志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2019年06月

何ができるか、何をしたいかを考える

s-IMG_2160

 人が、生きているうちにしておくべきこととは、何なのだろう。年寄りに求められる一般的な期待は、まず、他人に迷惑をかけず、自立して生活していられることだと思う。その意味でなら、いまのところ誰にも負担をかけずに自立して暮らしているとは言えそうな気がする。ただしそこには伝統的な男の甘えがあって、日々の食事のことは、娘たちから曜日による交代制のサービスを受けることになっている。きょうはたまたま木曜日だから長女の担当日で、夕方の5時ごろから、台所仕事の一部を手伝うことに約束ができている。
 写真は先週のものだが、大根と人参の、皮むきから刻みまでを担当した。この程度の包丁の使い方は、不安なくできる程度にまで習熟した。ただし妻の生前には、私はこんな手伝いもすることはなかった。妻も晩年には、ほぼ「世話をされる人」になっていたから、私たちは夫婦が丸抱えで、娘たちから食事のサービスをしてもらっていたのだと思う。それが、妻が亡くなってから半年、長女の提案で私の台所への参加が始まった。彼女の意図が、私のための「ボケ防止」であることは間違いないと思っている。
 今夜はどんな仕事があるのか、行ってみなければわからない。「オレは、やりたい大事な仕事があるから、きょうはかんべんしてくれ」と言えば、「それならいいんだよ」と言ってくれるのはわかっている。しかし、今夜はそんな立派な「お仕事」はない。だから、これから手伝いに行ってくる。
 
 

知らしむべからず

s-IMG_2161

 今朝の新聞見出しで、「寄らしむ(原文は由らしむべしだが、意味はほぼ同じ)べし、知らしむべからず」という孔子の言葉を思い出した。これは吉川幸次郎氏の解説によれば、「べし」は可能の意味合いで、庶民に政治を理解させるのは難しいと言っているので、知らせない方がいいという愚民政策ではないということだ。ただし今回の麻生発言から始まった一連の動きを見ていると、やはり「国民には難しいことを考えさせるな」という、「余計なことは知らせない」主義を確認したプロセスだったように思われる。
 国民の支え合いである年金制度が、人口縮小に向かう日本の将来には、給付水準の低下を招くだろうことは、ふつうに考えたら誰にでもわかる。それなら今のうちに出来ることは何かと言えば、削減できる給付を洗い出して、少しでも多くの資産を将来のために残すことだろう。そこで自分の場合で考えると、そもそも年金が「保険」であることに違和感がある。保険なら、自己責任で民間に任せれば済む話だ。政府が管理する国民の福祉制度は、もっと生活保護に近いのが本来ではないだろうか。
 政府が管掌する年金制度が出来たとき、私は社員とともに、法人の役員として保険に加入した。それ以来ずっと保険料を納めてきたから、今は受給者になっている。それが当然の権利であることはわかるが、本音を言えば、老後の生活のために政府から給付金を頂戴するとは、想定外だったのだ。父親の代から、事業をやる以上は、生涯の生活を維持するのは自分の責任だと思っていた。
 それなら寄付をすればいいと言われると、それで終ってしまうが、国の制度としてはどうなのか。社会保障制度はどうあるべきか、「知らせないでおく」どころか、常に自由な討論と、制度の改善が求められているのだと思う。
(追記)
 自分の言いたかったことを再確認すると、「保険なら民間に任せておけばよい。政府は国民生活の保護を万全にせよ。」ということになる。公的社会保険料は、もっと税金に近い性格するか、あるいは税金と一元化してもよいような気がする。

後期高齢者健診の結果を聞いてきた

 中野区が実施している区民健診で、後期高齢者のための「長寿健診」というのを受けたので、昨日はその結果を聞きに行ってきた。中野ブロードウエイの4階には、古くから医療フロアがあって、地元商店街や近隣住民への医療サービスを提供して来た。
そこの内科には、先代のときから、ずっとお世話になってきている。
 健診の結果には、とくに新しい問題はなかったが、私の体には、独特の「くせ」のようなものがあるらしい。その一つが、尿に血液の成分が混じることで、これが若いときからずっと続いている。そのせいかどうか、自覚的には貧血の傾向があって、急に立ち上がったりすると、いわゆる「立ちくらみ」を感じることがある。以前にくわしく調べてもらったら、立ったときの血圧の低下が、ふつうの人よりも強いということだった。
 こういう体質的な傾向をどうするかだが、だからといって造血剤を飲むのはどうかということだった。それよりも食べるものを工夫するなどで対処したらいい、ただし塩分は控えめにするように、とのことだった。医師としたら、薬を処方すれば点数が出るだろうに、安易に薬を出さないところが信用できると思っている。
 それにしても、私の食欲不振は、かなりの重症である。これには抗結核薬を継続的に処方されている警察病院の長期治療が関係している。今は「お薬手帖」で、他の医療機関の処方も一覧できるから便利である。食欲不振には「エンシュア」が出ているので、「それでいいでしょう」ということになった。
 86歳まで来て、基礎的な体力不足は止むをえない。複数の医師から見守られているのだから、これで充分である。あと何年生きるかは、成り行き任せでよかろう。
 

