天皇が代替わりした一九八九年の四月から、懸案だった消費税が導入され、買い物に三%の消費税が加算されるようになった。財務官僚は「これで国家財政百年の計が立った」と自賛したそうだが、庶民の暮らしには一円玉のやりとりという面倒が復活した。それまでは十円銅貨が事実上の最小通貨になっていたのだ。
 この消費税の導入は、政権与党の不人気を招いた。この夏の参議院選挙では自民党に強い逆風が吹き、初めて野党の当選者数が上回る与野党逆転現象が起きた。非改選の議員は残っていたが、参議院が「ねじれ国会」になる前兆だった。
 そして十一月になると、米ソ冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊するという、誰もが予想しなかった大事件が起きた。核兵器を構えてアメリカと対立を続けてきたソ連が、国力の限界を露呈して、ゴルバチョフの主導のもとに平和共存への転換を模索し始めたのだった。共産圏諸国を締め付けていた鉄の規律がゆるみ始めると、その崩壊には加速度がついた。東欧・バルト諸国では相次いで政変が起こってソ連圏からの自立を求め、ソ連の国内でもペレストロイカの名のもとに自由化の流れが始まった。
 鉄のカーテンと呼ばれ、永続的とも思われていた「共産圏」という名の壁は、それから二年のうちに消えてしまった。ソ連は独立国家共同体への移行を経て、ロシアという昔の名前の「ふつうの国」になったのである。国際世論はこれを共産主義の破綻であり、資本主義の勝利ととらえるのが大勢だった。しかし「共産主義は資本主義という未来を手に入れたが、資本主義は社会主義という未来を失った」という論評もあった。マルクスが生きていたら、スターリンのソ連を共産主義の実現と評価することは絶対になかったと思われる。あれは中世絶対主義の変種だと切り捨てたに違いない。
 一九九三になると日本でも大きな変動があった。総選挙で自民党が敗北し、非自民連合の細川内閣が成立したのである。ここで共産党を除くほとんどすべての政党が政権与党を経験することになった。野党歴の長かったベテラン議員が「国会質問で政府は……と追及しようとしたら、政府はオレだった」という笑い話が残っている。
 人気は高かった細川政権だが、寄り合い所帯の弱点を克服することができず、短命に終った。政局の混迷をつき、自民党は思いがけない奇手で巻き返しに出た。社会党の党首を首班に指名することで強引な連立工作を仕掛けたのである。そして「断るわけにも行かない」と応じた村山内閣が成立した。これが社会党にとって命取りになったことは周知の事実である。社会党にとって唯一の慰めは、戦後五十年の節目に総理大臣として発した「村山談話」が、今もアジア諸国への謝罪として生きていることだろう。