仕事をしていたものだと、今にして思う。1963年(昭和38年)、東京オリンピックの前年のことだった。
 この本を、瀬戸内さんは雑誌「群像」への連載として書いたのだが、92歳のときから始まって95歳でようやく一冊にまとまったということだ。途中でガンの手術を受け、入院したりしている。本の冒頭は、退院日の「帰路」から始まっていた。読んでみた印象は、どう見ても「小説」とは思えない。瀬戸内さんの日々に綴った「日記」を読ませて貰っている感じだった。文壇の多彩な人たちとの交流なども、折々の思い出という形で出てくる。
 なにしろ男女の愛憎の様相を、味わい尽くしてきた人だから、さらりと言ってのける一言にも迫力がある。しかも人名は実名で出てくるから、文壇事情にくわしい人から見たら、研究材料としても一級の資料と思うのではなかろうか。私は「いのち」という題名からも、仏教に帰依した者としての人生観の総まとめ的なものを期待していたのだが、もっと生々しい「懺悔録」に近いものに思われた。
 

「原発との別れ」の始まり

 広島高裁は、住民から求められていた伊方原発の運転差し止め仮処分について、地裁の決定を覆して、運転を禁止する決定を13日に出したということだ。その理由として、阿蘇火山の大規模噴火の可能性を否定できないと判断した。伊方原発は、佐多岬の付け根の位置にあるために、事故があった場合には住民の避難が難しいと指摘されていた。住民の安全のために原発の運転を禁止するという決定は、高裁段階では初めてということで、住民側は「画期的な判決」として評価していると伝えられる。
 阿蘇の大噴火が理由では、他の安全対策などで切り抜けるのは、非常に難しくなるだろう。要するに原発は「絶対に破綻が許されない危険な施設」なので、少しでも自然災害の恐れがある以上は、運転すべきではないと判断されたわけだ。こうなると、そこまでして原発で発電をしなければならない理由は何かという、「そもそも論」に問題は引き戻されてくる。
 いま日本では原発が動いていなくても電力不足は起きていない。自然エネルギーを利用した発電は、ますます効率が高くなりコストも下がっており、省エネの設計が普及して、家庭での電力消費は、次第に下がってくる傾向にある。原子力による発電が、廃炉費用、廃棄物処分費用なども加味したら、「安上がりの電力」などとは、どんな詭弁を弄しても、もう主張できないことは明らかになってきた。原発に価値があるとすれば、核兵器と連動する核技術の維持向上に役立つという側面だけにしか認められないに違いない。
 こうなると、今や「存在しているだけで危険」な代物となった50カ所もの原発を、なるべく早く廃炉にして安全に撤去することだけが、これからの課題になってくる。莫大な費用をかけて作ったから、働かせないともったいない、などという理屈は通用しない。動かそうとするだけで、人力も予算も消耗する「金食い虫」になることは目に見えている。
 この高裁判決が、日本における「原発との別れ」の始まりと位置づけられることを、心から要望し、期待したい。
 

核廃絶に賛成しない日本政府よりも

(熊さん)今年のノーベル平和賞が、アイキャンていう核兵器廃絶の団体に贈られたんだってね。「やればできる」って意味なのかな。
(ご隠居)アイキャンは International Campaign to Abolish Nuclear Weapons の略語だそうだ。「核兵器廃絶の国際キャンペーン」という意味になるな。国際NGO(非政府組織)の一つだよ。この人たちの活躍もあって、今年の夏には国連で核兵器廃絶条約が採択されたんだよ。ただし発効するためには、50ヵ国以上が批准する必要があるんだが、その手続きは進んでいない。そして重大なのは、核の保有国が一つも参加していなくて、日本もじつは参加していないんだ。それはドイツも同じことで、アメリカの核で守られている立場だからと言うんだな。
(熊)そりゃ変だよね。核兵器がいいものかどうかと、核で守られてるって事情は、別に考えたらいいじゃないですか。今は核の傘の下にいるけど、本当は核は使っちゃならないと、日本が言ったって、誰も文句は言えないと思いますよ。被爆者のナマの声を聞いたら、誰だってそう思いますよ。それくらいのこと、何でわからないのかね。
(隠)わしに食ってかかられても困るんだが、政治のタテマエってのは難しいんだな。同じ国の政府が、被爆国としては「核には絶対反対」を唱えながら、アメリカの同盟国になって核戦略に組み込まれているってのは、国の政策として一貫性がないと言われてしまうんだよ。そして、今の政権としたら、アメリカとの同盟の維持は、被爆者の心情なんかよりも、ずっと上位の優先順位の政策になってしまっているわけだよ。
(熊)だからって、アメリカが原爆を落としたのは良かったなんて、口が裂けても言えないでしょうが。わかりましたよ。政府に頼ってるからダメなんだよね。政府に関係なく、世界の大勢の人たちとの共感があれば、ノーベル賞だって取れるんだよね。
(隠)おおそうだ。こういう問題は、もう民間先行で行けばいいんだ。政府に頼るよりも、ずっと早く世界の人たちと連帯して、世の中を変える力になるんだな。

