総理大臣の夫人は公人なのか私人なのかが問題になっている。これを突き詰めると、夫婦とは何かという、かなり面倒な問題に直面することに気がついた。ふつう系図などを書くと、夫婦は同格で同じ場所に並んでいる。親族表でも同様なのだが、よく言われるように夫婦とは「もとは他人」だった同士であって、いつでも「もとの他人」に戻る可能性がある。しかし子供が生まれた場合は無視できなくて、系図にも残ることになる。
 これが王族だとすると「王家という身分」にかかわるから、配偶者も王族に加わるので、その身分は、たとえ離婚しても消せないし、そもそも離婚自体が非常に難しい。しかし結婚の意味は、昔と比べて軽くなる傾向にある。今では同性婚まで公認しようという時代になった。もし総理大臣が同性婚だったら、そのパートナーは公人なのか私人なのか、今よりも悩ましい問題になるかもしれない。
 自分の場合を思い出すのだが、仲は良かったから家を建てるときのローンなどは、ほとんどすべて妻が仕切っていた。銀行の担当者は「奥さんお留守ですか、そんならまた後で来ます」と帰ってしまうほどだった。私は最後の契約書に署名して実印を押すだけで済んだから大いに助かった。そんなふうに、安定した夫婦は社会的にも一体のものとして認識されていたわけだ。
 しかし基本はやはり、個人を尊重するのが本来だと思う。夫婦には不慮の死別ということもあるのだから、一方の人権をゼロにしてはいけないのだ。どんなに仲良しの夫婦でも「やっぱり他人だな」と思うことはある。指一本の痛みだって、そのまま共有はできない。最終的には「もとの他人」になって終るのである。
 そこで当面の安倍総理大臣夫人のことを考えるのだが、もともと「家庭内野党」という言葉が出るくらいだから、かなり個性的な人なのだろうと思う。それでも夫が日本政治の最高責任者に登りつめるまでの過程を身近に見て、支えてきたわけだ。かなりの自負と自信を持っているのは当然のことだろう。ただし法制の上では公務員でも何でもなくて、総理夫人として尊重されているに過ぎない。この「ファーストレディー」をどう扱うかについては、諸外国の例を含めて、安定した処遇のルールがないように思われる。対外儀礼などで同行する場合だけ公務として扱っているのではないだろうか。
 しかし世間一般では、総理夫人の言動は大きな意味を持つ。それは誰でも夫人を通しての総理への影響とか承認とかを、無条件に連想ないし期待するからだ。ここから、総理夫人の責任というものが生まれてくる。自分がよいと思ったことでも、それが夫にとって、あるいは社会的にも、必ず好意的に受け入れられるとは限らないということだ。私人ではあっても公人としての影響力を今は身から離すことができない。
 夫を助け国民からも敬愛された賢夫人として名を残すのか、からめ手から夫の足を引っ張った人となるのか、微妙なところへ来た。昭恵夫人を手がかりとして安倍政権を倒したいと願っている人たちも多いのだから、ここは気が抜けない。よそさまの家庭のことではあっても、気にはしている。