自動車運転70年で免許返納

s-IMG_2155

 昨日、運転免許の更新に一日を残して、免許返納の手続きをした。私の運転免許は昭和24年の12月24日に、高校1年の16歳で取得した。当時は小型四輪という区分があって、16歳から取れることになっていた。当時も運転免許の教習所というものはあったが、今よりもずっとゆるくて、最初に一通りの手ほどきをしてくれると、あとは基本的に場内での「自習」だった。それでも技量証明書発行の基準はあったのだが、その回数分の金を払えば、繰り上げ卒業も可能ということだった。
 私の場合は、とにかく急いで免許を取る必要があった。家業の出版(野ばら社)で、書籍の配本に必要だったからだ、中古のダットサンのバン型を買うことが、すでに決まっていた。そして、クリスマスイブの日に、免許の取得とほとんど同時に、私は社内で唯一の自動車担当者になった。当時の日記に「わが人生最良の日」と書いた記憶がある。当時は、自動車はまだ非常に少なかったから、まさに陸の王者だった。銀座の表通りであろうと、駐停車はどこでも自由だった。
 ただし与えられた車は1937年製だから、少なくとも12年以上の古いもので、エンジンのスタートは、セルモーターはほとんど役に立たず、前からクランク棒を突っ込んで始動するものだと思っていた。今から思えば、現役の高校生を運転手にした社長(父親)も乱暴だと思うが、その状態は、時代が少し落ち着いて、古くからの社員が復員してきて運転免許を取るまで、一年以上も続いたのだった。
 それでも、当時は自動車の機動力というものは貴重品だった。高校の親友が長期療養をしていて退院するとき、清瀬まで行って本人と荷物を積んで、小石川の自宅に送り届けたこともあった。母親が非常に感謝してくれて、帰りに「みかん」を一箱持たせてくれたことを覚えている。
 それ以来の自動車運転だが、私がこの20年ほどにわたって実践してきた「安全運転法」を伝授しておきたい。それは「左右の足の使い分け」であって、要するに「右足で走り・左足で止まる」のだ。今のオートマ車のペダル配置で「踏み違え」を根絶する
には、それしかない。踏み違えは、危急の際の反射神経によって起こる。理性で制御できないので始末が悪い。私もその恐怖を一度経験して、対策として今の運転法にした。慣れるまでに半年もかからなかったと思う。それ以後の安心感は大きかった。そして心強いのは、最近数回の免許更新時の実技でも、この方式の実践者が、確実に増えてきていることだった。
 人間には二本の足がある。「走る」と「止まる」の正反対の仕事を、同じ足にさせてはいけない。

 
 

今年の梅は12キロ

IMG_2142

IMG_2145

s-IMG_2146

 久しぶりに好天に恵まれた朝のうち、大学4年生の孫にも参加してもらって、梅の実の収穫をした。日当りのよいところでは、ほんのりと色づいて、いい感じにふくらんでいた。二階の窓からと、ベランダからも、手の届く範囲にも生っている。軽くねじるようにすると、素直に枝から離れるのだ。梯子をかけたり、塀の上や枝に登れば、もっと取れるのはわかっているが、きょうは学校へ行く時間もあって10時半までで打ち切りとした。あとは貸駐車場にしているスペースが空いているときに取れる部分もあって、ざっと3割ぐらいは残っているようだ。この写真の一箱で、重量は12キロになった。
 例年この梅は、婿殿の母上のいる帯広に送ると、やがて「梅ジュース」となって帰ってくるのだ。夏は水割り、冬はお湯割りで、風呂上がりの至福の一杯となって一年中楽しめる。この梅は、中野に住んだ最初のときに庭木として据えたもので、そのときからすでに古木だった。だから少なくとも50年以上はたっていることになる。家の改築のときは、工事会社を通して埼玉の農園に預かってもらって、今のビルの入り口の横に植えてもらった。梅の木の寿命がどれほどのものかは知らないが、花の咲き方も実の生り方も、まだまだ力強いように思われる。
 庭と呼べるような余裕もない敷地なのだが、妻と相談して植木を残したのは正解だった。この家では、春には梅が、秋には柿が実る。柿の苗は妻が買ってきて狭い角地に植えた。「棒を買ってきたのかい」と冗談を言っていたが、いつの間にか堂々たる姿になった。根の大半は隣家の地下に入っているような気がするが、今のところ苦情はない。民法では、境界を越えて侵入した根は、無断で切っていいことになっている。空中で越境した枝は、「申し入れて切除させる」のが原則である。


