志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2018年12月

2018年を送る

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 午後4時20分、ビルの間に奇跡のように、没しようとする今年の太陽の最後が見られた。私の母も、没する前の最後の冬に、箱根の山荘で、西の山並みに沈む夕日を眺めながら、自分が幼かったころの千葉の農村を思い出して、情感あふれる惜別の言葉を綴っていたことを思い出す。心はすでに西方浄土に向かっていたのだろう。死後に読んだそれらの手記で、私は幾分か母を失った悲しみを癒されるのを感じた。法事に集まった人たちの前で、その一部を朗読して、感銘を共有する時間があったことを覚えている。母は少女時代に、雑誌の懸賞小説に応募して、入選するほどの文学少女だったのだ。
 私にとっての2018年は、かなり「いい年」として終る筈だった。家業の責任からはすっかり離脱した、自由な時間が続いていた。妻とは、一度はいっしょに飛行機に乗ってみようとか、尾道の町を歩いて見たいとか、広島の原爆ドームはいっしょに見てみようとか、話はいろいろあったのだが、彼女は否定はしないが、あまり積極的でもなかった。今のままの平安が、ずっと続いてくれればいいという姿勢だったと思う。そんなこんなで時間が過ぎて行くうちに、「あの日」が来てしまったのだった。
 年寄りの旅行には、「潮時」というものがある。母は積極的な人だから、外国にだって行ってみたいと思っていた。父母がまだ70歳ぐらいで私が30代のとき、「ハワイぐらいは行っておいでよ」と仕掛けたことがあったが、父はとんでもないという態度で、たちどころに雲散霧消してしまった。今にして思えば、父には「アメリカという国を見ておくのも、仕事に生かせるかもしれないよ」とでも言えばよかった。元新聞記者の好奇心と取材本能は、最後まで失わずにいたに違いないのだ。
 そして今、私の前に2019年が来る。そこにはまぎれもなく、妻が私に贈ってくれた「自由な時間」がある。これを善用しなかったら、妻はむしろ落胆するのではないかと思えてきた。妻がいないから勝手なことをするというのではない。「同行二人」で新しい発見をしたら、妻も喜んでくれそうな気がしてきた。
 

ブログ連歌(528)

10539 旅ごころ 誘う大判 時刻表 
10540  これより先の ひとり旅なり (建世)
10541 寂しくも 珠玉の自由 君にあり (みどり)
10542  行き行きてなお 高み目指さん (建世)
10543 亥の年を 待つ日めくりの 厚みかな (みどり)
10544  残る日数え 亡き人惜しむ (建世)
10545 聖夜とて 潤む月夜の 哀しみは (みどり)
10546  地に止どまらず 頭上に高し (建世)
10547 新しき 靴ひも固く 師走ゆく (みどり)
10548  踏みてぞ前に まだ知らぬ道 (建世)
10549 マッハ30のミサイルを 迎撃する幻
10550  抑止力 軍事産業の食い扶持に (獣医さん)
10551 欲しがるは 戦争玩具の 幼児性
10552  抑止言いつつ ゲームのように (建世)
10553 除夜の鐘 ゴ−ンと共に アベ去りぬ
10554  とても待てない 初夢までは (花てぼ)
10555 憎まれっ子 世にはびこって 来年は  
10556  改元令を 布告するまで (建世)
10557 平成の 基地の強化に 怒りあり (みどり) 
10558  うつくしき海 土砂に埋むとは (建世)
10559 なに事も ないかのように 年が明け
10560  亡き人のあと 日々に薄れる (建世)

間違えてはいけない、島は死なない

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 きょうの朝日新聞の第一面だが、島から人がいなくなる話を、「島が死んでゆく」と書いている。島は死なない、人間の収奪から解放されて自然に還るというだけの話ではないのか。地球の上に人間が生まれたのであって、人間が地球を作ったのではない。サブタイトルの「老いる国はどこへ向かうのか」も、余計なお世話である。数知れぬ生物種が、生まれたり滅んだりして今の世界になった。人間の歴史も、せめて数万年ぐらいは続いて欲しいものだが、暦の上で考えると何百世紀もの長さになる。有史以来三千年ぐらいでこの騒ぎになっているのだから、この先が思いやられるというものだ。
 きのうは街頭アピールに参加させていただいて、たぶん生涯に一度の手持ちスピーカーでの呼びかけもしてみた。人前で話すことなら、学校の講堂で千人以上の生徒を相手に話したことも何度かあるが、街頭で人の流れに向かってしゃべるというのは、勝手が違って落ち着かなかった。辺野古の海を土砂で埋めて軍用基地を作るなどは、日本にとって世紀の愚行に決まっている。それを止めるのに、アメリカ大統領に請願する署名活動を進めているのだ。日本の政府はアメリカの言うことは無条件に聞くから、有効な方法なのかもしれないが。
 「安全保障のために基地が必要」などは、目先のことしか考えない下司の知恵である。軍事力では国を守れないことを学んだはずの敗戦から、考えてみれば、もう72年もたってしまったのだ。85歳の私でさえ、小学6年生で迎えた終戦だった。一方的に攻められるばかりの空襲を経験した乏しい記憶しかないが、それも今は遠い昔の「お話」として伝わるだけなのだろう。
 それでもやはり、言わなければならない。私たちは日本という島で生きている。正しい意味で、島を死なせてはならないのだ。島で戦争をしたら、人に逃げ場はない。島に基地を作ってはいけない。

