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 町内のゴミ出し場になっている当家の隣家の塀前には、昨日まで古傘やスプレー缶など、不燃ゴミに出したいらしいものが数個並んでいた。掲示してあるゴミ出しのルールによれば、月に2回、第一、第三の土曜日だけなのだが、これが徹底せずに何となく置いていく人がいるらしい。時間がたてば、いずれは収集されてなくなるのだが、近所に住む者として目ざわりではある。
 それで朝のうちに貼り紙を用意してみた。通りかかった長女に「持ち帰って下さい」じゃなくて、『ましょう』にしたところがいいだろう」と言ったら、即座に「おおっ」と言って賛同してくれた。これを書いたとき、サッカーの会場で日本のサポーターが自分たちの使った席からゴミを拾い集めて持ち帰ったのが、美談として伝えられたという海外ニュースが頭にあった。ここの町内も、案外いけるのではないか。
 そして「当り」になった。「ましょう」と呼びかけられたことで、他人から言われるのでない「自分のこと」になったのではないか。ゴミを置いた個人がすべて持ち帰ったのでなくてもいいのだ。持ち帰るのがいいと思った人がいてくれたことが嬉しい。
 ところが同じこの場所で、私は失敗したこともある。
 「ゴミはゴミを呼んだ失敗例」
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55601091.html
を見て頂けるといいのだが、善意のゴミ引き取りが、わが家にゴミを集めてしまった失敗もあったのだ。 この二つの違いは何なのだろう。誰だって他人のゴミに手を触れたくはない。ゴミが「他人ごと」であれば、自分が出したものでも、置いて手を離した瞬間から「路上のゴミ」でしかなくなるのだ。つまり「自分のこと」という感覚を失ったら他人事になる。その「わがこと意識」を持続させるのが、「ましょう」の呼びかけなのではあるまいか。
 だが同時にこんなことも考える。役所からのお達しに「みんなで守りましょう」などと書いてあったら、ちょいと嫌味ではないか。そこは「ご協力をお願いします」だろう。自発性のさわやかさは、あくまでも自由な空気の中にある。人は、人から好意を示されることで、ますます「良い人」になって行く。

追記・この貼り紙が出ていたのは、ほんの30分ほどの短時間でした。