志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2019年10月

こんな小春日和の、穏やかな日は……

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 天気の良い日には、朝のうちに洗濯機を回して二階のベランダに干す。妻の在世中は、私と二人でその仕事をすることもあったが、妻がいなくなってからは、それが多忙な長女の仕事になった。二階と三階の二世帯分だから、分量は、かなりある。私は気がつけば手伝うことにしているのだが、いつもの朝のペースで洗顔などしていると、終ってしまっていることもある。
 ただし、干したあとは、自分の責任範囲だと思っている。天気の急変などは、地下で仕事をしている長女には、わからないだろう。夕方の日が傾いて頃合いと見れば、取り込んで、けっこう工夫しながら畳んで適当に分類し、ピアノの上に並べて置く。近ごろ誰も弾かなくなったアップライトのピアノは、完全に衣類の置き場として使われている。
 しかし二階のベランダで物干しが出来るのは、11月の半ばまでで終るのがわかっている。太陽が低くなって、二階には日が当たらなくなるのだ。その後は、昔は屋上まで持って行ったものだが、近ごろは三階のベランダを使うようになった。その分だけ長女の雑用が増えるのだが、それはやむを得ない。だから年が明けて、来年の2月上旬の終るのが待ち遠しいということになる。
 そんなことよりも、きょうは温暖な小春日和だった。こういう日があると、山口百恵の「秋桜(コスモス)」の歌を思い出す。彼女の顔の輪郭が、うちの長女に似ていると思ってきた。その向こうには、母親である私の妻の顔がある。
 こういうおだやかな日には、あまり余計なことを考えたくない。長女がいて、その母親との楽しい日々があったのだ。この家は、私たちの「城」だった。小春日の日差しはあたたかい。この上に、いったい何を望むのか。
 

間庭小枝さんの「椰子の実コンサート」(第20回)を聞いた

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 声楽家で歌の教育者、間庭小枝さんの第20回「椰子の実」コンサートを、清瀬けやきホールで聞いてきました。たまたま前列の中央に席をとり、主役にいちばん近いところで声をよく聞こうと発想したのでした。私の聴力が低下気味だし、マイクを使わないナマ声を聞くには、近い方がいいに決まっていると思いました。すると、今までに経験しなかったような、自分がスタッフの一員になったのに近い感覚が出てきて、新鮮な楽しさを感じることができました。
 間庭さんのソプラノは、私の好きなきれいな声です。聞いているうちに、何だか自分が指揮をしているような気分になってきました。というよりも、テレビ局時代に、スタジオで歌の録音をしていたときの雰囲気を思い出したようでした。ディレクターの仕事は、いま聞いている歌声が「使える」かどうかを判断して、終ったときに「OK」を出すか、「もう一度お願いします」と言うかを決断することです。私は「これならOK」と安心し切って、ただただ無事に終ってくれるのを待っているのでした。それは本当に楽しい時間でした。私は深くうなづきながら聞いていたのでした。
 終演後に間庭さんにお会いしたとき、「志村さんが最前列で、うなづきなが聞いていて下さったので、とても安心して歌えました。」と言っていただきました。その感じは、私にもよくわかります。私も大人数の前で話したことがありますが、客席の中に、一人でも好意的なうなづきをしてくれる人を見ると、とても安心するものです。あとは、その人に話すつもりで言葉を続けて行けばいいのです。
 もしかすると、歌い手さんにも、そういうことはあるのではないでしょうか。大きな会場でも、「あの人が聞いている、あの人に聞かせたい」と思われるような聞き手になりたいと思います。それが歌い手さんの心を明るくするなら、歌手と聴衆との間に、これ以上幸せな関係はないでしょう。

女系天皇を認めたくない愚かさ

 皇室の男子継承説というものがあって、日本の天皇はあくまでも男系でなければならない、歴史上に女性の天皇もいたが、それらは適任の男性がいないために、一時的に代理をしただけであって、男系の基本は厳格に守られてきたという説を読んだことがある。この論の正否は知らないが、男だけに伝わる特別に貴重な遺伝子があるというのは、たぶん虚構だと思う。
 卵子が男になるか女になるかは、性決定遺伝子がXXかXYかで決まるのだが、この最後のXとYが、対等の大きさというよりも、Yが異常に小さくて、むしろXの欠落と言った方がいいという説明を読んだ記憶がある。つまり生物の基本形は雌であって、遺伝子をシャッフルして進化を起こすために有性生殖を導入したというのだ。この場合、男を作る特別に貴重な遺伝子が存在するのではなくて、基本形の雌に、変化を起こすための欠損を作ってみた、ということになる。
 こんな説明は知らなくても、すべて生き物の基本は雌であり、人間で言えば女であることを、古代の人も本能的に知っていたのだろう。日本の神話も、そのようにして、高天ヶ原を支配する天照大神(あまてらすおおみかみ)を民族発祥の祖として定めたのだった。そこから地上の日本国を支配するために、孫を派遣したのが神武天皇で、初代の天皇ということになっている。よく出来た話ではあるが、もちろんお話の中のことである。
 それから連綿として今まで続くのだが、ここで女系の天皇を作ると伝統が壊れるなどと心配することはない。じつは男系にのみ伝わる特殊な遺伝子などは、最初から存在していなかったのだ。遺伝子をより多く伝えたいのなら、女性を中心にした方がよほど合理的である。当面は心配がないようだが、次の機会には、安心して女性の天皇を登場させるのがよい。
 
