親の怖さ

 親は怖かった。とくに父親の怖さは、皮膚感覚として今も残っている。「親の言うことを聞く」が絶対で、少しでも口答えすると徹底的に叱られた。ことの是非よりも、とにかく「親の言うことを聞いた」かどうかが問題にされた。制裁は、直接の暴力はあまりなくて、私は頬を一度平手で叩かれただけだが、兄も姉も、幼い頃には手を縛られて押入れに入れられたこともあったと聞いている。母は一貫して、とりなしと謝り役だった。この辺までなら当時の父親像としては、さほど珍しくはなかったことだろう。私たちの場合はその後に問題が深刻化したのだが、とにかく親と子の間には、絶対的な身分の差があった。
 父がどのようにして、あの父権絶対の信条を身につけたのかは、私にもわからない。ただ想像するに、祖父が学んだという寺子屋の教育などを通して、祖先や親を重んじる「孝」の思想は受け継いでいただろう。そして文明開化の恩恵を受けて、山奥から町へ出て勉強し、代用教員の資格を手に入れた。いくつも年齢の違わない子供たちを教える立場になったのだから、背伸びして人に弱みを見せない態度も身につけたに違いない。そこから身を転じて新聞記者となり、徳富蘇峰の信頼を得て活躍するまでになった。しかし組織の中では安住できない人間だったと、本人も認めていた。主婦の友でも講談社でも定着できずに、自分で出版社を始めて、ようやく軌道に乗ってきたのが、私の育った昭和初年だったのだ。強烈な自信が心の支えだったことは想像に難くない。
 今これを書いていて、尊敬に値する父親だったと、改めて認めざるをえない。それにしても、あの思い込みの激しさは何だったのだろう。「あいつは親に反抗した」と認定されると、反省とか謝罪とかで済まされる範囲を超えてしまうのだった。それは、子供が意のままにならなかった怒りが、憎悪に近い感情の固まりになってしまうからだった。だから「これから気をつけろ」といった明快な終り方にならずに、お説教は長引いた。同じことを何度もしつこく言われると、子供は黙ってしまう。母が「その辺にしたら」と助け舟を出そうとすると、「あんたがそんな態度だから子供が反抗するんだ」と、母親が責められる立場になるのだった。
 「反抗」事件は、思わぬときに天災のように襲ってきた。ある日、父はちょっとした外出に、姉を「いっしょに行かないか」と誘った。姉は何か都合があったのか、なかなか良い返事をしなかった。いらいらしながら待っていた父は、野球のバットを持ってきて、姉のきれいな下駄を、粉々になるまで叩きつぶしてしまった。あのときのことは、いつまでも心の傷になっていると、姉からしみじみと聞かされたことがある。
 でも、ふだんは基本的に子供に甘い父親でもあった。激しい気性を、自分で持て余しているようでもあった。とにかく父親は、抵抗することのできない、怖い存在なのだった。