サンタクロースの手紙

 花てぼさんのところにサンタクロースが登場したので、遅ればせながら、私の家にも本当にサンタクロースが来たときの報告をしておきます。それは昭和47年(1972年)のことでした。娘たちのところに届いたプレゼントに、サンタクロースの手紙がついていたのです。 

  サンタクロースの手紙

サンタクロースはことしも来ました
すみよちゃんとマーちゃんが待っていたので
ことしもやっぱり来たのです

あなたたちがおとなになって
赤ちゃんを育てるようになったとき
その赤ちゃんのところへ
きっとまたサンタクロースが来るでしょう

だから サンタクロースは
やっぱりほんとうに いるのです

(孫に確かめたことはありませんが、たぶんサンタさんは来てくれたと思います。)

 

老人党護憲プラス月例会の最終回

 昨夜は、忘年会を兼ねた「老人党護憲プラス月例会」の、最終回でした。中心人物の笹井明子さんからの連絡では、「諸般の都合により」ということでしたが、仲間の女性たち四人で立ち上げてから、10年になるそうです。私は、なだいなだ氏が提唱した「老人党」に興味をもって入党したものの、あまり実質的な活動がない中で、メールを通して「護憲プラス」の活動があるのを知り、4年前から例会に参加するようになったのでした。
 この月例会では、海外を含む秀作ビデオを観賞したり、各界の活動家をゲストとして招いたり、一回ごとに工夫を凝らしたテーマが用意されていました。それらの仕掛けを用意する世話役のご苦労は、かなり重いものがあったと思います。しかし参加者にとっては、一回ごとに違うテーマの話を聞けるというのは、刺激的で楽しみな時間でした。でも、それらが一人の責任になったのでは、相当に重い負担だったろうなと、改めて思いました。
 会の最後に、各人が今後も連絡を取り合って情報交換できるように、名簿を作ってその場で配布しました。また、毎回の会場を提供して下さった編集工房「朔」の三角さんのご好意も忘れることができません。今後も形を変えて、長く交流が続くことを期待したいと思いました。
 

最後の連休の最終日

 今年最後の連休の最終日、孫の運転、長女と次女、そして私という珍しい組み合わせの4人で、草加まで行ってきました。長女と次女は、交代で主婦役を勤める場合が多いので、二人が同じ行動をするというのは、最近は少ないのです。しかし草加というのは、二人が生まれ育ち、小学校の卒業までを過ごした土地です。この二人が揃って行ったことで、互いに古いことを思い出して、意外に盛り上がるのを実感しました。
 日当りのよいテラスハウスという、環境のよい公団住宅でした。そこで私たちは、結婚して2年後の1960年(昭和35年)から1976年(昭和51年)までの16年間、幸せな日々を過ごしたのでした。その始まりは私のNHK在職中であり、その後の退職と家業への復帰、そして紆余曲折を経て、自立自営の基礎を築くまでの期間を含んでいます。いま高層住宅が並ぶようになった風景に昔の面影はありませんが、娘たちにとっては、育ち盛りで経験したさまざまの場面を思い出す手がかりが、いたるところに残っているのでした。

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 車は安心できる駐車場に入れ、昼食をはさんで3時間近くも自由に歩き回るうちに、娘たちにとってこそ、草加が「ふるさと」つまり生まれ育った土地であることを実感させられました。たとえば学校前の文房具屋さんとか、何とない家の表札を見て歩くうちに、「これは○○君の家だ」とか、「この細道の形を覚えてる」とか言い合いながら、姉妹の会話が発展して行くのでした。
 妻、つまり二人の母親がいたら、話はもっと弾んだでしょうが、それは仕方ありません。それでも草加の地で暮らした日々が、私たち家族にとって幸せに過ごした成長期であったことは、まぎれもない事実なのです。いろいろある中で、みんなが覚えていた映画館(もうなくなっていた)での1コマです。当時人気のあった「ピンキーとキラーズ」の映画を見ていた時、画面で恋人同士が「ここでお会いするの何度目かしら」と言ったとき、長女が思わず「三度目だよね」と教えてあげて、場内が笑いに包まれたのでした。

 いつかある日

いつかある日
私が死ぬことになったとき
何十年かの一生を思い出して
結局人生とは何だったのだろうと
自分に問うてみたときに
答える言葉よりも先に
すばやく目の前に現れるもの

それはあたたかい冬の日
縁側で遊ぶ二歳の娘を抱きしめ
「パパかいしゃバイバイ」と
手を振って別れた朝の
写真のよう動かない映像
そしてその中に
自分が写っていることへの
絶望的ななつかしさ

私は「できることならもう一度」とつぶやき
そこで私の一生は終る
かもしれない

(昭和39年(1964年)12月10日作・「愛それによって」より)
(注・当時はNHKで制作現場の仕事をしていましたから、出勤時間の基本は、午前11時でした。ゆったり出かけて、電車も空いているので快適でした。) 

