私の実家の「野ばら社」で、社長を勤めていた兄の志村文世(ふみよ)が、昨16日の朝に没しました。93歳でした。老衰および肺がんの進行もあったとのことです。会社の関係者の方から、ご好意の第一報が入り、その後、母方の親戚を経由して、会社からの「訃報」を転送していただきました。
 通夜は21日(水)午後6時〜7時
 告別式22日(木)午前10時〜11時
 式場は上野・谷中の天王寺(日暮里駅東口すぐ)
とのことです。
 志村家のきょうだいは五人おり、長兄は早くに亡くなり、文世が次兄で、その下に姉が二人で、私は末子でした。下の姉は今は消息が知れず、残っているのは、森脇姓の上の姉だけになりました。
 兄は昔の典型的なエリートコースをストレートに上った人で、府立四中から一高に入り、東大では旧制大学の最後の学年としてインド哲学科を卒業しました。ただしその専門を生かす就職をすることはなく、実生活では頭の良さを生かして税理士として信頼され暮らしていたようです。
 そして父親が亡くなったときの相続をめぐる壮烈な裁判劇を経て、結局は兄が野ばら社の経営権を引き継ぐことになったのでした。このとき私は、亡父の意思が、死後に至るまで私たちを拘束して、きょうだいを争わせているような、不気味にも不思議な感覚を味わったことを覚えています。そしてその争いの中から、私はいち早く逃げ出して「自分の城」を築くことに専念したのでした。ですから私の中には、「野ばら社を兄に押し付けて自分は自由になった」という、後ろめたさに似た感覚が、今も残っているのです。
 そのほかに、私には絶対に忘れられない貴重な思い出があります。それは国民学校を卒業し武蔵高校尋常科に入学するまでの春休み(敗戦翌年の混乱期で、非常に長かった)のことで、中学になれば絶対必要だからといって、英語と漢文の個人授業をしてくれたのでした。毎日、前日に習ったことを覚えているかどうかを確かめる試験を最初にする、じつに厳しい教え方でした。しかし、英語の発音をカタカナで書くことを厳禁され、発音記号を覚えたことは、私の生涯の財産になりました。教材は四中時代の教科書だったと思います。私は入学してから半年の間、英語と漢文のテストで100点以外の点数を取ることは決してなく、空襲続きで勉強できなかった心配も、完全に吹き飛ばすことができたのでした。
 そんな兄が、もう帰らない人になってしまいました。兄は子供を残すことができませんでした。昔、ペスという犬を、子供のように可愛いがっていたことを覚えています。
 冥福を祈るとは、いったいどういうことなのでしょうか。あなたの人生は幸福でしたか。兄は、きっとこう言うと思うのです。「ああ、俺かい、俺はこれでいいんだよ。余計な心配するな。」
(兄と私の力関係がどんなものだったか、一つの印象的な場面を以下のブログに書いたことがあります。)
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55593394.html