昨日の「労働ダンピング」について、書ききれない重要な問題が残りました。それは雇用が融解することによって、社会の底辺の「底が抜ける」、つまり社会の存立そのものが危うくなるという事実です。自由化の名のもとに労働についての規制を次々にゆるめてきた究極の姿は、個人契約による労働の提供です。これは形の上では会社と個人が自由意志に基づいて契約することになっていますが、派遣労働の変種として、あるいは日本語の読めない外国人に適用されるとなると、道義というよりも詐欺に近い問題になります。個人契約なら、会社は労働の結果だけを買うのであって、労働提供者の生活にも健康にも通勤費用にも、もちろん社会保険にも、全く配慮する必要がなくなります。これは産業革命の初期に行われていた、むき出しの労働搾取への先祖返りと言うほかはありません。こんな極端な事例も、実際に出はじめているのです。
 そこまで極端にならない段階でも、雇用の融解は、さまざまな問題を引き起こしています。職場での労働災害が、被害者が派遣労働者であると、派遣先企業の圧力で「労災隠し」され、労災保険の適用が受けられないなどです。健康保険でも雇用保険でも、派遣や下請けで働く人たちの契約関係は複雑になり、しかも日本の社会保険制度は企業の届け出を前提にしていますから、生活が不安定で蓄えもない人ほど、いざというときの社会保障から遠ざけられるという矛盾を生じてしまいます。非正規の労働で所得が低い上に、社会保障からも遠い人たちが「よき社会人」てありつづけるのは、容易なことではありません。ちょっと失敗したら、その下は貧困と暴力の闇です。
 年収が200万円以下だと結婚をあきらめる、300万円以下だと子供を持つことをあきらめると言われます。出生率の低下は、現代日本の社会構造の欠陥が原因になっていることを認識すべきでしょう。子供が生まれないだけではありません。かつての標準モデルだった正規労働者がこのまま減少をつづければ、納税者や社会保険料の納付者の絶対数が、どんどん減って行きます。雇用が融解すれば、社会保障もまた融解するのです。
 私は終身雇用の正社員制度の復活を主張しているのではありません。雇用は流動してもいい、むしろ固定しない方がいいのです。流動しても生活できる収入が得られ、勤め先に左右されない社会保障があれば、それが一番いいのです。公正な労働の基準は、自由契約で成り立つものではありません。人間の知恵を集めて設定し、それを企業に守らせることで成り立つのです。これは政治の問題です。