菅官房長官の記者会見で、学校の道徳教育で「教育勅語」を教材として使うことは否定できないと説明されたとのことだ。教育勅語には「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ……」と説いている部分がある。そうした部分は大いに結構というわけだ。そういう「いいとこ取り」を認めるなら、「米英に対する宣戦布告」の詔勅も、「東亜永遠の平和」が目的だと言っているのだから、いいことも言っているということになる。文書の目的は文脈にあるのだから、個々の徳目がいいからOKというわけには行かないのだ。そこをすり替えて教育勅語の復権をはかりたい意識が透けて見える。
 「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ」のどこが悪いかと開き直られたら、返答につまる人もいるだろうが、徳目自体が問題なのではない。社会常識として誰がどのように教えてもいいものを、あえて「天皇の言葉」という権威で国民に命令し、国民がそれを守ることが「皇運を扶翼」(皇国=天皇の国を発展させる)道であると説いているところが問題なのだ。国民が、日常の道徳さえも国の決めた方針に従う「帝国臣民」になったら、為政者にとっては、これほど都合のいいことはなかったろう。
 この教育勅語は、戦前戦中の学校では、各学期の始業式の日に、必ず校長により朗読された。何度も聞かされたので、私と同年代の者は今でもほとんど全員が暗記していることだろう。全文をスラスラ言えなくても、一部を聞けばすぐにその前後を思い出す。老人の集まりでは、懐メロ扱いで思い出す競争になるくらいだ。それでも国民の批判精神を奪った画一教育の道具となった負の歴史は消えない。だから戦後の国会では、わざわざ「教育勅語の排除・失効」の決議をしているのだ。
 それが昨今の「戦前回帰」の流れの中で、復権をはかる動きが出てきた。教育勅語を全員で唱和する幼稚園があると話題になったが、教育委員会などが是正の勧告をしたといったニュースはなかった。黙認していていいのだろうか。繰り返して言うが、勅語にある個々の徳目が間違っているというのではない。それらの徳目を、天皇が教えた「国の定め」と権威づけて、忠君愛国の従順な国民を作るために利用した、その文脈を危険だと言っているのだ。それが今、国の決めたことには逆らわない、批判精神のない国民を作るために再利用されようとしている、それが危ないと言っているのだ。
 部分としては間違っていないからいいのではないかと言う詭弁は、その先に「もの言わぬ国民」をよしとする身勝手な「戦前回帰」を夢見ている。