二十年近くも連続した順調な日本経済の発展の間には、沖縄返還、日中国交回復、田中角栄首相による日本列島改造計画、ドル・円の変動相場制移行、ベトナム戦争終結、国鉄民営化など、いろいろなことがあった。その間には何次にもわたって自衛隊の防衛力整備計画も進められいたのだが、国民の関心の中心は、なんと言っても経済成長に伴う生活の変化に向けられていた。アメリカの第一の関心事は、依然としてソ連との対立に負けないことだったから、安保条約による日米関係は相対的に安定していた。
 バブル絶頂期の日本の不動産価格の高騰ぶりは、「日本の不動産の総額で、アメリカが二つ買える」と言われるほどだった。サラリーマンが持ち家の相談で金融機関の窓口に行けば、日本中のどこであっても、土地さえ担保なら融資すると誘われるのが常識だった。株価は、昭和が終った平成元年(1989)の年末に三万八千九百五十七円の史上最高値をつけている。それが九ヶ月後には半額に暴落するのだが、バブルの渦中には誰もそんなことは知らない。異常の中では異常が通常になるのだ。
 この時代の日本人を象徴する言葉が「エコノミック・アニマル」だった。経済つまり損得の金勘定に価値観が特化して、文化、環境保護、人道支援、世界平和といった人類の普遍的な価値への貢献や関心を忘れてはいないかという、やや自虐的な響きもあった。経済大国になってはみたものの、国の進路はまだ見えなかった。
 そんな中での昭和天皇の崩御だった。前年の夏から天皇の病状は公表され、テレビ放送は娯楽番組を自粛するなど、国をあげての見守りムードとなった。昭和天皇は在位年数が六十二年あまりと、神話時代を除く歴代天皇の中でももっとも長かった。その前半人生は戦争の連続であり、前代未聞の敵国への降伏を経験した天皇でもあった。闘病の意識の中で、最後に去来したものは何だったのだろう。多くの国民が「天皇陛下万歳」を唱えて死んだことは、臨終の夢を乱さなかっただろうか。
 降伏してマッカーサーの指導下に入り新憲法を受け入れたことを、天皇は後悔してはいなかった。あの場合の判断としては、むしろ最善の結果を導いたとさえ思っていた。そもそも天皇には、自分が主役として日本の歴史を作ったという自覚はなかった。臣下の提言を裁可して行く中で、時として自分の感想を述べただけである。その意味では時代の流れの表面に浮かんでいたに過ぎない。
 それでも戦争犠牲者への哀悼の気持ちは、誰よりも強く持っていたつもりである。混濁する意識の底には、宮城前を埋めた日の丸の旗の波と「万歳」の声があった。天皇の死を待っていたかのように、日本のバブルは崩壊し、世界の激変も始まった。