朗読劇と詩が語る非核非戦の集い

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 昨日午後は、武蔵大学で行われた「朗読劇と詩が語る非核非戦の集い」に行ってきました。武蔵学園は私の出身校で、昭和27年に高校を卒業しました。旧制の高等学校尋常科に最後の学年として入学し、卒業のときは新制高校になっていました。正門から見上げる本館の校舎は、昔のままの姿で立っていました。会場は、新しい大学校舎の地下にあり、劇場としても使えるような斬新な大講義室でした。
 集会の前半は、武蔵大の永田浩三ゼミの学生たちによる朗読劇「わたしたち朝鮮人がヒロシマで体験したこと」でした。取材と台本構成の段階から、すべてゼミの学生たちの討論を通して作り上げて行ったとのことです。戦時中の朝鮮人は、日本の領土である朝鮮の出身者として、まぎれもなく日本人である筈なのに、二流市民として差別されていました。「朝鮮」の言葉が、私の小学生時代には、偽物や劣等品の代名詞として使われていたのを覚えています。たとえば「朝鮮将棋」というのは、将棋のルールを簡便化して、早く勝負がつくように改変した変則将棋のことでした。
 その朝鮮人が、原爆投下時の広島にも、2〜3万人ほど、つまり被爆者の1割程度はいたというのです。その人たちは、救助でも後回しにされ、隔離された体育館などに長時間放置されたとのことです。関東大震災のときに、朝鮮人が悪事を働くという流言によって、多くの朝鮮人が迫害され殺された、あの悪夢が、一部で再現されたということは、私は今まで何も知らずに過ごしてきました。こうした歴史の暗部に光を当てる作業は、貴重なものです。その労作を、武蔵大の教授と学生たちが仕上げたという事実に、私は感動していました。それと同時に、私が卒業した武蔵高校と、今の武蔵大学との間にわだかまっていた一種の差別感が、薄らいで行くのを感じました。女性が多かった今回のゼミ学生たちを、可憐な後輩として受け入れる気持ちになった、ということかも知れません。
 さらに第2部の「詩の朗読」では、西口仲間で詩人の青山晴江さんの朗読を聞くことができました。資料として配布された中には、さらに多くの秀作があったのに、朗読としては一部しか聞けなかったのが、少し残念でした。
 帰り際に、もう一度正門の前から校舎を見上げてみました。時計塔を頂く3階の屋上で、幅30センチほどの擁壁の上端を、バランスをとって歩くのが私の特技でした。肝試しのつもりだったのか、あんなことをして見たかった自分の冒険心がどこから出て来たのか、今でも謎のままです。

冬日だけど暖かい

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(熊さん)ご隠居このたびはどうもご愁傷さまで……
(ご隠居)おお忘れとった、長屋には熊公という強い味方がおったのだな。
(熊)そうですよ、取り込み中だからって、身内を忘れちゃいけませんよ。まさかのときこその身内じゃないですか。あっしも、ひさ江奥様には、ずいぶんお世話になってたんですよ。
(隠)そうだったな。私が入院したときなんざ、妻が代理人としてブログの代筆をしたことがあったっけ。そのあともずっと、お前さんは私のブログを見てるから、私のことは何でも知ってるわけだ。
(熊)そうですよ。もっと言えば、ご隠居がブログを始める前からのつきあいですよ。高校3年のときに、受験勉強もしないで毎晩長い日記ばかり書いてたでしょう。そのあと学習院でブライス先生に会って、イギリス人から英語で禅を学ぶという変った経験をして、ずいぶん影響を受けましたよね。だから死に臨んでも乱れない心ってのは、しっかり身につけてたんじゃないですか。だから今度も大丈夫だと、あっしは思ってましたよ。
(隠)そうだな、いいこと言ってくれるじゃないか。自分はブライスさんの弟子だと思ったら、背筋が伸びるような気がするよ。この日のために学んだとも思うよ。考えてみたら、私は妻が死んでからこれまで、一度も泣かなかったと思うよ。これは自慢で言ってるんじゃないんだ。人が死ぬということを、平生から自分の心の中に、きちんと位置付けていたような気がするんだよ。でも、本当は泣くのが正解だったかも知れない。
 ブライスさんに教えてもらった詩の一節に、
I weep the more, bscause I weep in vain. (泣いても無駄なので、余計に泣いてしまう)というのがあった。それは煩悩だが、煩悩こそが人間本来の姿じゃないのかな。亡妻は、どう思っているだろう。泣かない私を見て、「あの人らしいな」と思いながらも、一抹のさびしさを感じているかも知れないね。でもすぐに思い直して、「あの人はあれでいいのよ、クヨクヨされたって嬉しくなんかないから」と言ってくれそうな気がするんだよ。
(熊)するってえと、ひさ江さんは、この先ご隠居の守り神になりますね。
(隠)あっ、そうか! そりゃ強い味方だな。この先「同行二人」で行けばいいんだな。亡妻に恥ずかしくないような生き方をする。これは大きな目標になるよ。明日は冬至だが、きょうの太陽は暖かいぞ。

