地震は突然にやってくる。自然災害にもいろいろある中で、地震には信頼できる予報が確立していない。突然にある時どんとやってきて、その後に長く不可逆の影響を残すのが地震の特徴なのだ。大きな地震があると、その前と後とでは、世の中が一挙に様変わりしてしまうこともある。今朝8時ごろの「大阪府北部地震」では、震源地近くでは震度が「6弱」と発表された。東日本大震災の際の東京では震度が「5強」だったが、それでも私の家では、目の前のテレビが棚から落下して壊れるのを、見ているだけで止めることができなかった。「6弱」ではそれ以上だから、学童と老人など、3名の死者が出たと報じられている。
 地震への対策というのは面倒なものだ。自治体が配ってくる防災ノートなどを見ると、「停電・断水になっても、3日間は生活できるだけの備えをしておくように」などと書いてある。娘たちは、震災の直後はそれに合わせて準備をして、私も小型の防水型貯蔵庫を買って、自転車置き場の隅に備えて置いた。あえて戸外にしたのは、家が崩壊しても、家の外なら取り出して使えると思ったからだった。いまこれを書きながら、忘れないうちに中身を点検して、食品などは期限が切れないうちに消費して、入れ替えをしようと思っている。
 地震というと思い出すのは私の父のことだ。父は国民新聞社の記者時代に、1923年(大正12年)の関東大震災を経験している。ちょうど便所に入っていて戸が開かなくなり、「開けろ開けろ」とドンドン叩いて怒鳴っていたということだ。その後、壊滅した東京市内の状況を見て、鎌倉に住んでいた社長の徳富蘇峰の自宅に向かって歩き続け、誰よりも早く到着して状況の報告をし、新聞発行継続の相談などをしたと聞いている。しかし国民新聞社は震災による打撃が大きかったため、これ以降は有力紙の地位を失って行くことになった。東京以外に拠点がなかったのが弱みになったと言われている。
 それでも戦時中になるまで発行はつづいて、父は退社して自営業の「野ばら社」を創業したたあとも律儀に「国民新聞」を購読していた。題字の下に小さな国旗を掲げ、その日の丸にだけ赤インクを使っているのが特徴だった。いまウィキペディアで調べてみたら、国民新聞はその後の紆余曲折を経て、その流れは現在の「中日・東京新聞」に合流していると書かれていた。父がもし今も生きていたら、東京新聞の購読を続けていたに違いないと思う。