巡航ミサイルが防衛装備品か

 日本の自衛隊というか、日本政府の防衛関係の用語には、戦力の保持を否定している憲法の建前から、独特の「言い換え」が行われている。世界の常識では当然に「武器」と呼ぶべきものを言い表すにも、「防衛装備品」という便利な言葉を開発して使ってきた。これだと被服、燃料、食糧といった関連物資までも包括できるので使い勝手がいい。
 今月9日の新聞に出たニュースによると、来年度の防衛予算では、戦闘機に搭載するタイプの巡航ミサイル導入に関連する経費を計上するとのことだ。この射程は、長いもので900キロにおよぶ。これは「専守防衛」に徹してきた自衛隊の防衛思想から逸脱して、敵基地攻撃能力を持とうとするものではないかと、国会で議論になっているようだ。
 巡航ミサイルというと、イラク戦争で威力を発揮したトマホークを連想してしまう。飛行機のような翼を持ち、低空で地形を読み取りながら、敵の奥地にある目標にまで到達して正確に破壊するということだった。非常に攻撃的な性格の兵器という印象がある。これを使う場合というのは、日本が他国から攻撃を受けた場合に、敵ミサイルの発射基地を探知して、そこへ向けて撃ち込むということなのだろうか。自衛隊は「盾」となって国土を守るのが任務と思ってきたのだが、いつの間に報復として敵国に「槍」を突き出す思想になってきたのだろう。
 こう考えると、これは単なる防衛装備品の選択の問題ではなくて、日本の防衛思想の転換につながる選択のように思われる。これは国会の場で、充分に議論して結論を出すべき問題ではなかろうか。他国からの脅威ばかりを強調して、「戦わない平和国家」を、なしくずしに「戦える、ふつうの国」に改造しょうとする画策には、警戒しなければならない。 

今年最後の国会前と経産省前テント村

 おそらく今年最後になる「国会一周」に行ってきました。ブログ仲間の「花てぼ」さん、「みどり」さん、そして鹿児島に住所を移して川内原発反対に全力をあげている野村昌平さんが来て下さいました。国会の周辺は、いまイチョウの紅葉(ではなかった黄葉)がみごとです。歩道の隅には、落ち葉が積もって、フカフカの黄色い絨毯を踏むような歩き心地のところもありました。
 議事堂の周回歩道を歩くと、例の通り警察官が寄ってきて、野村さんが体の前後につけているゼッケンを見とがめて「これを外して頂けませんか」と「説得」に来ます。「これを外させる法的根拠はありませんよね。警備上の都合だけでしょ。」と言うと、先方もそれは承知の上ですから、「ここはそういうことになっているんです。ご協力頂けませんか。」と、低姿勢ながら譲りません。押し問答をしていると、「みどり」さんが「きょうは、あっちの歩道にしませんか」と妥協案を出しました。警官は「ご協力、ありがとうございます」と敬礼して別れました。警官を、上司との板挟みで苦しめるのが本意ではないのです。ただし「議事堂側の歩道はデモ行為禁止」の規制が、表現の自由の侵害に当るのかどうか、正式な判例は、まだないようです。
 やや遠くなった議事堂の周回は半分で切り上げて、「経産省前テント村」の方へ坂道を下ってみました。ここには、毎日歩道に椅子を並べて、今もがんばっている人たちがいます。ここのテント村は、2011年9月11日から始まりました。これまでに6年3ヵ月の歴史があります。テントは次第に増設されて、第3まで出来たと思いますが、国が提訴した裁判の結果、2016年に最高裁で判決が確定して、8月21日に強制執行によりテントは撤去されました。しかしその日から同じ場所での座り込みが始まり、テント村では通算してテント継続の期間としています。
 また、本日テント村で貰った資料によると、テントの内側をキャンバスとしてアートの場としていた第2テント「反原発美術館」は、全国の集会やイベントに貸し出して活用しているとのことです。
 反原発テント村の活動は、非暴力の大衆抗議運動として、長く歴史に残るものになることでしょう。本当は、原発が全面的に廃止されて運動が勝利のうちに終るのがいいのですが、先のことはまだ見通せません。少なくとも今の政権が続く限りは、抗議の活動も手を緩めるわけには行かないのです。たかが電気を作るために、危険な原子力を使うことの愚かさに、政治家たちは、いつになったら気付いてくれるのでしょうか。