(追記・後日談になりますが、私が妻のことで大っぴらに泣いたのは、大木晴子さんの手を握ったときでした。なぜか母親に会ったような気がしました。「泣いて下さい」と言われました。) 

10年ぶりの時刻表

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 10年ぶりに大判の時刻表を買ってきた。10年見ない間に、北海道の鉄道がずいぶん減っているのがわかった。10年前の2008年版は、青森県の十三湖へ行くときに買ったのだった。新しい時刻表と見比べていたら、通りかかった次女が「どっか行くの」と聞いてきたので、とりあえずの思いつきで「一人旅はあと2年で終りにするよ」と答えておいた。
 私の一人旅では、未だかつて宿の予約ということを、したことがない。どこで泊まるかさえも決めていないことが多かった。四国の終着駅に夜になって最終列車で着いたら、そこは寒村で、あっという間に駅員もいなくなり、野宿を覚悟したこともあった。よく考えて村落が皆無のわけはないと思い直し、橋で川を渡った対岸で、小さな集落の中に一軒だけの宿があるのを発見した。そこで私は一人だけの客になった。宿を守っていたのは、一人だけのおばあさんだった。そこで一泊した翌朝、朝食を出してくれたおばあさんが、「お客さん、卵は焼くがいいかね、生でいいかね」と聞いてきて、「ああ、生でいいですよ」と答えた、その場面だけを、なぜか今も、とても明瞭に覚えている。たぶん今から30年ぐらい前のことだったと思う。当時は同盟の「コミュニケーション・スクール」の講師をしていて、地方へ出張の機会があると、帰りは自由な一日を作って、回り道をして帰るのを例にしていた。ただし、この四国での経験がそれだったかどうかは定かでない。
 時刻表だけで旅を楽しむ人がいると言われるが、私もそれに近いところがある。ある時、北海道のどこかの線で、上りと下りの列車の本数が違うのを発見した。そんことはあり得ないと思ったのだが、朝のラッシュ時に特定の方向に編成の長い列車を走らせると、そういうことも合理的だと気がついて納得したことがある。
 昔にも旅好きの人はいただろうが、現代の旅では、客は車内に座っていればいいのだから楽である。足腰の弱ってきた年寄りには、じつにありがたい。こんな時代に生まれ合わせたのだから、この機会はぜひ活用させていただきたいと思っている。ただし、リニア新幹線には、絶対に乗らない。あれは人を運ぶのには向かない。ゴミの搬送に適した装置である。

ブログ連歌(527)

10519 強欲者 恥じは無いらし 身は堕ちる (みどり)
10520  退職後にも 収入算段 (建世)
10521 この国は どこへ行くのか 日は短か
10522  晴れ間なき空 寒気はせまる (建世)
10523 今さらに 工程表に 高速炉 
10524  気は確かかと 人の問うまで (建世)
10525 世界中 誰も知らない数え年
10526  元号は 皇室催事だけに留め置け (獣医さん)
10527 朝寝して 冷え込みを知る 日曜日
10528  あと3週の 今年となれり (建世)
10529 父母に兄 別れ久しき 世に残り (みどり) 
10530  また一回の 年を越すらし (建世)
10531 迫りくる 翌年不況 いざ備え (恩義)
10532  暖冬・厳寒 入り混じる暮れ (建世)
10533 空母を空母とは呼べず
10534  専守防衛の大ウソ露呈 (獣医さん)
10535 その人の 寝姿残す 冬ふとん
10536  ひとり目覚めて 朝は寒かり (建世) 
10537 たどりつく 道に花咲く 春は来る (みどり)
10538  登ってみよう まだ知らぬ山 (建世)
10539 旅ごころ 誘う大判 時刻表 
10540  これより先の ひとり旅なり (建世)

これから何をしようか

 妻を失って、一つの不思議な感覚が湧き上がってきた。なんだか、とても自由になった気がするのだ。考えてみれば、心配ごとが何一つなくなった。家の仕事には、もう私の出る幕はない。口を出せば迷惑になるのが落ちだろう。せいぜい倉庫を見回して、目についた小さな見落としを、誰にも言わずに整えておく程度が似合っている。あとは意見を求められたら、そのときに考えて答えればいい。
 自動車の免許は、あと半年でやめると決めた。今の免許証をそのまま持っているつもりでいたのだが、有効なうちに返納すると、何かいいことがあるらしい。運転歴は、満70年に少し足りないところで終ることになる。娘たちも、それで安心するに違いない。外出は、たぶん今よりも自由になる。
 とは言っても海外に行くつもりはない。言葉が自由で、日本の金を使える国内の旅行がいい。列車の旅も、新幹線の通っていない在来線の長距離列車がいい。昔から宿は予約しない主義だったが、今はしかるべき宿を事前に決めた方が、娘たちは安心して送り出してくれそうである。それも、この2年間ぐらいが限度だろう。90歳が近づいたら、遠出はしないのが似合う。
 ここまでは移動の自由の範囲だが、もっと大事なのが精神の自由なのだ。自分の頭を使ってしたいことは何か、できることは何なのか、それを考えなくてはいけない。あちらで妻と再会した時に、「遅くなったけど、○○をしてきたよ」と、喜ばれるような話題を持って行きたいものである。
  

