無差別殺人の連鎖が止まりません。「誰でもいいから殺したかった」で、殺されたくない大事な人が殺されてしまいます。
 「殺したい」気持は、わからぬでもありません。私も人を殺したいと思ったことはありますから。たとえば無差別殺人の現場にいたら、犯人を殺してやりたいと思う人は、少なくないのではありませんか。捕まったあとも、早く死刑になればいいと思わないでしょうか。殺人の横行は、人の命を軽くします。自殺の増加とも、どこかでつながっているように思います。死にたい人がいるのだから、殺したい人とうまくマッチングすれば、どちらにも好都合なのにと、妙なことも考えました。
 そんな中で、中学3年の少女が父親を刺殺したという事件が、とても気になります。思春期の少女は、あらゆることを考えるでしょう。追試験の一つに欠席したのも、本人には人生に絶望する大事件だったのかもしれません。親子の感情については、他からうかがい知ることなど、できるものではありません。いずれにしても、刃物を握って人を刺すというのは、人生をかけた決断に促された行動です。予想しなかった親の衝撃は大きいでしょう。「心が張り裂ける」という母親の言葉は、父親も同じだったに違いありません。
 家族というのは、互いに警戒心が少ないので、殺しやすい相手です。この場合、無差別殺人が、たまたま身近な父親に向ったと見ることもできます。父親の立場だったら、娘の殺人が他人ではなくて自分に向けられたことを、せめてものやさしさと受け止めることも可能かもしれません。しかし、すべてはまだ闇の中です。
 この少女が成人してから、今回の事件のことを、じっくりと聞いてみたいと思います。本人にもうまく説明できないかもしれませんが、現代の子供たちのつらさの一端が聞けそうな気がします。何の脈絡もないのですが、戦後の一時期、少女の自殺が続いたことがありました。そのとき少女小説の第一人者だった吉屋信子さんは、こんな弁明をしていました。「文学好きで感傷的な女の子は、自殺なんかしません。机の前でおとなしくしているものです」と。
 父親を刺した少女は、文学の世界に浸ったことは、なかったのでしょうか。