(第9章 科学技術と人間)

科学にも禁じ手がある

 第一次世界大戦では毒ガスが大規模に使われて悲惨な結果を生んだ。その反省から、国際社会は兵器としての毒ガスの使用を禁止する条約を結んだ。この約束が第二次世界大戦において大筋で守られたことは、高く評価してよい。
 戦後の国際的な平和協定としては、南極大陸を軍事目的に使用しないこと、宇宙空間を同じく軍事利用しないことなどがある。ただし偵察衛星を打ち上げたり、大陸間弾道弾が宇宙空間を飛ぶことなどは禁止ではないらしい。それにしても、人間が戦争の手段を無制限に開発してはいけないという意識を持ち始めたことは確かなようだ。
 最近では、対人地雷の禁止条約がある。このときの議論で明らかになったのは、この地雷は敵を直接に殺すのではなく、肢体不自由者にすることで敵の戦力を低下させることを狙う武器だということだった。その設計思想のおぞましさに嫌悪を感じた人が多かったのではあるまいか。しかも当面の作戦目的よりも、平和になってからの住民を殺傷することに威力を発揮するのだから、禁止されて当然である。
 科学の禁じ手は戦争に関連することだけではない。最近では遺伝子操作技術の向上による、安全性と生命倫理の問題が出てきた。遺伝子組み替えで、病気に強く収穫量の多い農作物などが開発されたのだが、食品として本当に安全かどうか、経験のないことだからわからないというのである。従来の品種改良は受精のかけ合わせだったが、直接に遺伝子を変えてしまうところに不安がある。とんでもない有害な生物や細菌が出来てしまう可能性が否定しきれないのである。
 クローン技術にも不気味な影がある。遺伝子だけをせいしょく生殖さいぼう細胞に移植して生まれた生物は初代の子供ではなくて複製である。一卵性双生児と同じことだと考えれば気楽かもしれないが、全く同じだと言い切れるか。だいたい年齢はどう数えるのか、疑問は尽きない。もしも人間のクローンが生まれたらどうなるのか。頭脳は新しいことを覚えながら成長するだろうから、初代と同じ人間になることはありえない。その人は初代の生き残りでもなければ子供でもない。双子の兄弟に似ているが、本当にそうではない。そのような人間を増やしたいとは誰も思わないだろう。しかし農作物ならどうか、畜産動物ならどうか、人間の良識が試されることになる。
 不老不死は昔から人間の夢ではあった。今でもアメリカでは、将来の医療技術に期待して自分の遺体を冷凍保存させている人が何人もいるそうである。この問題は、人間とは何かという根源的な問いになる。永久に生き続ける人間、死ぬことのできない人間を、私はうらやましいとは思わない。だが、それでも死にたくないのが人間なのだろうか。
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