その人の寝姿残す冬ふとん

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 妻がいなくなって四回目の朝になりました。暖かい冬のふとんは、その人の体温を残しているかのようです。居間には骨壺や献花が、そのままに飾ってあります。祭壇は間もなく片づけるとしても、遺骨はしばらく、たぶん春の暖かさが来るころまで、家に置くことになるでしょう。右側に並んでいる小さな遺骨は、私たちの最初の娘、出産まで生きていられなくて、名前もつけてあげられなかった「ちびちゃん」です。「お葬式のときに、いっしょにしてあげる」という約束は、守らなければなりません。
 地元のお寺に買ってあった小さな墓地は、すでに無償でお寺に返納してあります。一代限りで後に続かないであろう「志村」の墓を、私が建てるつもりはなくなりました。遺骨は「遺灰」に加工して、散骨も可能な状態にしておく予定です。散骨をいつ、どこにするかは、腹案はありますが、今は言わないことにしましょう。
 「色即是空」とは、まことに名言でありました。万物を構成する素粒子は、生物と無生物の区別さえも超えて、万物に変幻自在の「色」を与えながら、それらを瞬時にして「空」にもどすことも出来るのでした。遺体を焼いて骨にしたり、壺に入れて飾ったりは、煩悩だらけの大人のままごとの最たるものです。それでも、それはそれとして大いに楽しんでいいのです。今でも背後で戸の音がするたびに、妻の声と顔を期待している自分に気づきます。今だけできる煩悩ゲームをしているようなものです。
 女性はどう感じるのか知りませんが、妻の乳房や腰や腹部は、80歳を過ぎてもずっと私には魅力的でありつづけました。赤ん坊時代に母親を求めた記憶が残っているのではないかと思いました。手を伸ばせばそこにあるというのが、何よりの安心感でした。妻が触れられるのをいやがる様子はありませんでした。妻が夜中に夢を見たらしく、激しく私に抱きついてきた記憶の最後は、70代の後半だったと思います。
 妻の棺が家にあった最後の日、私は蓋を開けて妻の唇にキスをしました。冷たさを温めてあげたいと思いました。私たちが最初のキスをしたとき、妻はかすかに私の「匂い」を感じたそうです。ですから新婚後しばらくの間は、「寝る前に歯みがきしちゃだめ」と言われました。「あの匂いが消えちゃうからつまらない」と言うのでした。後に懇意になった歯科医にその話をしたら、「いい話だね」と言ってくれました。過度に口臭を気にする人が、けっこう多いそうですね。人間にだって、個別の匂いがあるのです。
 こんなことを言っていても、妻はもう生き返りません。話の続きは来世でしましょう。とは言うものの、来世なんて、本当はありっこないのです。なにしろ万事は「空」なのですから。

(注・過去記事に「「口臭外来」を受診して というエントリーがあります、ご参考までに。)

 

般若心経現代語訳〜2018改訂版

 落合火葬場にて、志村ひさ江を、本日荼毘(だび)に付しました。その炉前で、私は般若心経の現代語訳を朗読したのですが、その前に、長女の意見を参考にして、語りかける口調に改定しました。同じことを伝えるにしても、こちらの方が説教臭がなく、素直に聞けるようになったと思います。その改訂版を、ここにご披露してみます。