 

「昭和史」(ちくま新書・古川隆久)を読んだ

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 「昭和史」(ちくま新書・古川隆久)を読んだ。昭和という時代を総括して理解させてくれる、良書だと思った。
 昭和という時代は、なぜ「昭和」なのか。これは言うまでもなく、昭和天皇が在世した期間の、日本式の年号による呼称である。ふつう(つまり西暦)の区分なら1926年12月25日から1989年1月7日までに相当する。年末に始まり、年初で終っているから、実質は満61年と2週間だった。しかしこの長さは、神話伝説時代を除けば、最も長く続いた天皇の治世だった。
 そして私にとっても、「昭和」による年号の記憶は根強く残っていて、意識的に採用した西暦よりも、未だに早く出てくるところがある。たとえば私は昭和8年に生まれた、31年に大学を出た、結婚は昭和33年だった、といった具合である。つまり「絶対の尺度」になっている部分があるのだ。記憶を西暦に置き換えようとしても、なかなか簡単には行かない。
 ところで本題だが、昭和とは、本当に波乱に満ちた時代だった。世界の大国としての自信をつけ、天皇を擁した権威をもって世界を指導しようとさえ試みたのだ。その結果としてアメリカとの対立を招き、無謀な戦争にまで突入して悲惨な結果を招いてしまった。ところが、ここまでに要した時間が20年で、昭和史の長さの3分の1にしか過ぎない。戦後はアメリカによる占領を経て、和解というか、アメリカの庇護を受ける立場で独立を回復して、国際社会に復帰することができた。
 その後の日本が、誰もが言うように、日本国憲法に準拠する「象徴としての天皇を戴く民主国家」として歩んでいることは、言うまでもない。昭和天皇の後を継いだ上皇が、画期的な「生前退位」を提起したのは賢明だった。象徴としての天皇は、象徴だからこそ、老衰を感じさせる姿であってはならない。
 余談だが、この本の著者は、私の長女の高校時代の級友だということだ。この世代の人が、こういう本を書いてくれるようになったことを、私はとても安心だと思う。世の中は、このようにして、次から次へと進んで行くのだろう。
 

 

新聞の見出しは豪雨被害だが

 新聞には豪雨被害の記事が大見出しで出ているのだが、台風の過ぎた空からは薄日がさしている。自民党の二階幹事長が、「まずまずに収まった」と発言したのは、実感ではあったのだろうが、現実に死者が出ているのだから、政治家としては、まずかったのだろう。折から開かれいた国会では、安倍首相がわざわざ釈明する事態になったようだ。ふだんの直感による言動が、すぐ話題になってしまうのだから、政治家とは不自由な商売ではある。
 ただし家の中ではそんなことは話題にもならず、昨夜は次女が熱心に見ているバレーボールの中継があったから、私もつきあって夜おそくまで見ていた。サッカーなどに比べて、あまり変化のない単調な競技のように見えるが、解説を聞いていれば試合の要点はわかってくる。それなりに楽しみながら見ていられた。
 このところカゼ気味で、医者からもらった薬を飲み尽くしても、全快したという爽快感がない。病人ではないのだが、健康体とも言い切れないような、あいまいな状況が続いている。喉のガラガラが治らないから、昔ながらの「浅田飴」の錠剤を舐めたりしているところだ。
 家の仕事は長女が、食事の世話は次女が引き受けてくれているから、日常の暮らしには何の不安もない。妻が築いてくれた安全保障の仕組みが、その没後にも回っていてくれるのを実感している。 
 ひまな時間に、自分のブログの過去記事などを読んでいた。東北の大震災後を取材して歩いたころの記事が懐かしい。いま大学の4年で、来年の就職も内定している孫と、秋になったら一泊で三陸鉄道に乗りにいこうという話になっていた。今度の雨で、一部に損傷があったようだがどうなるか。多少のトラブルはあっても、現地へ行けば何とかはなるものだ。被災地の今がどうなっているか、ぜひ行ってみたいと思っている。
 

