きょうは新聞休刊日なので新聞が来ない。いつもの朝食時の新聞がないから、朝の時間がちょっと手持ち無沙汰になる。ぼんやりテレビを眺めながら、どうしてテレビには休日がないのだろうと考えたりする。新聞の休刊日については、以前に少し調べてみたことがあって、おもに新聞販売店を休ませるためということだった。日本の新聞は宅配が主流になっていて、販売店の意向というものが、かなりの力を持っているようだ。販売拡張の先兵になるのが販売店で、時々見本紙がポストに入っていて、しばらくすると購読の勧誘が来たりする。
 アメリカへ行ったときは、分厚い新聞が街頭で盛んに売られているのが目についた。宅配の料金が高いのかどうかは知らないが、新聞は街頭で買う人が多いと聞いた。日本では新聞は家に来るものと決まっているから、家庭婦人を意識した編集もけっこう多いのだが、アメリカの新聞は、あまり家庭向きには作られていないのかも知れない。
 それにしても、新聞には手ざわりからして人間臭さがある。活字や写真の並べ方でも、それを作った人間の息遣いが感じられるのだ。私は業界新聞の記者や割り付けをしていた時代があるからかも知れないが、朝の机で一目見たときの印象から、作り手の「気合」のようなものを感じることがある。その新聞の性格も、その「顔つき」に、何となく出てくるものだ。
 ところが今は「忖度」の世の中である。新聞が政権の顔色をうかがって、批判精神を忘れているとも言われる。そういう不満には大いに根拠があると私も思う。挙国一致、大政翼賛に近づいていると言われてみれば、そのようにも見えてくる。その悪しき実例は、戦時中の「戦争協力の道具と化した新聞」の姿だろう。当時は、どの新聞も同じようなことしか書かなくなっていた。
 今の新聞で辛うじて個性を感じられるのは東京新聞だろうか。日経をやめて東京新聞にしたのは正解だったと思っている。一日休んだだけでも、きょうの夕刊、あすの朝刊は、新鮮な気持で読めるかもしれない。