2010年06月10日
「分かち合いの経済学」を読む
「分かち合いの経済学」(神野直彦・岩波新書)を読みました。著者が何のためにこの本を書いたのかは、「はじめに」の中で濃縮して述べられています。それは「オムソーリ」というスウェーデン語の解説から始まります。この単語は「社会サービス」を意味しますが、原義は「悲しみの分かち合い」です。「優しさを与え合う」ことで人間の社会は成り立つものである。この思想を「導き星」として日本社会のビジョンを描くことが、著者の目的なのです。
分かち合いの経済学に対立するものは「奪い合い」の経済学です。この本の全編を通して、「新自由主義」への攻撃は仮借がありません。人間の歴史は、より「人間らしい暮らし」を求めて進歩するのが正常であったのに、歴史の針を逆転して少数の強者の利益を図ったのが新自由主義であった。その影響は現代の日本社会を、ほとんど覆っています。
ですから「希望」は容易には訪れません。「希望には受動的希望と能動的希望がある。手をこまねいていても、(理屈さえわかれば)危機から脱出できるという希望が受動的な希望である。能動的希望は絶望から生まれる。……失敗しても失敗しても挑む敗者の頑張りが抱く希望である。」と著者は書いています。なぜ待っているだけではだめなのか。「分かち合い」は指導者が創り出すものではなく、社会のすべての構成員の行動を必要とするからです。
この本に込められたメッセージは以上で尽き、書評としてはこれで終ってもいいのですが、それなら日本社会のどこをどのように直したらいいのか、具体的な内容に踏み込まなければ、やはり不親切でしょう。私が理解できた「大筋」の一つだけを紹介しておきます。
現代は重化学工業の全盛期を過ぎ、「知識産業」の時代へと変換しつつあります。この時代に必要なのは、成年男子だけでなく、女性や老人や障害者も含む、幅広い人々の生産活動への参加です。したがって旧来の「家庭内の分かち合い」を超えた「社会全体の分かち合い」が必要になるのです。その変換に成功し、国民多数の能力を伸び伸びと発揮できるようになった国こそが、真の「先進国」になれるということです。
国民福祉の先進国である北欧が、国際競争力でも強い国でいられるのはなぜか。そこには「国民が広く参加する大きな政府」があるからです。
(plala Broachに掲載しているものと同じです)