たぶん世界一眺望のよい男子トイレ

 昨日は夕方から、現状での家族全員、つまり長女夫妻と孫と私と次女の5人で、東京湾アクアラインの「海ほたる」まで行ってきた。行く手の正面、東の空にはには満月と思われる月が昇ってきて、振り返れば西の空は夕焼けに染まっていた。どちらも絵になるのに、カメラを持つのを忘れたのは残念だった。
 ただし私には若い頃から、「写真に撮ってしまうのは、もったいないような美しさ」という独特の感覚もある。自分の目で見たものだけが「一期一会」の光景なのだ。カメラで写し撮ったものは、その抜け殻にすぎない。
 ところで「海ほたる」は、道路が開通して間もないころにも妻と行っているが、もっと小さな施設だったような気がする。今回行ってみて、5階まで通じるエレベーターがあるので驚いた。いろいろな店やレストランなどが並ぶ巨大施設になっていた。そして、ここで夕食を食べるというのが、娘たちの計画になっていたのだった。
 施設内には何階だったかは忘れたが、公設の大型トイレもあった。食事の前に入ってみたのだが、ここの男子「小」用のトイレがすばらしかった。正面の胸の高さから上がガラス張りになっていて、東京湾の全景を見渡しながら用を足すことができるのだった。こんなトイレを、ニューヨークでも見たことがない。女性には縁のない話かもしれないが、おそらく世界でも他に例がないのではあるまいか。
 だいたい男子「小」トイレで、前面がガラス張りというのが珍しいと思う。これを設計した人には、多少なりとも冒険心があったような気がする。
 ブログにこんなことを書いてしまったが、このトイレを有名にしようなどという意図はない。むしろ経験者だけが知っている「隠れ名所」にしておくのがいいだろう。
 

台風一過の晴天

 台風一過の晴天になった。風ではたいした被害もなく、木の葉が駐車場に散らばった程度だった。地下室の水漏れも拡大することなく、雨量も多くはなかったので、夜になっても心配はなかった。
 台風のあとは、どうしてこんなに良い天気になるのだろう。夏日が復活しそうな日差しである。洗濯物が、目いっぱいに干してある。吹き抜ける風が心地よい。
 このところ、気分は穏やかである。不満の種は、非常に少ない。私の家族の今と未来については、すべてが順調に回っている。その余のことは、どうでもよい外周に過ぎなくなった。あるべきものが、あるべきように納まればそれでよい。
 私の親友の釜石の実家には、ゴッドマザーと呼ぶべき実力者の母上がいた。その人のヒューマン・ドキュメンタリーを制作したとき、その人が残した遺言書の話を聞いたことがある。どんなことが書いてあるのかと、顧問の弁護士を含めてうやうやしく開封したところが、そこに書いてあったのは、「みんな仲良く」の一言だったというのだ。それを見た三姉妹は、その言葉の通りに、互いに譲り合って遺産分割の話し合いを進め、何の不平不満も残さなかったということだ。
 家族というものは、そうありたいと思う。今の暮らしの延長として未来があるのなら、あるいは遺言そのものが不要なのかもしれない。「あとはよろしく頼む」だけで、いいのではあるまいか。一応は用意した遺言書はあるのだが、本当は何も要らないのかもしれない。
 

台風を待つ夜が更けてゆく

 大型の台風が近づいているようで、雨音がだんだん大きくなってきた。私のビルでも、地下室の物置の奥から浸水が始まった。ふだんあまり使わない場所なのだが、捨てるにはちょっと惜しい古い家具などが押し込んである。その床が濡れてきたので、収納物を全部取り出して状況を調べる騒ぎになった。婿殿まで出動して、水が出てくる隅の割れ目を確認することができた。
 水が浸みてくる間は手をつけられないから、出てきた水を雑巾に吸わせて、バケツで捨てる対症療法になる。本格的な対策は、雨が止んでコンクリートが乾いてから、プロのリフォーム屋さんと相談して決めることになるだろう。
 地上3階、地下1階の「志村ビル」を建ててから、もう34年たっている。長女に言わせると、「地下室は、あまり好きじゃない」のだそうだ。建ててから間もない時期に、排水ポンプの故障で地下水位が上がり、水が地下室の床板すれすれにまで上がってきたことがあった。それに最初に気づいたのが、当時まだ学生だった長女だったから、そのときの衝撃が、トラウマになっているのではないかと、私は思っている。なにしろよく気がついて、人に先んじて心配りする長女なのだ。
 ただし私としては、事務室を地下にしたのは成功だったと思っている。防音が完全に出来て、録音の仕事が安心してできるのが良かった。夏は涼しく、冬は暖かいという長所もある。ドライエリアを作って外光を入れているから、地下にいる圧迫感もない。かなり気に入っているのだが、長女はいつか、「私が建てるときには、地下室は作らないよ」と言っていた。
 彼女の言うことにも一理はある。地下室の維持には、地下水の管理が欠かせない。自動ポンプで排水するとともに、故障に備えて水位の警報装置もつけてある。長期の停電には、バケツで汲み上げて排水するしかあるまい。非常用の、ガソリンエンジンのポンプも用意してある。でもそれらは、考えようによっては、すべて「不自然な」対策なのだ。自然のままで安心なら、それが一番いいに決まっている。
 もちろん、私の時代のあとには、彼女の時代がくる。というよりも、すでに「私の時代」は終っている。私は立派すぎる家を建ててしまったのかもしれない。彼女が早く自分で好きだと思える家を建てられるように、私は協力すべきだろう。その新しい家を、私は生きているうちに見られたらいいと思う。
 

