どんな国が「よい国」なのか

 ちょっと見回しただけでも、世界にはさまざまな国があります。人口の大きさだけ比べても、十億人を超える大国もあれば、総人口一万人にも満たない小国も国連に加盟しています。どんな国でも表決権は同じ一票という国連総会の原則は、たぶん大きな虚構の上に成り立っているのでしょう。国連に縛られたくないアメリカの気持がよくわかります。
 ところで、どんな国が「よい国」なのでしょうか。それには国民にとってよい国という条件をつけましょう。統治者にとってよい国は、気ままな独裁が許される国かもしれないからです。今ではそんな国は少数派でしょうが。
 中国の伝統的な政治思想に、理想の善政は国民に政府の存在を意識させないというのがあります。伝説上の聖人であるぎょう尭帝の時代に、食足りた老人が「太平の世に皇帝など要らない」と歌ったと、「十八史略」が記述しています。苛酷な徴税や徴兵が民を苦しめることは猛虎の恐ろしさ以上であると、孔子も説いています。民は自らの働きで幸せな暮らしを築こうとするもので、それを守るのが政治だという思想がそこにはあります。
 しかし自然災害に対しては治山や治水の工事が必要ですし、盗賊の害には治安を守ってくれる武力も必要になります。隣人同士のもめごとには、公正な裁きをしてくれる第三者がいないと困ります。そんなこんなで人間の幸せは、自治であろうと他からの強制であろうと、何らかの政治システムによらなければ保障されないのです。
 マルクス主義では、革命が完成した後は国家が消滅することになっていますが、それは大衆の上に立つ権力装置が不要になるということで、労働者階級による理想の自治が行われることを想定しています。そのような自治は、やはり国家と呼ぶべきでしょう。
 いずれにしても、最大多数の最大幸福を保障してくれるのがよい国家だということには異論がないでしょう。すると、人間にとって何が幸福なのかということが次の問題になります。これも異論のなさそうなことから列挙すると、不本意に殺されない、自由を奪われない、衣食住に困らない、教育を受けられるといった人間として必要な最低限の条件を満たすこと、つまり国民を不幸にしないことが、よい国の第一の条件です。そしてこの条件は、ある程度は世界共通の基準を作れそうです。
 この基準を満たした上で、努力したら報われる、正直者が損をしない、個性的な能力の発揮が評価される、将来に希望が持てるといった前向きの条件を、より多く満たすのが、よい国と呼べるのでしょう。この前向きの部分では、何を幸せと思うかという価値判断は、個人により違ってきます。つまり底辺の支えは広く強固で、能力に応じて伸びる可能性に対しては、なるべく制約の少ないのが「よい国」の条件なのです。