DDTと家業の再開

 昭和二十一年の夏休みは、七月一日から九月十五日までという長いものになった。学校としても前例のない長さだそうで、別に説明はなかったが、学校側もいろいろな面で疲弊していたのではないだろうか。新円切り替えによる経済の停滞は復興の妨げになるというので、半年もたたないうちに規制は緩和に向かいつつあった。ヤミ経済も息を吹き返すとともに、インフレもまた始まった。
 夏休み初日には、四時起きして切符を買い、母と千葉へ食糧担ぎに行っている。乗り換えの千葉駅で一袋十円のドーナツを買って食べたところ、油が悪いらしくて母も私も腹具合が悪くなった。夜まで下痢がつづいたし、汽車は混んで座れなかったし、相当たいへんだったと日記に書いてある。翌七月二日は、朝からアメリカ機が低空でDDTを盛んに撒いていた。双発機が横広のノズルを曳いていて、そこから白い煙のように薬剤が噴き出していた。通過してしばらくすると、油っぽい気分のよくない臭いが立ち込めた。暑くなる前に蝿や蚊を駆除するのが目的だったのだろうが、派手に薬を撒いたわりには、効果はあまり感じられなかった。その晩も蚊は同じように出てきたし、夜は変らずに蚊帳を吊って寝ていた。
 DDTは日本の衛生状態を心配したアメリカ軍が持ち込んだものだが、最も盛んに街頭で散布されたのは、この年の夏前だったと思う。ピストン式の手持ちの撒布器で、白い粉末を人にも一人ずつ吹きかけた。シャツの前を開けさせ、最後に襟首を後ろから引っ張って、背中に吹き込むのが定式だった。私が経験したのは町会のDDTだったが、アメリカ兵が駅頭で乗客を直接に「消毒」したこともあったらしい。なんとなく万能の消毒薬のように思っていたのだが、じつは残留性の強い殺虫剤だったのだから、今なら人権問題で大騒ぎになるところだ。
 この夏休みの間に、私の家は忙しくなった。本式に出版の仕事を再開することになり、楽譜の資料が揃っていた歌の本と、図画・図案の本をとりあえず出すことになったのだ。売る方法は、書店の流通経路は当てにならないし、信用できる広告の方法もないので、宣伝物を郵便で直接に全国の書店や学校へ送ることになった。今の言葉ならダイレクトメールだが、そんな言葉は知らなかった。宣伝チラシは謄写版で刷った。おもに兄がローラーを動かし、私は紙の出し入れを手伝って、一晩に五百枚ぐらい作るのがノルマだった。
 封筒に宛名を書く、チラシを折って封筒に入れ、小麦粉を煮た糊で封をするなどの流れ作業は、家族総出の仕事になった。戦争で中断する前は、大勢の若い社員やお手伝いさんも加わって、にぎやかにやっていた仕事だから、なつかしさもあって楽しかった。私はよく夜遅くまで手伝っていて、勉強をやらなくちゃいけないだろうから、もういいよと言われたが、途中で止めたくない気持の方が強かった。勉強なんかより、ずっと面白くて、やりがいがあったのだ。