「かわぐち えいこう」さんからお借りしてきた「靖国問題」(高橋哲哉・ちくま新書)を読みました。えいこうさんの靖国神社に対する考え方の基盤の一つであり、私にとっても同感できるところの多い、すぐれた問題提起でした。
著者は哲学者ですから、明晰な理論構成によって問題を分析しています。しかし出発点には「靖国神社を非難する一言半句を聞いただけでも、全身の血が逆流するほどの怒りを覚える」といった「靖国遺族」や、逆に靖国神社から親族を取り返したいと願う遺族の「それぞれの感情の固まり」を据えています。靖国問題は、すぐれて人間の感情の問題なのです。
その上で、国民にとっての靖国神社は何であったかの検証を進めます。そこから導かれるのは、「靖国神社は、国のために身命を捧げることを名誉と考える国民を、限りなく再生産するための装置であった」という、動かしがたい事実です。
戦後65年目の夏を迎えようとしている今の時点で、この本を通して考えるべき問題は、「国民すべてが、わだかまりなく参拝できて、外交の儀礼にも使えるような、国立の平和祈念施設はどのようにあるべきか」ということでしょう。その観点で現状を考えると、靖国神社をそうすればよいという意見から、千鳥が渕の無名戦士墓苑、沖縄の平和の礎(いしじ)など、候補はあるものの、どれをとっても国民的合意を得られる見込みは立ちません。
この混迷の根本は「国家と戦争と平和」についての、国としての態度が不明確だからだと著者は言います。将来の国際貢献で犠牲となる自衛隊員も祀ることも視野に入れれば、それは靖国神社へ通じる道と同じにならざるをえないのです。
これから後は私の見解を含みますが、唯一の希望は、戦争を放棄した憲法9条が真に国民的な合意となり、国がその体現化に乗り出す場合です。この場合は、過去の戦争のすべての犠牲者を弔うことができ、誰もが平和を誓う場となります。そこは「戦争」そのものを人類の過去の過ちとして永久に封印し、その犠牲者を弔う場所です。新しく合祀する人は、決して迎えてはなりません。
そのような平和祈念施設を世界にさきがけて作り、世界の首脳を日本に招こうではありませんか。
著者は哲学者ですから、明晰な理論構成によって問題を分析しています。しかし出発点には「靖国神社を非難する一言半句を聞いただけでも、全身の血が逆流するほどの怒りを覚える」といった「靖国遺族」や、逆に靖国神社から親族を取り返したいと願う遺族の「それぞれの感情の固まり」を据えています。靖国問題は、すぐれて人間の感情の問題なのです。
その上で、国民にとっての靖国神社は何であったかの検証を進めます。そこから導かれるのは、「靖国神社は、国のために身命を捧げることを名誉と考える国民を、限りなく再生産するための装置であった」という、動かしがたい事実です。
戦後65年目の夏を迎えようとしている今の時点で、この本を通して考えるべき問題は、「国民すべてが、わだかまりなく参拝できて、外交の儀礼にも使えるような、国立の平和祈念施設はどのようにあるべきか」ということでしょう。その観点で現状を考えると、靖国神社をそうすればよいという意見から、千鳥が渕の無名戦士墓苑、沖縄の平和の礎(いしじ)など、候補はあるものの、どれをとっても国民的合意を得られる見込みは立ちません。
この混迷の根本は「国家と戦争と平和」についての、国としての態度が不明確だからだと著者は言います。将来の国際貢献で犠牲となる自衛隊員も祀ることも視野に入れれば、それは靖国神社へ通じる道と同じにならざるをえないのです。
これから後は私の見解を含みますが、唯一の希望は、戦争を放棄した憲法9条が真に国民的な合意となり、国がその体現化に乗り出す場合です。この場合は、過去の戦争のすべての犠牲者を弔うことができ、誰もが平和を誓う場となります。そこは「戦争」そのものを人類の過去の過ちとして永久に封印し、その犠牲者を弔う場所です。新しく合祀する人は、決して迎えてはなりません。
そのような平和祈念施設を世界にさきがけて作り、世界の首脳を日本に招こうではありませんか。