昨夜から今朝にかけて放送された2本の番組を、一部は録画しておいて見ました。ペリリュー島の戦いは、孤島玉砕の一つとしか思っていませんでしたが、守備隊が安易な「バンザイ突撃」を避け、敵の消耗をはかる「長期持久戦」に転換した最初の戦場であったことがわかりました。1万名の守備隊と、攻める米軍海兵隊1万7千は、いずれも精鋭部隊だったとのことです。
 米軍のレイテ上陸の拠点として選ばれた島でしたが、戦闘が長期化するうちにレイテ作戦が始まり、後半では半ば「忘れられた戦場」となって、両軍の殺し合いのみが2ヶ月以上も続きました。日本軍の生存者は終戦後の投降を含めて約200名のみ、米海兵隊も、史上最悪の死傷率を記録したとのことです。洞窟にこもる日本兵への火炎放射など、「殺し尽くすまで抵抗をやめない日本軍」への戦法は、このあと硫黄島や沖縄でも繰り返されることになりました。
 長崎に投下された原爆は、核兵器の本命とされたプルトニウム型でした。アメリカとしては、ぜひ実戦で使ってみたい動機があったと言われます。この投下に際して、爆発の高度が問題でした。爆発の衝撃波が破壊力の主力になるので、なるべく多くの人を殺すには、高度何メートルが最適かということです。爆心地に圧縮された衝撃波と、上空からの衝撃波が合体して横に広がるマッハステムという現象が知られていました。最適の高度500メートルのとき、爆心から500メートルの地点から破壊力が最大となり、同心円状に広がるのでした。
 この500メートル地点にあったのが、鉄筋コンクリート製の「旧・城山国民学校」の校舎でした。当時は工場として使われ、女子挺身隊が働いていました。衝撃波は、爆発後0.9秒ですべての窓と一部の壁を破壊し校舎を突き抜けています。生存者は、ほとんどいませんでした。
 アメリカ軍は戦後ただちに長崎に入り、詳細な記録を残していました。そのとき部屋にいたすべての人の位置と、即死、事後死、生存の別および死因とを見取り図に示しています。全員に記号と番号をがつけられており、照合すると誰がどうなったかがわかるのでした。番組では、この取材で初めて親友の運命を知った人も登場していました。
 あくまでも科学的に効果的な原爆の使い方を研究して、その成果を記録に残したアメリカの、誰にどのような倫理的な責任を負わせるべきなのでしょうか。戦争が国家の事業として行われるかぎり、同じようなことは、これからも起こるのではないでしょうか。城山小学校の生徒は、今も登校のときに、保存されている旧校舎前の慰霊碑に礼をして通ります。この子たちが大人になっても、同じでしょうか。