本当に最後になりそうな学習院英文科同窓会

 昨日の10日、10月の第二木曜日、学習院の中央研究棟の最上階にある「松本楼・学習院店」に、私と同期の英文科第3回卒業生が集まりました。正方形のテーブルを囲んで4人、それぞれ好みの昼食を取りながら、ゆったりとした2時間ほどの会話を楽しみました。中の一人は、わざわざ鹿児島から、日帰りの飛行機で来てくれたのでした。私たちの卒業は昭和31年(1956年)の3月、新制大学が出来てから3年目の入学ですから、「3回生」と呼ばれています。まだ4年生はいなくて、卒業生を出していない大学でした。
 時代は、戦後日本の混乱期が、すぐ近くにあった時期でした。学内には、松本楼のような上品な店があるわけもなく、同期生だった「殿下」つまり今の「上皇」さまも、武骨な学食で30円のカレーライスを食べていたのでした。
 敗戦を迎えて「戦後」になるまで、日本では女性は正規の大学に入ることができず、別枠の「女子大学」があるだけでした。それが戦後の民主化で、女性にも高等教育の道が開けたのです。釜石出身の親友は、「私が合格したら、地元の新聞に私の名前が出たのよ」と教えてくれました。日本全体では、まだ大学への進学率は、80人に1人という時代だったのです。
 その同期生の中で、誰よりも早く結婚したのは私でした。卒業の2年後に、家を出て四畳半のアパートに新居を構えたのです。同期の女性たちにとって、新婚家庭というのは好奇心の的だったのでしょう。代わる代わる訪問してくれて、家庭用品の差し入れをしてくれたり、3歳年下の妻の相談相手になってくれたのでした。
 その友人たちも、その後それぞれに結婚して、今は子も孫もいる年代になりました。久しぶりに会えば、それぞれの消息を問い合わせ、その話題の中には、そろそろ「連れ合いさんの介護」の問題が入ってきます。平均的に、私よりも年上の年代なのです。
 こうして時代は移り、私たちの世代は「現役」を終了して行きます。悪くない人生でした。その一部分にかかわって下さった皆さんには、心からの感謝あるのみです。
 
 

ブログ連歌(538)

10739 訪ね行きし 十勝帯広 野は広く
10740  目ざす彼方は 果て無きごとし (建世)
10741 人ひとり 弔う席に 連なりぬ
10742  その日の暮れに 降る小ぬか雨 (建世)
10743 秋めくや 蝉の声すら 切れ切れに (みどり)
10744  棺を覆いて 兄を送りぬ (建世)
10745 夏木立 谷中の墓地に みどり濃く
10746  兄の遺骨は 壺に納まる (建世)
10747 暴風雨 奔り抜けたる 空あかね (みどり)
10748  いつしか夏も 過ぎて行くらし (建世)

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10749 涼風や 虫の音とどく 夕まぐれ (みどり)
10750  雲の間に間に 月は宿れり (建世)
10751 連休が あとひとつあり 息をつく
10752  身を整えて 明日に向かわん (建世)
10753 時雨れゆき 孤愁ふかめる 一人膳 (みどり)
10754  逝きし人あり また会う日なく (建世)
10755 消費税 上げるなの声 どこまでも (みどり)
10756  夕日薄れて 「その日」近づく (建世)
10757 台風に 煽られ未だ 被災民 
10758  屋根こわされつ 耐えて生き抜く (みどり)
10759 カゼ熱が 引いて再び 人心地
10760  亡妻の壺に 話しかけみる (建世)
 
記事検索
プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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