一昨日のブログで「心」「気持」「思い」の三つの言葉の比較をしてみましたが、常識的に考えて、この三つはよく似た言葉です。さらに漢語を加えれば、「精神」「心理」「所感」「思惟」「所信」など、似た言葉はさらに増えてきて、収拾がつかなくなりそうです。このように一つの事象に対して、異常に言葉の数の多いのが現代日本語の特徴です。英語の第一人称「I(アイ)」に対して「わたし・わたくし・おれ・ぼく・我輩・拙者・それがし・小生・余・朕」など、いくらでも出てくるのは、笑い話になるくらいです。和語と漢語と二系統がある上に、敬語など人間関係による使い分けが加わるので複雑になるのです。これは、どこの言語でもそうかというと、決してそんなことはないのです。
 最初の例にもどれば、人間には肉体に対する精神があるので、それを言い表わす言葉は絶対に必要です。さらにその精神が動くことを表わす言葉(動詞)も必要になります。そして同じ精神作用でも、本能に根ざす深いものから、ちょっとした軽い動きまで、さまざまな段階がありますから、それらを区別したい場合も出てくるでしょう。そのときに、別な言葉を新しく作るか、既存の言葉に修飾を加えて表現するかという、選択の余地が生まれます。日本語は、必要に応じてどんどん新語を増やして行く傾向が強かったのだろうと思います。その反対に、中心(コア)になる言葉を確立させて、修飾語で表現を豊かにして行ったのは、他からの影響が少なく、純粋に発達した言語の場合に多かったのかもしれません。そして、外国語として学んでわかりやすいのは、もちろん体系的に発達した言語の方です。
 ここで強調しておきたいのは、言葉の数が多いのは、表現の正確さを保証するものではなくて、むしろその逆だということです。言葉を正確に定義するものは辞書ですが、辞書の記述の大半は、難しい言葉を、複数のやさしい言葉に置き換えることで成り立っています。一語で複雑な内容をもつ言葉は、よく知っている人には便利ですが、一般的には不正確に使われる恐れも大きいのです。
 人間の使う言葉は、合理的に構成すれば、3000語程度で充分であろうと言われます。その単語体系と明瞭な発音と簡易な文法を組み合わせれば、理想的な人造言語ができます。エスペラントは、そうした世界共通語をめざす試みの一つです。私たちは母語である日本語から別れるのは非常に難しいでしょうが、世界との会話には、すぐれた共通語を使いたいものだと、私は思っています。