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12月8日を覚えていますか

 12月8日は何の日か? 今朝、長女(55歳)に聞いてみたら、「知ってるよ」と答えてくれた。ただし一般的には、何の日かわからない人が増えているらしい。1941年のこの日に5歳だった人でも、今はもう80歳になっているのだから、無理もないのかもしれない。
 私は国民学校2年生だったから、よく覚えている。朝のうちにラジオ(当時はテレビはない)で臨時ニュースがあって、目が覚めたときは、家の中がすでに異常な興奮状態の中にあった。ラジオは次々に、各地の戦況を伝え始めていた。つけっ放しのラジオからは、高揚したアナウンサーの声と、勇ましい音楽が交互に流れていたような気がする。学校へ行ったら、全員が校庭に集められ、校長から戦争が始まったことが伝えられて、君たちの戦争は、しっかり勉強することだ、といった話があったと思う。
 ところが今の若者・子供世代は、あまりそんことを話題にしない。負けた戦争の始まりだから、愉快な話題ではないのだろう。一方、ハワイ奇襲の緒戦で大損害を受けたアメリカの方が、「真珠湾を忘れるな」のスローガンとともに、この日はよく記憶されているらしい。もっとも、時差の関係で、あちらでは12月7日が「その日」になるのだが。
 ハワイを訪ねたとき、真珠湾に沈んだ戦艦アリゾナの上に築かれた「アリゾナ・メモリアル」に参拝した。奇襲を受けた屈辱は、その後のアメリカにとって、国防上の重大な教訓となって現代にも生かされているに違いない。それに対して日本では、「ハワイ海戦」は、早く忘れてしまいたい記憶になっているのではあるまいか。あの太平洋戦争の全体が、「なかったことにしたい」記憶になっているとしたら、それはそれとして問題であるように思われる。
 周知のように、日本はアメリカと戦って負けたことによって、近代国家として再生し繁栄することができた。その引き換えとして、アメリカとは対等になれない力関係を容認し、従属する立場を受け入れて今に至っている。そのことの是非は今は問わないとしても、日本がかつてアメリカと対立し、戦争を仕掛けて大損害を与えたことのある国だということは、覚えている価値があるように思うのだ。
 なにも戦前回帰を勧めているわけではない。しかし自分のことは自分で決められるというのは、個人にとっても国家にとっても、基本的な権利だということを、忘れないでいてほしい。
 

ブログ連歌(500)

9979 天皇も もとは民意と 言うけれど (みどり)
9980  ただの人には なれぬが定め (建世)
9981 あいまいな 忖度忖度 誰の為 (みどり)
9982  回り回れば 自分のために (建世)
9983 ミサイルより 木造船の方が厄介で (獣医さん)
9984  漁場荒らすわ 物は盗むわ (建世)
9985 木造の 漁船あやつり 荒らす海 (みどり)
9986  昔は倭寇で 今は北公 (建世)
9987 年の瀬に 万句近づく 連歌なり (建世)
9988  年内達成 みんなで祝う (獣医さん)
9988B  長老の投句 無くて久しき (コバさん) 
9989 世は移り 人は変れど 続くもの
9990  たどる足あと 限りある身で (建世) 
9991 心ざす 高く揺るがぬ 到達点 (みどり)
9992  迷夢を払い 雲の間に間に (建世)
9993 漂いて 来し方思う 年の暮れ (コバさん)
9994  連歌(レンガ)を積んで 万句に至る (建世)
9995 区切り良き 我がバースデー 重ね待つ (みどり)
9996  義士は討ち入り 晴れの日なりき (建世)
9997 大統領 火種を撒いて 今日もゆく (獣医さん) 
9998  ロシア疑惑は 濃い霧の中 (みどり)
9999 年の瀬に 万句近づく 連歌なり (建世)
10000  よくぞ続きし 10年の余 (建世)