 仏陀が最上智(般若波羅密多)に達する修行を積まれたとき、この世にあるものは、あらゆる物質も、あらゆる生きものも、あらゆる精神の働きも、すべて空(くう)に帰することを見通されました。これにより仏陀は、一切の苦しみを超越する境地を得られたのです。
 仏法に志すものよ、すべて形あるものは空に帰し、すべて形あるものは空から生じるのです。(これは時間の経過によってそうなるのではありません。)すべて形あるものは直ちに空であり、空は直ちに形あるものなのです。人のさまざまな精神の働きも同じことです。仏法はこの空を根本の原理に据えるゆえに、生じることも滅ぶことも、汚れることも清くなることも、増すことも減ることもありません。空には形も意識もなく、色も香りも味も触覚もなく、法則さえもないのです。目に見えず、意識の対象とならず、無明の闇でもなく無明の闇の明けることでもない。空は老いたり死んだりすることなく、老いたり死んだりがなくなることでもないのです。苦を逃れるために知恵を尽くすことでもなく、また何かを得ることでもないのです。何も得るものがなく、ただただ仏陀の最上智に帰依するのですから心に煩悩が生じることがありません。煩悩がなければ恐怖はなく、一切の世俗の夢から離れて究極の涅槃に入ることができるのです。過去現在未来のもろもろの仏は、この最上智によって涅槃の境地を得られました。
 ですから仏法の最上智(般若波羅密多)こそは無上の光明であり、よく一切の苦厄を除き、真実に導くものなのです。般若波羅密多にすがる経文は次の通りです。掲帝(ぎゃてい)掲帝(ぎゃてい)波羅掲帝(はらぎゃてい)波羅僧掲帝(はらそうぎゃてい)菩提莎訶(ぼじそわか)。
 「いざ行かん、いざ行かん、悟りの国へ。うれしや。」般若心経。
               (2001年11月 志村建世訳〜2018年改定)
(原文)
 仏説間摩訶般若波羅密多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅密多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)度一切苦厄(どいっさいくやく)。舎利子(しゃりし)色不異空(しきふいくう)空不異色(くうふいしき)色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)舎利子(しゃりし)是諸法空相(ぜしょほうくうそう)不生不滅(ふしょうふめつ)不垢不浄(ふくふじょう)不増不減(ふぞうふげん)是故空中(ぜこくうちゅう)無色(むしき)無受想行識(むじゅそうぎょうしき)無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい)無色声香味触法(むしきしょうこうみしょくほう)無限界(むげんかい)乃至無意識界(ないしむいしきかい)無無明(むむみょう)亦無無明尽(やくむむみょうじん)乃至無老死(ないしむろうし)亦無老死尽(やくむろうしじん)無苦集滅道(むくじゅうめつどう)無智亦無得(むちやくむとく)。以無所得故(いむしょとくこ)菩提薩?(ぼだいさった)依般若波羅密多故(えはんにゃはらみったこ)心無?礙(しんむけいげ)無?礙故(むけいぎこ)無有恐怖(むうくふ)遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)究竟涅槃(くきょうねはん)三世諸仏(さんぜしょぶつ)依般若波羅密多故(えはんにゃはらみたこ)得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)。故智般若波羅密多(こちはんにゃはらみった)是大神咒(ぜだいじんしゅ)是大明咒(ぜだいみょうしゅ)是無上咒(ぜむじょうしゅ)是無等等咒(ぜむとうどうしゅ)能除一切苦(のうじょいっさいく)真実(しんじつ)不虚故(ふきょこ)。説般若波羅密多咒(せつはんにゃはらみったしゅ)即説咒曰(そくせつしゅわつ)。掲帝(ぎゃてい)掲帝(ぎゃてい)波羅掲帝(はらぎゃてい)波羅僧掲帝(はらそうぎゃてい)菩提莎訶(ぼじそわか)。

(注・インド生まれの釈迦は、漢字を知りませんでした。仏教が中国を経由して伝来したために、日本では経文は漢字で書かれていますが、その一部はパーリー語(インドの古語)の音写です。たとえば般若波羅密多は、最高のパーラミータ(知恵)という意味です。)

人がいなくなるということ

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 人がひとり居なくなると、一人分の「不在」が生じます。朝起きて「おはよう」と声をかけても、返事をする人がいません。どこへ行ったのかは、よく知っていますから、すぐに1階のその場所に行って声をかけます。「ごはんだよ」「○○さんが来たよ」なども同様です。棺の中にちゃんといるのですが、返事はしません。死んでしまった人は、それでいいのです。
 ふつうの人よりも先に「終活」を考えているように思っていたのは、大人の「ままごと」を空想していたようなものでした。どちらかが先に死んだら、通夜のときに「神田川」の曲と「カルピス」の詩の朗読を流すなどというのも、そんなことをしたら嫌味になるように思えて、実行する気には、とてもなりませんでした。MDに入れて用意しておいたのを一通りは探してみましたが、すぐには見つからないのをこれ幸いとして、早々と使用を断念しました。その種の「演出」は、複数の他人を招いた「葬儀」ならば非常に効果的に違いありません。でも、自分が当事者の「死別」だったら全然違うのです。
 妻の「生前」と「死後」とを決定的に分けているのは、「不在」です。それは何物をもってしても埋めることのできないものです。音楽や朗読の声が流れるなどは、その場を乱す以外の何物でもなかったでしょう。老父を心配して、出来るかぎりの知恵を尽して雑事を引き受け、進行してくれた娘たちの働きは、わが娘ながら、じつに見事なものでした。妻も見とれて喜んでいたに違いありません。
 そして夕方にかけて、妻は何組かの弔問を受けました。ご縁があって10年前に私たちの金婚式を、復活祭の祝宴として祝って下さったカリタス修道女会の櫻本シスターさんも、今は保育園の園長さんとして、副園長のシスターとともにお見えになりました。故人が引き合わせてくれた、旧知の人との再会でした。
 それでもどうしても残るのは、妻の「不在」でした。私は何か事があるたびに妻に声をかけたくなり、次の瞬間に、きょうはその妻の不在こそがメインテーマだということを思い出させられたのでした。
 毎日、大勢の人が生を終えて「鬼籍」入って行きます。だからこそ赤ん坊は安心して生れてくることができます。こうして私の妻は、とどこおりなく「死んだ人」になることができました。これで良い、めでたしの終りでした。

