焼夷弾の実体

 日記によると、焼夷弾による夜間の空襲は十一月三十日が最初になっていて、二十機内外としているから、テスト的な攻撃だったのかもしれない。それでも南の空が真っ赤になったと書いてある。落とされた焼夷弾は、それまで訓練に使っていたものとはだいぶ違っていて、その対策は急を要したのだろう、すぐに解説の記事が新聞にも出た。特徴は、小型の焼夷弾が多数まとまって落下することだった。従来は「焼夷弾落下!」と声をあげて、近所が協力して防火用水のバケツリレーを集中することになっていたのだが、どの家にも同時に複数が落ちるのでは間に合わない。対策は「それほど威力はないから初期消火が大切」ということだけだった。
 アメリカ軍は日本の木造家屋を焼くために最適の焼夷弾を開発していた。M69という集束弾で、ネットの情報では三八本が一単位ということだが、私の日記では十ポンドの弾が二八発となっている。後にはありふれて私もよく手にしたが、単体は鉄板を六角形の筒型にして油脂剤を詰め、上下に蓋をはめた簡単な構造だった。直径は十センチ、長さは六十センチぐらいで、下部の横に小さな信管が突起していて、上部には長い布製の尾がついていた。これを二段に束ねておいて、空中の爆発でバラして地上に向かわせる。このとき布の尾に火がつくので、夜間には、無数の火の粉が降り注ぐように見えるのだった。それと同時に「ザーッ」という激しい夕立のような音がした。
 焼夷弾の油脂を、姉が友だちから手に入れて持ってきたことがあって、隣組を集めて実験した。強い臭いの黒煙をあげてよく燃えた。グリースにガソリンを混ぜたようだと誰かが言っていた。燃料として強力だから、不発弾を分解すると重宝するという話も聞いた。要するに燃えやすい油脂が飛散するだけの武器だという結論になったのだが、自分の家に落ちたらどうなるのか、はっきりしたイメージを持てる者はいなかった。
 十二月十四日には、学校で焼夷弾の公式な実験が行われて、町会からも大勢が参加した。コンクリート校舎の屋上から実物を落としたのだが、なかなか発火せず、何度もやり直しになった。何度目かに、まただめかと近づいた警防団の目の前で、突然に発火した。本体はロケットのように火を吹き、火炎の帯を残しながら走り出して、取り巻いていた見物人の方へ向かった。逃げ遅れた女の人が転んだところに追いついて、モンペに火がついた。一瞬遅れて、用意されていた防火用水をみんなで掛けて消したのだが、その人は気絶してしまったと日記には書いてある。一発でも侮れない武器であることが、はからずも証明されてしまった。
 それにしても、発火と同時に万遍なく油脂に火がつくメカニズムはどうなっていたのだろう。安価に大量生産されたには違いないが、研究を尽くしたアメリカ軍の高度な技術力で作られた焼夷弾だったのだと思う。