衆参同日選挙はなくなった

IMG_2134 

 きょうの新聞によると、安倍内閣は衆参同日選挙の回避を決めたということだ。その理由は、衆議院での3分の2割れを回避するためだという。安倍内閣の願望は、言わずと知れた「憲法の改正」だが、そのためには衆参両院で3分の2を占めなければならない。今は衆議院では3分の2を占めているからチャンスなのだが、参議院は半数ずつの選挙だから、今回だけではハードルが高いのだ。同日選挙は与党に有利と言われるから、魅力ではあっても、もし衆議院で3分の2を失ったら、元も子も失うことになる。そりよりも、3年待てば、もう一度挑戦のチャンスがあるから、それに賭けようということだろう。やや弱気になったというか、問題を先送りにしたという感もある。
 これを「護憲」の立場から見れば、今回の選挙によって、3年後のハードルを下げてやるようなことになってはならないということだ。3年待っても、逆に改憲は不可能になった、と思わせるぐらいの結果を出したいものである。
 衆議院に比べて存在感が薄いと言われる参議院だが、解散されることがなく、3年ごとに半数の改選で変化して行く参議院は、政治の安定性を保つために設けられている。二つの選挙を同時にすることで、ムードに乗せて事をはかるなどは、制度の趣旨に反する邪道だと言ってもいいのではなかろうか。


ベンチが新しくなっていた!

IMG_2123

IMG_2125

 週末の土曜日、雨あがりの早稲田通りを歩いてみたら、先日「町かどのオアシス」として紹介した歩道のベンチが新しくなっていた。作りは以前と少し違ってはいるが、ほぼ同じ大きさで、真新しい木と鉄骨で出来ている。新作登場を紹介する口上の貼り紙などはないが、古いベンチの鉄材は、まとめて後ろに置いてあった。
 このベンチのスポンサーさんと思われる向かいの洋品店は、平常通りに開店していて、中には人の気配もあった。ちょっと中に入って挨拶してみたらと思わぬでもなかったが、それも仰々しいかという気がして、写真だけ撮って帰ってきた。だからまだ座っていないので、ベンチとしての座り心地がどうなのかは、わからない。自分が一人で座るとしたら、少し勇気が要るかもしれない。長女か次女を誘ってみたら、何と言うだろうか。
 それでも、町かどにベンチが置いてあるのは、良いことだと思う。年寄りは町歩きで疲れるし、子供づれで買い物に来た主婦も同じだろう。歩道の幅に余裕があるところでは、公設の椅子があってもいいように思うがどうだろう。
 でも、今はちょっとしたことがネットに乗って、あっという間に拡散する時代である。私がここに一人で座っていたら、見知らぬ人が横に来て話しかけて来る、といったことがあるかも知れないと思うのだ。以前に国会一周の散歩をしていたころは、ブログを見て参加してくれた人がいたことを思い出す。あのときは心強くて嬉しい気分だったが、いつもあれと同じとは言えないかもしれない。
 私的領域を守るのは、やはり自分の責任でしなければならないことだと思うのだ。複合家族で暮らしている身としては、私につながる人たちの安全を守ることも、私の大事な責任としなければならない。
 
 