妻が死にました

 きょうの朝6時ごろ、妻が死にました。浴槽での急死でした。朝のまだ暗い時間に、「お風呂に入ってくる」と言い出し、「気をつけてね」と送り出したのが最後の会話になりました。それからどれくらいの時間がたったのか、ふと気がつくと、まだ帰っていません。浴室へ様子を見に行き、軽くノックしても返事がないのでドアを開けると、浴槽の中に、左肩を下にして沈んでいる妻の姿がありました。頭部がすっかり水中に没しているのを見て、「もう死んでいる」ことを理解しました。
 浴槽から引き出し、洗い場のタイルの上に横たえたところで、同じフロアにいる孫に声をかけ、3階の長女に知らせるよう頼みました。それから119番に通報したのですが、非常に落ち着いて話せたことを覚えています。「水没しているので救急の事案ではないと思いますが、とりあえずお知らせしました。」という言い方をしたと思います。やがてサイレンを鳴らさない救急車が到着し、隊員は胸を押して人工呼吸を開始してくれました。体は湯に漬かっていたためか温かく、いつの間にか長女がパンツを穿かせてくれていました。
 妻は救急隊員の手で、すぐ近くの警察病院に運ばれ、そこの救急室で手当ての継続と、警察医による検視を受けました。その所見は「心不全による急死」でした。溺れて水を飲んだ形跡はありませんでした。詳しい死因を知りたい場合は、病理解剖に回る方法もあると知らされましたが、私も長女も辞退しました。
 死亡が確認されると、葬儀社が紹介されます。こういう場合の葬儀社の担当者の対応が非常に頼りになることは、父母を見送ったときの経験からも知っていました。今回も、その通りになりました。遺体は清められ、午後3時前には納棺されて、わがビル1階の作業室の一角を仕切った中に安置されました。そこで、15日土曜日の午後1時半に予定されている出棺まで、火葬を待つことになります。ただし普通のワゴン車とし、行事らしいことは何も行う予定はありません。
 この最近の1年ほど、私と妻は非常に仲良くなっていたと思います。少し認知症になった妻は、私を頼って可愛くなりました。「60年もいっしょにいられて良かったね」「そうだね、ありがとう」というのが、枕を並べてからの会話でした。妻が心から恐れていたのは、自分が正常な認識を失って周囲に迷惑をかけることでした。でも彼女は最後まで上手に立ち回って、自分の始末をつけてしまいました。彼女のカンの良さは、私の仕事の上でも、何度も役に立ってくれました。今度も「してやったり」と、笑顔でいるような気がします。今年の5月に、みんなで静岡まで行ってきたのは、本当の「大当り」でした。
 

カーナビで道に迷った話

 日曜日に姉の家に行くつもりで車で出かけたのだが、珍しく道に迷って1時間近く遠回りしてしまった。その原因が、車載のカーナビを使ったためだったのだから、我ながら情けないほどの失敗だった。姉の家は、昔から何度も行っているから迷うはずがないと思っていた。ところが今の新車にはカーナビがついている。せっかくついているのだから、姉の家も入力しておこうと、途中で思いついたのがいけなかった。
 運転中の信号停車を利用して入力しようとしたが、個人の家だから所番地までは覚えていない。近くにある学校の名で代用しようとしたのだが、その校名がいいかげんだったらしい。その結果として、いつもの街道から右折する信号を見落としてしまった。いくら行っても見慣れない景色が出てくるので不安になると、カーナビは、ありえないような変な方向を指示するようになった。そして、いつの間にか埼玉県に入ってしまったので驚いた。そこで、よく知っている最寄りの電車の駅名を入力して、確実にそこまで行くことに作戦を変えたら、これが当りだった。やがて知っている風景が出てきて、その先は難なく目的地に到着することができた。
 便利な装置がついていても、入力を片手間でやったのでは、とんでもない間違いをすることになる。ちょっと停車して確実な情報を入れるべきだった。車を運転して方向感覚を失うと、ときにはひどい失敗をする。私は青年期に、箱根へ行くつもりで渋滞に会い、うまい迂回路に入ったつもりで走っていたら、いつの間にか都心へ向かって正反対に走っているのに気がついて呆れたことがあった。まだ「道路地図」以外には頼るもののない時代ではあったのだが。
 

安倍問責を説明する蓮舫と、聞き流す首相

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 今朝の朝日新聞に出ていた昨夜、2018年12月7日の参議院本会議の風景である。野党の抵抗で深夜に及んだらしい。争点は外国人の受け入れ拡大をめざす出入国管理法の改定案だった。同じ紙面には、「使い捨て労働力、広がる懸念」という見出しが立っている。この法案が可決されて、来年の4月1日から施行される見通しだということだ。国会の会期は、土日明けの10日で終了となる。
 周知のように安倍1強の議席配分だから、採決すれば政府案が通ることはわかっている。政府から見れば、議会とは、少し我慢して野党の言うことも聞いたふりをしなければならない儀式の場ということになるのだろう。このようにして来年も、少なくとも参議院選挙のある夏までの半年間は、安倍政治が進んで行く。
 来年の10月には、消費税の増税が予告されている。安倍政権は予告通りに増税を実行できるかどうか、参議院選挙の成り行きが、何らかの影響を与えるかもしれない。そしてまた、その前には天皇の代替わりという、未曽有のイベントも控えている。この一連の行事は、よほどの番狂わせがない限りは、安倍首相が取り仕切ることになりそうである。言いたいことはあるが、成り行きに任せるしかない。
 話題は変るが、12月8日は日米開戦の日だった。ただし、あれから77年たったという、時の長さに驚かされる。あの朝、日本は異常な興奮に包み込まれていた。やがて聞かされた大勝利のニュースに沸き立っていた雰囲気は、昨日のことのようによく覚えている。私は国民学校2年生だったのだ。緒戦は勝っても、必ず負けるという当然の結果を、予想する人など一人もいなかった。国をあげて狂気に陥ることが、本当にあるのだ。これから先にも、同じようなことがあるのだろうか。古いことを知っている人間は、やがていなくなる。それから先のことを、私が知る方法はない。

