太平洋でサイパン島をめぐる血戦が行われていたころ、ビルマ戦線ではインドの北東部に侵攻するインパール作戦が展開されていた。これはインドから重慶へ通じる「援蒋ルート」を切断するために企画されたのが本来の目的だったが、日本軍に協力してインド独立をめざす「インド国民軍」に活躍の場を与えるという大義名分もあり、日本軍最後の積極作戦として昭和十九年(1944)の三月に開始されていた。
 日本軍が全般的に守勢になった時期の作戦であり、空軍の支援も充分な兵站も期待できないことから根強い慎重論もあったが、イギリスの支配下にあるインド国民の独立運動を勇気づけ、作戦に呼応して内部から混乱が起きるのではないかという虫のよい期待もあった。これは「大東亜共栄圏」構想を具体化して見せる最後の作戦だった。
 この作戦には兵力としては九万名が動員され、日本軍は当初は予定通りに進撃したが、
イギリス・インド軍は守りを固めて日本軍の消耗を待った。日本軍に包囲されても空からの補給が充分にあり、逆に日本軍には空からの絶え間ない攻撃に対抗する手段がなく、食糧に窮して補給を求めても「糧は敵に求めよ」と返信されたと言われる。
 要するに南方戦線で何度も繰り返された密林の中で飢えて戦力を失う地上戦の失敗を大規模に再現する結果になった。七月になって作戦は中止されるのだが、帰還できた兵力は一万二千に減っており、最後はインド国民軍も裏切って戦線から去った。
 同じ年の六月六日、連合軍はドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディー海岸に上陸した。六千隻の艦艇と一万二千機の航空機を投入した「史上最大の作戦」と呼ばれる。事前に綿密な偽装工作が行われたため、守るドイツ軍は上陸地点の予想が外れたが、海岸では激しい攻防戦が繰り広げられた。それでも当日中に十五万以上の連合軍が上陸に成功して、占領地の拡大を始めることができた。
 ドイツ軍にとっては、長い間ソ連との東部戦線が「前線」であり、フランスは「後方」だったのだが、これ以後は東西両方から攻められることになった。ところで、この新しい西部戦線に参加した連合軍の一覧表を見るとその内容の多彩さに驚く。アメリカ、イギリスはもちろんだが、カナダ、自由フランス、ポーランド、オーストラリア、自由ベルギー、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、自由チェコスロバキア、ギリシャと十二ヶ国に及んでいる。文字通りの世界大戦であったことがよくわかる。
 二正面で戦うドイツは、第一次世界大戦と酷似した構図になった。誰が見ても、これで勝てるという予想はできないだろう。ほぼ時を同じくして、サイパン島を失った日本からも勝機は去っていた。勝負としては、もはや「これまで」である。