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 今朝の新聞を見て、「まだこんなことをやっているのか」と思った。男と女が同じでないことは誰でも知っている。その「区別」は当然だが、それを理由として「差別」してはいけない。では区別と差別はどう違うのかと問われると、明確に答えられない人が今でも多いようなのだ。今から43年も昔、1975年の遠い過去に置いてきたつもりだった問題が、いまだにくすぶっている。仕方がないから、私も同じことをもう一度掲載しておく。ゼンセン同盟の機関誌「友愛」昭和50年4月号に寄稿したもの。

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「差別」から「区別」へ 男女平等論へのヒント
 国際婦人年ということもあって、男女平等論が目立つこの頃だが、男女の基本的な平等が主張される一方で、たとえば母性保護のように、男女の機能のちがいを社会的に公認させる主張も並行して行われるために、多少なりとも混乱した印象を与える場合があるように思われる。
 男女の間に性の区別があるのは自明のことなのだが、要は性の「区別」を性による「差別」に拡大させないことであろう。とすると、「区別」と「差別」はどう違うかを考えておくことも無駄ではなさそうである。それも、辞書的な解釈ではなく、現実の行動に結びついた認識として心にとめておくことが必要であろう。
<能力を男女で分けるのは不当>
まず第一に「区別」は個別的で「差別」は包括的(ひっくるめて)だということがある。   たとえばある職場で、男性のA君よりも女性のBさんの方が職務能力でやや劣っていたとしよう。「区別」の目から見れば、それはたまたまBさんの素質や、それまでに受けた教育訓練、さらに本人の努力のいずれかに不充分な点があったからそうなったので、当面は待遇の面でもそれなりの区別をするのはやむを得ない。しかしその状態は、本人の努力なり教育訓練によって、いつでも改善の可能性が残されていることになる。 
 ところが「差別」の目でこれを見れば、Bさんは要するに女なのだからA君より劣るのは当り前だということなる。そして、もしBさんがA君以上の働きをすることがあっても、それはあくまでも例外なので、やっぱり女なのだから、というところへ押しもどされてしまう。これではBさんは、男に生まれ変わらない限り、救われないことになってしまうだろう。
<一人ひとりの人格尊重を>
第二に、「区別」は事後的で「差別」は予断的(前もって判断)だということがある。母性機能以外のあらゆる方面の能力で、男女の能力の差が相対的であることは誰でも知っている。もっとも男性的な筋肉労働でさえ、ダメな男よりもすぐれた女の方が有能だし、女性的と思われている家事や育児でも、ダメな女よりも有能な男はいくらでもいるだろう。ということは、特定の仕事について個々の男と女の能力をくらべるとき、実際にやらせてみない限り、どちらが有能かはわからない、ということになる。つまり、「区別」は事後でなければ出来ないのである。
 これに反して「差別」の方は平均値をよりどころとして予断的に発動する。ところがここで忘れてはならないのは、平均値は個々のデータを集めた結果として導かれるもので、平均値が個人を規制することはできないという事実である。われわれのまわりに生きているのは、個々の名前と顔と個性と能力をもった人間であって、「平均的な女」などというものが、一人だって生きているわけではないのだから。
<女性蔑視は男も不幸である>
第三に、「区別」は理性的で、「差別」は感情的である。これまでに見てきたように、「区別」は個々の人間を冷静に見きわめることから成り立っている。ところが「差別」は面倒な思考の過程を踏ますに、断定的な感覚として人の心に住みついている。それが人間性の解放にとってどれほど障害になっているかは言うまでもない。
「女というものは」というような決めつけた言い方は、男にとっても女にとっても、不幸な言葉なのである。