政府は21日の閣議決定で「共謀罪」の今国会への提案を決めたということだ。安倍首相が外遊で不在の間に閣議決定というのも不自然だが、「安倍主導」の印象を少しでも薄めたい意図がありそうだ。「テロ等準備」という言葉を入れ、オリンピックを安全に開くためとか、「国際組織犯罪防止条約」を締結するためにも必要などと説明している。
 しかしテロ組織を取り締まる法律が、現在なくて困っているという話ではない。「組織犯罪処罰法」(平成11年)があって、これはオウム真理教によるサリン事件などを契機として制定された。それ以前からの「破壊活動防止法」もあって、反社会的団体を規制している。今回問題になっているのは、「テロ等準備」の中に「共謀」という、行動ではない発想や話し合いといった「人の心の中」の問題が含まれていることなのだ。発想や会話の中でなら、人はずいぶん過激なことも考える。だがそれが直ちに危険ということはない。犯罪と呼ぶほどの事件を引き起こすまでには多くの段階があるし、社会への不満がバネになって、逆に途中から建設的な努力に発展して行くことだってある。
 今回、多くの知識人が連想したものに「治安維持法」の暗い記憶がある。「大日本帝国」の「治安維持」を名目として、自由な言論や思想までが取り締まりの対象とされた時代があったのだ。当時の体制の頂点には、天皇の絶対性があった。その典型例として「大逆事件の謀議」というものがあった。
 1910年(明治43)に、社会主義者が明治天皇を爆弾で暗殺する計画をしたとして摘発された「大逆事件」が起きた。実際に関与したのは5名だけだったが、これを機会に社会主義者、無政府主義者への徹底的な捜索が行われ、その範囲は数百名に及んだ。そして26名が計画に関与したとして起訴され、異例の速さで裁判が進められて刑の執行に至った。その際に適用されたのが、思想が同じだから「共謀」という認定だった。結果として24名が死刑の判決を受け、うち12名が処刑された。
 この場合は天皇の存在が絶対であったことが、「非国民の取り締まり」に利用されたのだが、天皇でなくても、国家の存在が大きくなっても似たような現象は起きるだろう。国家に盾突く不心得者の「共謀」ということになる。インターネットの現代では、「権威」は「多数の暴力」に置き換えられるかもしれない。
 自由な言論の空間を確保するためには、絶対の権威を作ってはならないのだ。ここで絶対と言うと、その絶対をも疑えという屁理屈も出るかもしれないが、この絶対は絶対である。何人も、他人の心を縛る自由は持っていないし、そんなことは出来はしないのだ。