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 何が動機だったのかは思い出せないのだが、このところ長崎原爆のことが気になっていたので読んでみた。2009年初版・平凡社版の「ナガサキ・消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅)だが、文庫版も出ているらしい。著者は1955年生れで、私よりも22歳若い。この年代の人が、近年になって出してくれたことに感銘を受けた。たとえば私にだって、その気になれば書けたのではないかと思って反省したのだ。
 同じ原爆被災地でも、広島と長崎とでは、ずいぶん感覚が違う。夏の慰霊祭でも、まず広島があってから、ついでのように長崎にも立ち寄るのが取材者の旅だった。8月9日は、ソ連が宣戦布告して参戦した日でもあった。当時のニュースは、ソ連参戦のついでのように「長崎にも新型爆弾が投下されたもよう」と伝えていた。その「ついでのような投下」が、実際に「ついでのように」行われていたという記述内容は、衝撃的だった。
 広島のウラン型に続いて、アメリカ軍はプルトニウム型原爆の投下も用意していた。標的に選んだ都市には京都も含まれていたが、当日の第一目標は小倉だった。しかし視界が悪くて地上が見えないため、旋回するうちに燃料を消耗し、一時は「中止して帰投」がほとんど決定した。しかし最後に長崎に向かって「やり直しなしの一発勝負」を試みることになった。そこも雲があって、やはり中止かと思ったとき、雲が切れて地上が見えたので、やや通り過ぎた地点だったが投下したというのだ。もし中止していたら、日本は終戦工作を始めていたことだし、原爆は広島の一発だけで終ったろうと思われる。かくして爆心地は、軍港も造船所もない浦上天主堂の近くとなった。堂内にいた信徒は全員が即死し、会堂は垂直の壁だけを残して平坦な瓦礫となった。
 この報告を読んで、長崎を気の毒に思わずにはいられない。長崎の人々にとっても、さぞ無念なことだろう。そして、長崎の遺跡は保存されなかった。アメリカにとって、キリスト教会を破壊した痕跡は好ましくなかった。盛んな募金活動が行われて、教会堂の完全な再建が図られたのだった。
 長崎には平和公園に北村西望作の巨大な「平和祈念像」が築かれたのだが、著者はこれを意味不明と述べている。