滝野川国民学校杉の子会(最終回)に行ってきた

 昨日は、滝野川国民学校の、昭和21年3月卒業生で構成している「杉の子会」に参加して来た。会場は、学校にも近い霜降橋商店街にある料亭「源気丸」の一室だった。同期生は3クラスだから、百二十人ぐらいはいた筈だが、集まったのは11名だった。幹事の呼びかけでは、「今回をもって最終回としたい」ということだった。「杉の子会」の呼び名は、戦時に出来た童謡「お山の杉の子」に由来する。
 会席の話し合いはそれなりに盛り上がったのだが、戦争の話は意外なほど出なかった。考えてみると、東京で実際に空襲を体験しているのは、私一人だけなのだ。みんなは集団か縁故かの疎開に行っていたから、当然にそうなる。みんなの人生経験の中で、戦争がとても小さな過去になっていることを実感した。
 会場の都合もあって思ったより早く散会となり、私としては珍しく、二次会の喫茶店にもつきあってみたのだが、みんなの話が、あまりよく聞こえない。家の中でも実感していることだが、私の難聴はかなり進行している。幹事役が気にして私に話を向けてくれるのが、むしろ気の毒だった。
 それも終って駅へ向かうとき、私は意図的に歩きを遅くして一人になった。雨が降っていたのも助けになった。駒込駅東口に通じるガード下を直進して反対側に出た。「あの人」が住んでいた町だ。
 高校3年の初登校日、昭和26年4月10日の朝7時45分ごろだった筈である。線路の反対側から来た都立第十高女(新制で豊島高校)のセーラー服の生徒と、一瞬、目が合った。あれが私の初恋だった。
 これが波乱の高校3年生時代の幕開けだった。大学受験を控えた高3の秋に、私は毎晩のように長文の日記を書き、ついには遺書まで書いてしまったのだ。
 だが、きのうは雨が降っていてくれて良かった。私は誰にも会わずに、しばらくの間、自由に住宅街の間を歩いていられた。もし「あの人」と実際に出会っても、私は顔で見分けることは出来なかったに違いない。
 駅で傘を畳んだとき、私はとても妻に会いたくなった。「残念だったわね」と言ってくれそうな気がしたのだ。私にとって、妻は妹のようでもあった。妻も私を「お兄さんのような気がする」と言っていた。
 

青梅が 大きくなって 六月に

IMG_2119

IMG_2120

 6月になって、今年も梅の実が大きくなってきた。とりあえず、午前中にここまで書いた。このあとはどうするか、昼飯のあとで考えよう。
 

ブログ連歌(535)

10679 屋久島に 豪雨災害 たじろぎぬ (みどり)
10680  多雨の島にも 洪水と聞き (建世) 
10681 梅雨の前 薄暑きたるか 団扇だす (みどり)
10682  裏の網戸も 使い初めなり (建世)
10683 初夏来たり あつさを避けて 木陰に入りぬ (高橋剛)
10684  動的平衡に 我らうたかたも (獣医さん)
10685 日米の 首脳はゴルフ 税の無駄 (みどり)                           
10685B 着いてまず 料亭行きで 大騒ぎ
10686  酒のついでに 国交さぐる  (建世)
10687 35度の熱波に 伸びきった
10688  クーラーも扇風機もない北の国 (獣医さん)
10689 温暖化 異常気象は 世界規模
10690  住める地球の 寿命を縮め (建世)
10691 薔薇が咲いた 薔薇が咲いた 赤白ピンク (高橋剛)
10692  薔薇に寄り添う 青き紫陽花 (みどり) 
10693 青梅が 大きくなって 六月に (建世)
10694  環境の日毎の誕生日 今年 齢55に (高橋剛)
10695 青梅に実る 青梅の季節
10696  大目に見てよ おめえが食って (獣医さん)
10697 青梅を 食うたら腹を こわすとな
10698  親に聞いたで 今年も漬ける (建世)
10699 熟しゆく 梅の香に酔う 軒端かな (みどり)
10700  君なき初夏に 時は過ぎゆく (建世)

黒い礼服の出番はあるか

 夏の気候になってきたので、しばらく使わない冬物衣料のクリーニングや収納を進めた。衣料の中には、黒の礼服もある。数年前には、盛夏に義兄の葬儀があって、夏用の薄地の黒服を買ったことを思い出した。そこで考えたのは、次に黒い礼服を着るのは、いつだろうということだった。
 慶弔の慶の方で考えると、孫が3人いるから、結婚式があるかもしれない。見通しはあまり明快ではないのだが、誰かが従来型の挙式をする可能性はある。その一方で、事実婚先行で、何となくおさまってしまいそうな予感もある。私たち夫婦の結婚は、親の反対に抵抗した実力行使だったから、法的な手続きは万全だったが、黒服に白いネクタイどころか、背広を着るだけで精いっぱいだった。
 というわけで、「次に黒服を着る機会」というのが、どうもうまく想像できないのだった。次の慶弔ごとを想像すれば、それは順当なら私の葬式ということになる。だからつい、「自分の葬式のときは、本人は黒服を着なくていいんだよね」と、通りかかった長女に言ってしまった。長女はいつも前向きで明るいので助かる。「うん、そうだよね。それでいいんじゃないの。」と、笑顔で通り過ぎた。
 
 
記事検索
プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