昨日の「ハンナ・アーレントの『暴力について』」の記事に太田哲二さんから頂いたコメントで「国家機関説」という言葉が新鮮に感じられました。Google の検索にかけたところ、ウィキペディアにはこの項目はなく、似たものとして「国家法人説」の見出しが立っていました。民主制の下では、国家は国民の道具として役立つ「機関」であるのは当然だから、わざわざ項目にしていないのでしょうか。
 それにしては「国家」とは重々しさのある言葉です。近隣の独裁制の国では「国家反逆罪」に認定されると、本人ばかりでなく親族まで処刑される例が、今でもあるようです。民主主義を建前にしている今の日本でも、「国家秘密」とか「国家戦略」とか「あるべき国家像」といった名がつくと、なにか国民よりも上にあるような、えたいの知れない威圧感が出てきます。
 しかし落ち着いて考えれば、民主主義体制における国家は、国民の幸福な生活のために組織されるサービス機関であるべきです。国民に対して規範的な基準を示す場合でも、そこには国民すべての幸福のために必要であるという合意がなければなりません。歴史的に決まっている「国体」の護持が国家の使命であるといった固定観念で、国民を縛ってはならないのは当然です。
 そこで「国家法人説」をとるとすると、今の日本は「株式会社」に近いのではないかと思いました。国民のすべてが株主で、株主総会(総選挙)で代議員を選び、その代議員たちが執行役員を選んで国の経営に当るというわけです。会社ですから利益をあげて再投資し、経済を成長させなければなりません。順調に利益をあげられれば、社員として働き、かつ株主でもある国民に、給与や配当を支給することができます。ただし全員が「終身雇用」ですから、働けない弱者にも生活に最低限必要な保護は与えなければなりません。
 今の「日本株式会社」は、社員構成が高齢化しているので、先行きの見通しは明るくありません。そんな中で、依然として資本の集中に努め、社員(国民)相互の格差の拡大を放置しているのは問題があります。国際競争に勝ち残るためだというのですが、安定した中間層を増やす方向へ転換する時期に来ているのではないでしょうか。
 さらに国際紛争に対応することを名分に、「軍事・官僚特殊法人」を作ろうとしているように見えるのが気がかりです。第二次世界大戦の終了から70年近く、正規軍が宣戦布告して戦うことはなくなりました。戦争と名がつくものは、すべて中小国への軍事介入で、それで世界が平和になった例は少ないのです。株主がしっかりしていないと、今の経営陣は、とんでもない時代錯誤を始めるかもしれません。