一昨日の菊田一夫の詩「庶民は政治というものを知らない」について、愚樵さんからコメントをいただきました。自分が「いいね!」を押した理由を、「庶民は知らない」が、庶民に対する見下しから出たのではなく、愛情から出たように詩からは感じられたから、と説明しておられます。そして最後を「『市民』が『庶民』を見下す限り、民主主義は内実の伴うものにはなっていかないだろうと、私は感じています。」と結んでいます。
 菊田一夫は、市民の代表としての自分の感覚が、庶民の意思表示である選挙の結果と大きく乖離したのを慨嘆し、民社党の幹部たちに「庶民はいつかきっとわかってくれる、ここで挫折せずにがんばってほしい」と呼びかけ、激励したかったというのが、私の理解です。しかしその後も、民社党の衆議院議席数が結党時の40を上回ることはありませんでした。
 民社党という政党の性格やその政策についての評価には、ここでは立ち入りませんが、「中道」をかかげた政策の福祉制度充実などは、結局自民党政権によって実現し、先導した民社党の功績に高い評価が与えられなかったのは、歴史的事実だと思います。地味な「正論」だけでは選挙に勝てないというのは、民社党の歴史全体を通しての悩みの種でした。
 ひるがえって、たとえば今の尖閣問題についての「正論」は何でしょうか。経済界で「言いたくても言えない本音」は、「あんな島、欲しがるんならくれてやれ、ゴタゴタ起こす損害に比べたら何でもない」だそうですが、おそらく正解に近いでしょう。しかし自民党総裁候補たちも、それに対抗する野田総理も「領土問題は存在しない」の一点ばりです。各政党からも「不確定の領土であることを認識して白紙から交渉せよ」という公式見解は出ていません。
 この問題に「庶民」がどんな反応を示すかは、政府の長年にわたる公式見解と、それに従順なマスコミ報道によって大きくリードされます。日本の武装促進やアメリカとの同盟強化をはかりたい勢力は、これに便乗して騒ぎを拡大しようとします。このとき「市民」はどうするか。
 結論から先に言うと、私は「庶民」が「市民」に近づくのが民主主義の成熟ということだと思います。多くの情報チャンネルを自ら探し、自分の生活に即して国の政策を批判できる人たちの数が増えることです。大震災や原発事故を契機として、そのような人たちが日本では飛躍的に増えました。日本の政治が立ち直る希望は、そこから生まれるしかないと、私は思います。 
 村野瀬玲奈さんのブログを見たら、「領土問題」の悪循環を止める市民アピール賛同人募集のご案内、というサイトの紹介が出ていました。