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 「まだこれから咲く梅があるよ」と娘が言うので気がついた。ほとんどすべて散ってしまった中に、これから咲きそうなのが確かにある。梅の花は、とっくに過ぎてしまったと思っていたから驚きだった。よく見れば、下の方にはまだ咲いている花が少しは残っている。しかし、これから咲きそうなのは、この一つしか見当らない。
 桜だったら、こんなことは起きないのではないだろうか。派手に一斉に咲いて、一斉に散ってしまうイメージがある。その「いさぎよさ」が、戦時中は「靖国の思想」に利用されたこともあった。今も東京の桜の開花予想は、靖国神社の桜で行われているらしい。
 それに比べると、梅の花は個性的なのだろうか。春に先駆けて咲いてくれるのだが、桜のような派手さはない。それぞれの木が、各自のタイミングで順に花を咲かせている感じがある。そして一本の木の中にも、早い遅いの個体差があるようだ。桜は全体主義的で、梅は個人主義的だと言ってもいいのかもしれない。
 中野通りは桜の名所で、中野駅前から哲学堂公園の横で蓮華寺に突き当たるまで、2キロ近くの並木になっている。しかも比較的に若くて元気のいい木が多いから、都内でも最長ではないかと、先日乗ったタクシーの運転手さんが言っていた。ただし地元の会社の車だから真偽のほどは知らない。その中野通りの桜が、きょう見たら咲き始めている。予想通りの4月1日は無理としても、数日のうちには花盛りになりそうだ。そうなったら、もう今年の梅のことを覚えている人は、ほとんどいなくなるだろう。
 一つの花のことを考えたら、親木が「国」のように思えてきた。日本が桜の木だとすると、国民は一斉に咲いたり散ったりするのが好きなのかもしれない。でも梅の花が桜の木で育ってしまったら、きっと悩むことだろう。自分のペースで咲いたり散ったりしようとすると、周囲から白い目で見られたりするのだろうか。しかしそんなことはあり得ないか。
 年度変わり、学年変わり、そして卒業・入学にも合わせて桜の季節はやってくる。私にだって、いろいろな思い出はある。小学校に入学した昭和15年(1940年)には、桜の散る玄関前で記念の写真を撮った。「支那事変」は始まっていたが、まだ国内は表面的には平和な時代だった。自分の少年期が、空襲に明け暮れる日々になるなどは、思いもよらないことだった。

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