昨日の「沖縄平和の日」に寄せた相良倫子さんの詩の中に

(なぜなら)未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

 という部分があった。そのことと、今朝のNHK−Eテレ「こころの時代」で聞いていた「”豊かな終わり”を見つめて」という、終末医療の話とが、しっかりと結びついた。今朝の徳永進医師の話には、訪問医として多くの老死を看取ってきた人のやさしさと、そこから生まれる威厳とが満ちていた。そこにあったのは、限りない「生きることへの讃歌」であったと言ってよい。中学3年の少女に満ちている活力は、そのままの形で生涯を終わる老人の中にも生きているのだ。
 まことに、人は生きるために生まれてくる。この地上に、なぜ生命が生じたのかは、現代の科学をもってしても説明が難しい。ただ一つわかっているのは、生命体は生きることを前提として生まれ、生きる過程で子孫を残した上で、個体は必ず死を迎えるということだ。今は未来であり、そこには死を内包している。その危うい「今」に自分が存在していて、ほかの誰でもない「自分」であるとは、なんという奇跡なのだろう。
 前出の詩のテーマは「生きる」だった。作者の少女も、生まれたときには自分が生まれたとは思っていなかったろう。ただ思いっきり大きな泣き声で「生まれた」ことを宣言し、周囲の人たちを喜ばせただけだったに違いない。しかし生きるに従って自分が生きる意味を考えるようになった。そして生きる途中で有無を言わさず人を殺してしまう戦争の、罪の深さを知るようにもなったのだ。この詩の朗読は、彼女にとって、人としての第二の誕生の産声だったと言ってもよい。だから私たちはその誕生を心から喜び、同時に感謝の念を抱くのだ。
 「つまり 未来は 今なんだ」
 この言葉は、若者だけでなく、死を身近に感じている老人をも勇気づける。