高輪ゲートウェイ駅

 山手線に新しく出来る駅の名前が「高輪ゲートウェイ」になるそうで、最初は冗談かと思ったら、本当なのだそうだ。「多摩センター」など、カタカナを含む駅名がないことはないが、単に「高輪」で用が済むところに、なんで普及もしていないカタカナ言葉を使うのか、わけがわからない。前例がないからやってみたという思いつきだとしたら、ずいぶん軽薄だと思う。ネット上では、中国語表記では「高輪入口」になりそうだと言うが、そのまま日本人向けにも使った方がずっといい。
 古来、日本語は外国語からの借用で発達してきた。漢字も元は外国語だったのだが、日本に文字がなかったので、輸入し改造して、「かな文字」なども作り出して今の日本語になった。今はアメリカが大事な外国だから、次はアメリカ化するのがトレンドだとでも言うのだろうか。
 地元の駅の名前というのは、幼いころから親しんでいるから、独特の懐かしい記憶と結びついている。あまり簡単に変えたりして貰いたくない気持ちがあるが、どうだろうか。言わば、そこの「地名」に準じるものではないだろうか。鉄道会社の都合で、勝手にしていいものかどうか、もっと謙虚にして貰いたい気がする。
 

まだ破綻を認めぬのか〜高速増殖炉

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 写真の上段は、本日つまり2018年12月5日の朝日新聞の社説である。そして下段には、これに関連する昨日の同紙の記事を添えておいた。これらを合わせて読むとわかるのだが、要するに「高速炉計画はあきらめません、事業は継続します」ということだけを言っているのだ。これでまた多くの人間に職場が保障され、使った燃料よりも大きいエネルギー源が得られるという、「原子力村の夢」を追い続けることに、「お墨つき」が与えられることになる。しかしその「夢」は、本家のフランスでさえ行き詰って放棄されようとしている。そして、その前段階に当る原発の稼働も、一進一退を繰り返して、放射性廃棄物の処理の難しさなどを克服できない段階にあるのだ。
 その一方で、太陽光、風力など、再生可能エネルギーによる発電は、日進月歩で拡大してきた。原子力で電力を作らなければならない理由は、すでに消えたと言っていいだろう。それでもなお原子力にこだわるとすれば、それは核兵器につながる核技術の温存という側面しか考えられなくなる。もしかして政府には、世界の一等国として、核技術は手放したくないという思惑があるのだろうか。
 でもそれは、時代に逆行していると私は思う。国防のためであっても、核兵器を持つことは日本の未来のために有益だろうか。恐怖の均衡で平和が守られるというのは、前世紀の神話だった。民生のためでも、国防のためでも、どこから見ても高速増殖炉は日本には要らないというのが結論である。
 

久しぶりの熊さん談義〜元号編

(熊さん)しばらくご無沙汰のうちに、12月になっちまいましたね。
(ご隠居)ああ、そうだね。年を取ると時間の流れが早くなると言われるが、その通りだね。つい先ごろ秋になった気がしてたら、もう12月で最後の月だよ。クリスマスの飾りを見かけるようになると、「今年ももうおしまいだな」と思うわけさ。あれを見て楽しいなと思うのは、おもに子供じゃないのかな。テレビ局の現場にいた頃、VTRの早撮りでクリスマスツリーを出したら、タレントさんが、「いやなもの見ちゃったな、これが出てきたら、今年ももうお終いだ」と嘆いたことがあったっけ。年末が近づくと、正月番組の撮りだめも始まるんだよ。アナウンサーだって、「今年」と「去年」の言い間違えをしないように神経を使うわけさ。
(熊)テレビ局の「歳時記」みたいなもんだね。ところでさ、「平成」の年号は、31年までで終って、年の途中から年号が変るんだってね。天皇の生前退位なんて前例のないことがあるから、カレンダーも気を使って注釈をつけたりしてる。
(隠)私は昭和が終ったあとの年号は使ってないから関係ないんだ。役所の書類で強制されない限りは一度だって使ったことないよ。日本だけで通用する年号なんて、ナンセンスだと思ってる。不合理、不便なだけで、何もいいことありゃしないよ。だから新しい年号が何になろうと、まるで興味はないね。今年は2018年で来年は2019年になる。それだけで結構だよ。
(熊)でもさ、明治、大正、昭和の年号を西暦に換算するのは、ご隠居のお得意じゃないですか。
(隠)うん、「明治は空し」で67、「大正はいい時代」で11、「昭和の空は濁ってた」で25、「平成は葉っぱ」で88を足すと、西暦になるんだよ。次の年号が何かは知らないが、19「……いく」を足せばいいってだけの話だ。でもね、そんな面倒よりも、日本年号は、皇室関係だけで使うようにしたらいいんだ。公文書でも、西暦の併記を基本にするって話が出てたと思うけど、いずれはそうなって、やがては西暦に統一されて行けばいいんだよ。 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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