きょうは「新聞休刊日」なので、朝の新聞が配達されない。この「休刊日」は、販売店員を休ませる、新聞社も製作システムや輪転印刷機のメンテナンスをするなどの理由で設けられているのだが、1956年までは年に2回だった。それがだんだん増えて、今は年間10回、ほぼ毎月1回のペースになっている。休刊日にはインターネット配信で補っている社もあるようだが、紙に印刷して人手で配達する新聞には、アナログのつらさがあるのだろう。そのうち土日を合併して、週6日制になったりするかもしれない。
 自分の生活習慣で考えても、新聞を読む時間はずいぶん減っている。以前は目を通していた社説、投書欄、文芸・文化評論なども、見ずに通過が多くなった。第一面に出ている目次のところで気を引かれる項目がないと、中を開かないまま朝食のテーブルから立ってしまうことも多い。そのまま忘れてしまう日が多いのだ。スポーツや社会面はめったに開かないので、世間で大騒ぎになっているニュースを知らずにいることもある。
 その代わりに毎朝パソコンを開くのは日課になった。まずメールを開いて緊急の用がないかを確かめる。大半が迷惑メールでも、毎朝の確認は欠かせない。それから自分のブログ、ツイッター、フェイスブックへの反応が来ているかどうかを見る。基本的に反応がたくさん来ていると張り合いがあって、そのまま返信を始めたりすると、あとは終りを限定しない「いつもの一日」が始まるわけだ。
 結論的に言って、今の私にとっては、新聞の休刊日よりもインターネットのつながらない日の方が、よほど影響は大きいだろう。情報源としてもそうだが、インターネットでは自分もプレヤーとして参加しているから、情報を受ける一方ではない「つながっている感」がある。この感覚が、一種の安心感になっていると思えるのだ。これは新聞に対してはあくまでも「一読者」であるのとは、根本的に違っている。
 ところが今、「昨日の新聞」を横に置いて考えているのは、新聞から伝えられる「言葉の重さ」ということだと気がついた。新聞の記事は、隅々まで厳密な選別・考証・校正を経て印刷されている。それは自分もかつてはマスコミに身を置いて、情報を発信する側にいたからよくわかる。そのマスコミの発信力が弱くなり、時にはゴミと見下され、信用されなくなっていることこそが最大の問題なのではなかろうか。新聞が書いていることも、ネット上では友だちの発言のように軽く見られて批判されたりしている、それはそもそも間違っているのではないか。
 新聞が書いていることは、友人の発言と同じレベルであってはいけないのだ。私も最近の新聞を軽く見下しすぎていたのかもしれない。新聞がおかしい記事を出したら、なぜそうなのかを本気で責任追及すべきだったのだ。今の世にもインターネットと無縁で暮らしている人は決して少なくはない。新聞が書いていることは本当だと思う人が多数派だろう。その責任を忘れるなと、新聞人を叱咤激励すべきだった。マスコミの大先輩である新聞を、今度はインターネットが立ち直らせて「恩返しをする」番が来たのである。