先週の土曜日に、滝野川国民学校の「沼津会」へ行ってきました。昭和19年の7月から20年の5月まで、1年近く生活を共にした集団疎開児童の同窓会です。昭和19年の時点での4年生と5年生約60名が参加しました。空襲はまだ始まっていませんでしたが、先行的なモデル校の性格があったようです。この疎開学園については、昭和60年に「静浦疎開学園ものがたり」という、すぐれた記録文集が発行されています。編集のキーマンは、当時4年生で、後にミステリー作家となった内田康夫氏でした。
 この集団疎開へ私は5年生として参加したのですが、わずか1ヶ月で東京の自宅へ引き取られました。体中に吹き出物が多発したのが直接の原因で、母親が学校の了解のもとに迎えに来たのですが、私は何も知らされずに、突然の帰京になりました。口には出さないものの、自分から言い出して集団疎開に参加したことを後悔していましたから、敵前逃亡のような、後ろめたい気持が残りました。宿舎になっていた獅子浜の本能寺の山門を出るとき、「いいな、いいな」とうらやむ友人たちの目が、突き刺さるような感じであったことを覚えています。
 ですから文集が編集されるときに呼びかけられても、私は原稿の募集に応じませんでした。私にとっては、疎開学園は、先生というものに対する信頼感を喪失した記憶でもありました。親代わりというよりも、管理し支配する人たちであることを強烈に知らされたのでした。何といっても大きかったのは、出発のときに親たちが持たせてくれた菓子など当時の貴重品を、到着したとたんに「食べられるものは全部出しなさい」と没収されたことでした。先生にしてみれば集団生活の平等を考えたのでしょうが、食い物の恨みは絶大でした。それに加えて、没収したものを先生たちが夜に食べているという噂が広がって、それを便所の壁に書く者が現れたりしました。
 しかし「疎開学園ものがたり」は、「つらかったけれど懐かしい」記憶に満たされています。私が経験したのは、初期の一時的な混乱という面もあったのでしょう。なにしろ先生にも生徒にも親たちにも、誰にも初めての、知らない経験だったのですから。あれから50年以上が経過しても、沼津会の仲間たちは、今も独特の親しさに結ばれているのでした。
 私は名誉会員みたいなもので出席率は悪いのですが、今年はささやかなおみやげとして、疎開しなかった空襲下の学校がどうだったかを、「人間たちの記録」から抜粋して持って行ってみました。出席者は、内田康夫氏を含めて18名でした。