12月27日の「あいさつの力」で、コミュニケーションについての説明が不十分なまま終ってしまいました。私の「実用的コミュニケーション学」は、教職課程で受けた、もう名前も忘れてしまった先生の講義と、教育・宣伝活動の実務を教えるコミュニケーション講座を担当していた時期に、講師仲間や外部講師から仕入れた各種の知識から成っています。
 あいさつは「質問と答え」ではないとは、こういうことです。会社の昼休み、外から帰ってきた人が、ビルから出て行く同僚と、入口ですれ違いました。「どこ行くの」「ちょっとそこまで」と、にこやかに言葉を交わしました。これはいったい何か、というところからコミュニケーション学が始まります。(学者とは気楽な商売ですが。)どこへ行くのかの問いに対して、「ちょっとそこまで」は、ほとんど答えになっていません。もちろん本人には外出の目的がある筈ですが、それを正直に答える必要があるとは思っていないのです。また、「どこ行くの」と聞いた側も、どこへ何をしに行くのか、そんなことには最初から関心はないのです。だから互いに満足して、にこやかにすれ違うことができました。では、この会話は何を目的にしていたのでしょうか。それは同じ職場の仲間であることの、親しさの確認であったのです。ですからこれは、「いい天気だね」「元気そうだね」「こんにちは」といった言葉と置き換えても同じ、あいさつの一種と考えるべきなのです。だから言葉にはほとんど意味はなかった、しかし仲間である以上は、無言ですれ違うことはできなかったのです。
 家族の間で、しばしばあいさつの習慣が崩れるのは、着替え、食事、新聞など、具体的な生活上の行動とそれに関連する会話が先行するので、わざわざあいさつを交わすことが、かえって他人行儀に感じられるからです。しかしそれは、家族としての一体感が基本的に成立していることを前提にしています。ですから家族の間にトラブルがあって、一体感が損なわれている場合にこそ、あいさつが必要であり、その力で一体感の回復が得られることもあるのです。その意味で、定型化したあいさつを励行している家族の方が、安全装置を常備していると言えるでしょう。
 もう一つは叱り方と感情の問題です。子供を叱るとき、これは叱るべきであると理屈で考えて叱ったときは、失敗する場合が多い。本当に腹が立って、本気で叱らないと子供には伝わらないと、これはベテラン教師の体験談でした。人を叱るとは、全人格をかけた重い仕事なのです。