年の瀬に万句近づく連歌なり

 ブログ連歌が、年内に1万句の大台を超えそうな勢いです。思い出せば今から10年前、2007年の10月27日に、「ブログ連歌へのお誘い」という記事を書いたのでした。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55592771.html
 きっかけは、この年夏の参議院選挙に、社民党から立候補して善戦した杉浦ひとみさんと交わしたコメントからでした。杉浦さんは、この年2月から、「杉浦ひとみの瞳」というブログを立ち上げていました。そのブログを通してブログ上の交流を始めたところ、メーデーの会場で「杉浦ひとみ」の名を大書した社民党の桃太郎旗が立っているのを見つけ、驚いて近くへ行って挨拶したところ、先方も「志村さんて、男の方だったんですか」と、これまたびっくりしていました。
 ちなみに、私のブログ連歌の始りとなったのは、次の10句です。杉浦さんは、別にお仲間同士で連歌づくりを始めておられたので、私はそれに倣って、自分なりに相聞歌めいたやりとりをしてみました。いま読み直したら、すべて杉浦さんが上の句、私が下の句をつけていました。ただし最初は選挙中に作った私の応援の歌ですが、これは番外です。

1 文字翔(かけ)て 心も笑みも 連れてくる(ひとみ)
2  ブログの友は 時空を超えて(建世)
3 人混みに はたと出会えた 赤い糸(ひとみ)
4  選挙の嵐 過ぎて秋の日(建世)
5 山風に 襟を合わせば 夏陽恋し(ひとみ)
6  どこに向かうか この国の末(建世)
7 山道も 先人歩行(かち)て 踏み固め(ひとみ)
8  路傍の花を 見つつ休まず(建世)
9 歩をゆるめ 余命知る友 歩を愛(いと)おしむ(ひとみ)
10  年はとっても 色気忘れず(建世)

 そして、この試みに早々と反応して下さったのが、うたのすけさん、花てぼさん、そして古木涼子シスターさんなどでした。その辺の状況は、この記事のコメント欄を見ていただくとわかります。その後「みどり」さんも参加して下さって、今に至るまでの継続となりました。
 10年あまりにわたって、多くの方々の力をお借りしてここまで来ました。1万句、五千首を達成した後はどうするか、まだ考えていないのですが、ちょっと休憩もいいかと思います。皆さんのご意見もお聞かせください。

追記・私が最初に杉浦ひとみさんに向けて作ったのは、「たまさかに 出会う初日の 選挙カー 手を振る君は 町に分け入る」という和歌一首でした。
 

雪が自然に溶けるように

 定期検査日で、警察病院へ行ってきました。ふだんは忘れていますが、呼吸器科の患者として経過観察中の身の上なのです。朝の9時から出かけたのに、採血、画像撮影から始まり、診察を終え薬を貰って帰るまでに、ちょうど半日を費やしました。
 診断の結果は、全体に落ち着いているとのことでしたが、服薬はこのまま継続して、49日ごとに採血と画像による診察を続けるということでした。薬は毎日、3種6錠を飲み続けることになります。それに加えて1日1本の栄養剤「エンシュア」が処方されています。これは250ミリリットルの缶入りで、49缶は手持ちでは運べません。前回と同様に、家まで台車を取りに帰って運んできました。
 診察室での会話は、思ったより長くなりました。主治医は南こうせつに感じが似ていて、「これで様子を見て下さい」と低姿勢です。何となくカゼが抜けない感じなので、これも肺の病状と関係ありますかと質問したのです。その答えは、関係があるともないとも言えない、ただし全体は悪くなっていないので、「雪がだんだんに溶けるように消えて行くのではないでしょうか」と、思いがけない文学的な表現で説明してくれました。
 雪が自然に溶けるのは春の現象でしょうが、私の状態が春になれば良くなるということではなさそうです。全身状態が悪くないから、そのうち全面的に快方に向かうでしょうと、比喩的に希望を持たせてくれたのだと思います。それにしても、病院でこんな言葉を聞くとは思いませんでした。
 医師にも一人ごとに個性があります。病院では「先生」と呼ばれる存在ですが、一人ごとの個性を消すことはできません。その医師ごとに、自分に合った方法で患者に接しているのだと思います。この先生は、少し前にはカゼで咳をしていたことがありました。帰り際に「先生もどうぞお大事に」と、かなり心を込めて言い残してきました。それ以来、なんとなく親しみを感じられる私の主治医になりました。
 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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