(第9章 科学技術と人間)

日本の科学技術

 古代日本の科学技術は、中国からの輸入に負うところが大きかったろう。七世紀の大化の改新以後、短期間のうちに巨大な宮殿や寺院、仏像などをこんりゅう建立できたのは、大陸や朝鮮半島から招いた多くの技術者たちの指導のおかげだったに違いない。しかしそれを受け入れた日本側に、ある程度の技術レベルが必要だった筈で、それらは上代からの巨大木造建築や、金属の精錬加工の技術として蓄積されていたのだろう。そして短時間で伝来の技術を消化し、独自の文化を発展させることができた。
 中世の日本のじょうかく城郭、日本刀を始めとするよろいかぶと鎧兜などの武具、社寺や仏像、庭園などは、科学技術と美意識がこんぜん渾然いったい一体となった、みごとな作品になっているものが多い。それらを支えたのは、手仕事に長じ、創意工夫を伝承した名人かたぎ気質の職人たちだった。
 十六世紀にたねがしま種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来したとき、領主は直ちにかたなかじ刀鍛冶に命じて製法を研究させた。鍛冶屋はくしん苦心さんたん惨憺の末、最後は切腹を覚悟で見本の銃を破壊して銃底を閉じるらせん螺旋の構造を知り、ついに国産の鉄砲を完成させたという。当時の技術の格差が、職人の努力で克服できる程度であったのは幸運だった。
 その後の日本は、徳川幕府の鎖国政策によって三百年の保守的な時代に入った。幕府というのは文字通り幕を張った野戦司令部の意味で、この三百年は、言わば凍結された戦時体制である。幕府は体制をおびや脅かす変化を警戒したから、原則として新しいものを禁止した。
「しんき新奇はっと法度」という世界にも珍しい禁令が日本の江戸時代に出ている。新しい工夫をした道具類を作ることを公式に禁止していたのだ。世の中すべて「新しいものは良い」ではない政治判断がありえるということは、記憶しておくに値すると思う。
 しかし江戸時代の日本は決して文化の低い国ではなかった。寺子屋教育でしきじりつ識字率は高かったし、しょくにんわざ職人技も健在だった。長崎を窓口として諸外国の情報も、最小限必要な程度は入ってもいた。新奇法度が出されたのも、研究開発のきざしがいろいろな分野であったればこそだったのだろう。この状態で明治の文明開化を迎えたのである。
 日本にとって再び幸いだったのは、十九世紀末の科学技術が、欧米諸国にとっても出来たばかりの新技術だったことである。しかもしこう試行さくご錯誤の面倒もなく、良質の結果だけが導入されたのだから、後発メーカーの利点を生かした無駄のない発展さえも不可能ではなかった。短期間のうちに近代化の優等生になったのは、偶然ではなかったのである。
 近代化に成功した日本は、増長して軍国主義に進み、国粋主義という閉鎖主義に回帰したのだが、幸か不幸か戦争に負けたことで閉鎖を解かれた。戦後の復興もまた、最新技術の導入による後発メーカーの成功例になったのである。
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