今年最後の連休の最終日、孫の運転、長女と次女、そして私という珍しい組み合わせの4人で、草加まで行ってきました。長女と次女は、交代で主婦役を勤める場合が多いので、二人が同じ行動をするというのは、最近は少ないのです。しかし草加というのは、二人が生まれ育ち、小学校の卒業までを過ごした土地です。この二人が揃って行ったことで、互いに古いことを思い出して、意外に盛り上がるのを実感しました。
 日当りのよいテラスハウスという、環境のよい公団住宅でした。そこで私たちは、結婚して2年後の1960年(昭和35年)から1976年(昭和51年)までの16年間、幸せな日々を過ごしたのでした。その始まりは私のNHK在職中であり、その後の退職と家業への復帰、そして紆余曲折を経て、自立自営の基礎を築くまでの期間を含んでいます。いま高層住宅が並ぶようになった風景に昔の面影はありませんが、娘たちにとっては、育ち盛りで経験したさまざまの場面を思い出す手がかりが、いたるところに残っているのでした。

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 車は安心できる駐車場に入れ、昼食をはさんで3時間近くも自由に歩き回るうちに、娘たちにとってこそ、草加が「ふるさと」つまり生まれ育った土地であることを実感させられました。たとえば学校前の文房具屋さんとか、何とない家の表札を見て歩くうちに、「これは○○君の家だ」とか、「この細道の形を覚えてる」とか言い合いながら、姉妹の会話が発展して行くのでした。
 妻、つまり二人の母親がいたら、話はもっと弾んだでしょうが、それは仕方ありません。それでも草加の地で暮らした日々が、私たち家族にとって幸せに過ごした成長期であったことは、まぎれもない事実なのです。いろいろある中で、みんなが覚えていた映画館(もうなくなっていた)での1コマです。当時人気のあった「ピンキーとキラーズ」の映画を見ていた時、画面で恋人同士が「ここでお会いするの何度目かしら」と言ったとき、長女が思わず「三度目だよね」と教えてあげて、場内が笑いに包まれたのでした。

 いつかある日

いつかある日
私が死ぬことになったとき
何十年かの一生を思い出して
結局人生とは何だったのだろうと
自分に問うてみたときに
答える言葉よりも先に
すばやく目の前に現れるもの

それはあたたかい冬の日
縁側で遊ぶ二歳の娘を抱きしめ
「パパかいしゃバイバイ」と
手を振って別れた朝の
写真のよう動かない映像
そしてその中に
自分が写っていることへの
絶望的ななつかしさ

私は「できることならもう一度」とつぶやき
そこで私の一生は終る
かもしれない

(昭和39年(1964年)12月10日作・「愛それによって」より)
(注・当時はNHKで制作現場の仕事をしていましたから、出勤時間の基本は、午前11時でした。ゆったり出かけて、電車も空いているので快適でした。)