昨日の「麦と兵隊」の記事について、高江洲さんから「中国人が日本人の中に取り残されるとへらへら笑うのくだりは印象深い」とのコメントをいただきました。私もこの部分を読んだときに、敗戦後の「進駐軍」を迎えたときの日本人の顔を思い出していました。ジープに「ハロー」と声をかけてキャンディーを投げてもらった小学生の私たちも、似たような顔をしていたのでしょう。
 強者に敵意を持たれたら命が危なくなります。そのときに、ひたすらの「命乞い」よりも、追従の笑顔を見せた方が効果がありそうなのは、なぜでしょうか。おそらく笑顔というのは人間に独特のコミュニケーションであって、それを見せられると、ふと人間同士の親近感が浮かぶからではないでしょうか。警戒心を解かせる「無害証明」になるのかもしれません。
 人間には、競い合い、時には戦い合う性質があるとともに、助け合い協力する性質もあります。前者で役に立つのが決意や威嚇の表情とすれば、後者を象徴するものが笑顔と言えるでしょう。戦いに勝負がついた後まで戦いの表情をしていると「残敵」として殺されるが、へらへら笑えば、もう争うつもりはない、そちらの仲間に入れてくれというサインになる、ということは言えそうです。
 日本人はよく、困ったときに笑ってごまかすと言われます。私も空港の通関などで、わからないことを言われると無意識にそうしていることがあります。でもこれは、日本人に限ったことではありません。どこの国の人でも、言葉がわからないときはそうなります。ただ、日本人が総じて権威に対して従順で温和だということはあるでしょう。
 先日の当ブログで進化論に関連して、人類の繁栄は「強者の生き残り」であったのか「助け合いの強さ」であったのかという論点がありました。これを適用すると、笑顔は助け合いの強力なツールであったことは間違いありません。私は「助け合ったから繁栄した」説を好ましいと思いました。すると負けた場合は、へらへら笑って生き延びるのが正解なのです。
 ただし、反原発の運動では負けたくありません。負けてへらへら笑って、あちら側へ行くのは惨めだと思います。反原発は、日本人の争いではなくて、日本人の常識にしなければなりません。私は、本物の活動家は、対立の現場でも笑顔を絶やさないことに気がつきました。あれは「本当はみんな仲間だ、こちらへおいで」と誘っているのです。