市堀玉宗さんのブログ「再生への旅」で先日見かけ、それを引用した「花てぼ」さんのブログでも話題になっていた金子みすずの詩「さびしいとき」。最後の2行が心に残っていました。

私がさびしいときに
よその人は知らないの。

私がさびしいときに
お友だちは笑ふの。

私がさびしいときに
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに
佛さまはさびしいの。

 仏さまだけが共有してくれた金子みすずのさびしい最後について、「ひなまつり」と「金子みすゞ」と「アフガニスタンの女性たち」と題した綿密なブログ記事がありました。
 夫から詩人としての活動を禁じられ、性病を移され、離婚後も娘の親権を夫に奪われることになった金子みすずは、娘を引き渡す約束の前夜に、3歳の娘を風呂場でていねいに洗いながら、いつもよりたくさんの歌を歌って聞かせたそうです。病気のために、娘と同じ浴槽に入ることさえできない体になっていました。
 風呂のあとで両親と4人で桜餅を食べ、「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」と言い、最後の言葉は、娘の寝顔に見入っての「可愛い顔をして寝とるね」だったとのこと。そして自室にこもり服毒自殺しました。芥川龍之介と同じ睡眠薬のカルモチンを用いたとされています。覚悟の自殺の前には、写真館で自分の姿の撮影も済ませていました。
 昭和5年のその時代に、26歳の若い母親にとって、娘を自分の母親の手で育てて貰えるかもしれない非常手段は、これしかなかったのでしょう。冥界に入った金子みすずを、仏陀は決して叱らなかったと私は思います。私の理解では、仏陀の心は宇宙全体と同じ大きさがあるのです。だから人間の考えることも、人間のやることも、すべては理解の中に入っているのです。
 金子みすずの最後を、女性の人権の問題と考えることも、もちろん可能です。あらゆる不正義の犠牲となって倒れる人は後を絶ちません。そのすべてを見ていてくれる誰かがいると思わなければ、この世は闇です。その人の名が「仏さま」であろうと、なかろうと。