「論語・真意を読む」(湯浅邦広・中公新書)を読みました。論語について書かれた本は多数ありますが、これはこの春に出た新刊です。落ち着かないこの時期に、あえて古いものを読み直してみたくなりました。「真意を読む」という副題は、今まであまり論じられなかった孔子の「嘆きと絶望」に焦点を当てているからです。
 論語について今も新刊が書かれるのは、近年になって古い竹簡の発掘と研究が進んでいるからです。竹簡とは、紙が普及する以前に、細く削った竹に一行ずつ文を書き、紐で綴じて巻物の文書としたものです。これにより、論語が孔子の孫弟子の時代に標準教材となり、広く普及したのが知られるということです。
 ところで孔子の「嘆きと絶望」は、早くも冒頭の「学而篇」の最初に顔を出します。「学んで時に之を習う、また説(よろこばし)からずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。」の二項目につづいて現れるのは「人知らずして慍(うら)まず、また君子ならざるや。」という心得です。前の二項が前向きの喜びであるのに対して、こちらには「君子とは、つらいものだ」という諦観の響きがあります。ちなみに私は高校のときにこれを「人知らずして慍(いきどお)らず」の読みで習い、自分の日記帳に墨書きで大書した記憶があります。
 孔子の嘆きを表現している個所として有名なのは「述而篇」の「甚だしきかな吾が衰えたるや。久しきかな吾また夢に周公を見ず。」です。これは孔子が理想の先人としていた周公への思慕の純粋さを表しているとするのが従来の主流の解釈ですが、著者はもっと素直に、理想を抱いて諸国を遊説して歩いたにもかかわらず志を得ず、生国に戻って老境を意識するようになった孔子の、「夢は夢に終るのか」と悟った絶望として受け止めたいようです。
 私たちが孔子の言葉から受け取るのは、人間の文明は「天」とともにある、一人でも道理をわきまえている者がいる限り、天は人間を滅ぼすことはないという力強いメッセージです。しかし孔子もまた一人の実在の人間でした。人の世で理想を実現しようとすれば、それは夢で終るしかないのです。人の世に絶対の完成はないのですから。
 
 キリスト死刑 孔子失業 釈迦行き倒れ

 これは大学時代にブライス師から教えられた川柳です。偉大な思想家たちも、誰一人として地上に理想の楽園を築くことはできませんでした。しかし夢を持つことなしに人生を成り立たせることは不可能です。孔子は川の水を見て、こうも言いました。「逝くものはかくの如きか、昼夜を舎(お)かず」と。